天皇の人権問題について論議を

       2001年12月

 
朝日新聞社 企画報道室「私の視点」係へ投稿し不採用となったものです。
 
***********************************************
 
 天皇の人権問題について論議を
 
 皇太子夫妻に念願の赤ちゃんが生まれた。この新しい生命の誕生という、どんな人にとっても希望を与えてくれる出来事を、私も喜びたい。
 しかし、私にはどうしても手放しで喜べない思いが残る。それは、この度生まれた赤ちゃんも含めて、「天皇」や「皇族」として現在の日本国憲法と法で定められている人々は、私たち「国民」には規定されている「人権」の範疇外にあるとしか思えないからだ。
 実はこの疑問は、30年以上前に中学や高校で、日本国憲法や様々な人権宣言を勉強して以来、ずっと心に引っ掛かっていることなのである。
 もしも、ある人が、その生まれだけを根拠にして、選挙権もなく、職業選択の自由もなく、居住の自由もなく、自由な発言もできないとしたら、それはとんでもない差別、人権侵害だ、と誰もが言うのではないだろうか。しかし、天皇や皇族にはそのどれもが保証されておらず、特に天皇や皇太子にはその地位からの離脱さえも認められていない。生まれだけを根拠とするこのような権利の制限は人種差別と同様ではないのだろうか。いくら国家がその生計費を負担し、報道では最大級の敬語をつけたとしても、その人が日本国民であれば当然憲法で保証されているはずの諸権利が侵害されていることに変わりはない。むしろ、彼への国庫支出や敬語によって、人権侵害という事実を、逆に国民からの敬愛の現われだ、と思いこむような倒錯さえ起きているのではないだろうか。
 確かに、世襲で継がれる職業はたくさんある。しかし天皇制の場合、世襲を規定しているのが私的な取り決めではなく国家の構成自体を定めた憲法や法である点に問題が集約されている。私たちは憲法を制定することによって私たち自身の権利や義務を定めそれにより国家を構成するのであるが、その構成の中に、諸権利を保証された自分たち「国民」と、それとは別に「象徴」と呼ばれる「非・国民」の一族を規定してしまうことにより、国家の力強さを損なってはいないだろうか。自分たちに定めた諸権利を一部の人には認めずに平然としていれば、自らに与えた諸権利についても軽んじたり、他の国民の権利を侵害しても痛みを感じなくなってしまうのではないか。  私は、「人権」とは私たちが自由に自らの人生を築き上げていけることであり、そのために必要な社会的条件を整備するための人々のつながりこそが国家だと思っている。一つの国家を維持するため我々には国民とは別の存在としての天皇制が必要だ、というのなら、そのような犠牲を必要としてしか国家を形成できない「自ら」を恥じるべきではないだろうか。天皇と自らを同胞であると思うならば、憲法を制定する主体である私たちは、「非・国民」として規定された象徴天皇制は廃止し、同じ国民の一人として彼を迎え入れるべきだと思う。
 45年の敗戦まで我が国の女性には選挙権がなかった。1789年の革命後高らかに人権を宣言したフランスでも、女性参政権の実現はその150年後だったという。人々の自由な生き方が少しずつ広がっていくそのような歴史の外側に天皇制を置くべきではない。この問題についてはこれから多くの方々の意見をお聞きしたいと思っている。
***********************************************
以上


諸論考の目次へ戻る