協同総合研究所 所報 「協同の発見」第8号 1992年6月 
<研究会通信>第8回「労働組合運動と協同」研究会1992年4月23日明治大学

国労運動からの教訓(社会的主体の形成について)

 国鉄における労働現場というのは労働者集団(必ずしも「労働組合」と同じではない)が多くの主導権を発却していた。その範囲と内容は、昇格・昇給に闘し当局の裁量を小さくする方向での協定化や各現場の非公式な独自ルールによる弱者救済、作業ダイヤ・乗務行路の決定、車両検修職場などでは労働者が異なった作業を循環するルールの策定、年休の相互調整、職場行事の企画に至るまで広範に渡っていた。これらはその現場内に限定されていたとしても、年功制、平等、自治の方向性を持っており、安心して長く働こうとする「労働者」にとっては「良い職場」だったと言える。

  それはもちろん与えられたものではなく、各現場の献身的な活動家や働きやすい職場を願う一般組合員が歴史的に作り上げてきたものである。
  しかしその体制が「分割・民営」戦略により崩壊していく過程で様々な限界、問題点が明らかにされた。それは、向分たちが統御しようとする範囲が自明のごとく対当局の範囲、「企業」内の編成に限定されてとどまり、それを超えて社会的な場に自分たちが統御の主体として登場しようとする意志(ヘゲモニー)、連帯性は編成されていなかった、ということに集約される。仕事自体が連帯的であることが充分考えられていなかった。「企業」を超えた外側の社会は「政治」という別の領域で制御されるものとされ、そこへの期待と介入の手がかりが「労働組合」の行なう「選挙運動」などであると思われていた。

  一方、国労が対立してきた、生産性向上運動の理念に賛同するタイプの労働組合運動や企業経営者の思想も、いかに「業績」を上げるかという点に最終的に従属してしまうので、企業性を超えた連帯が見い出せず、業績向上が幸福につながるという予定調和の論理循環の中をさまよっている。

  この状況を越えるにはこれらと別の規制を「対置」するのではなく、現在の規範を「無効化」する戦略こそが必要である。オルタナティプとは現在の圧迫感ややりきれなさについて徹底的に考えることでそれらを支えてきた自明性が解体し、脱皮するようにおのずからもうひとつの道が見えてくるということではないか。

  職場における「辛さ」、当局への「不快感」を、経済的困難(賃金の不足)、肉体的困難(仕事のきつさ)、不可抗力(企業業績への従属)などに還元して足れりとするのは、「労働者とは・・・・・だ」 という形の規範的知識からの理解だ。そうではなく、身体への拘束、仕事内容を決定できない無意味感、辛さ(アメリカへ輸出する車は国内向けより安全に設計してあった、それを毎日製造する労働者の心はどんなものか。その車を彼の友人が買って乗るのだ。仕事が互いを傷つける)、こうしたまさに支配・被支配の関係の中での日々の濃淡や屈折を問題の中心としてあらためて見すえたい。「辛さ」 の感受の中にはすでに別の生き方をしたい欲望が含まれているからだ。
  その欲望は規範性による決定から共感性による決定へ転換しようとする。それは人を支配しないし支配もされない関係であり、管理労働と作業労働の宿命的分離という説への疑いでもある。それは仕事内容の相互性により、企業という分断を超えて互いにささえあっている「我々」という価値の発見であり、だからこそより良く生きるためにどんな仕事が必要か人々と決定し、その時障害となるすべての制度・概念は、不断に変えていこうという意志なのだ。それは連帯を本質とする新たな主体性の生成であると同時に自前の新たな社会像の生成でもあるはずだ。「経済的制約」と呼ばれるものですら、たとえば「企業業績」とは、企業の輪郭線の引き方や会計制度で黒字にも赤字にも変化させられるような関数概念にすぎないのだ。