協同総合研究所 所報 「協同の発見」第18号 1993年9月 <特集・労働組合問題全国交流会から>

第1回労働組合問題全国交流会
1993年7月25〜26日於:岩手県花巻温泉
共催:日本労働者協同組合連合会・協同総合研究所

 

雇う・雇われるの関係とは?

 
 自ら出資し自ら運営し自ら働く労働者協同組合だから、雇う・雇われるの関係はないのだ、と自動的に言えるのだろうか。というのが一番大きな疑問です。雇う・雇われるという支配・被支配の関係は生産手段の所有関係からでなく、その運営において生まれてしまうものだということが旧ソ連圏やユーゴスラビアの事例から明らかだと思います。労働者が所有する企業といっても、たとえばレーガンやサッチャーが支援したESOP(従業員持ち株計画)で生まれた企業のように、「みんなの会社なんだからみんなで自主的に頑張ろう」、などと、いわば究極の労務管理手法として位置づけられてしまう場合もあります。(もちろんそれらも今後変貌していくと考えられますが)
 事業団においてはそれらへの傾向を、「徹底民主主義」と「良い仕事」「まちづくり」という観点から回避しようとしてきたと言えると思います。決定過程では徹底的な意思疎通と納得をはかろうという態度、また、自分たちが儲かればよいという「企業エゴ」でなく自分たちもしてほしい仕事、望まれている仕事をしようという、この二つの運動態度によって、事業団は支配・被支配の関係を生じさせないようにしようとしてきた、と理解します。ですからそれらがきちんと機能していない場合、いつでもただの「従業員持ち株会社」に移行する可能性も潜んでいるのだと。
 雇う・雇われるの関係というのは、みんなで出資した、法律的な雇用関係がない、みんなで決定した、というような形式をもって、「従って、そうした関係はここには存在しない」などと宣言できる性質の問題ではなく、ある人たちがある人たちを、何かの操作対象として見てしまう、またある人たちが自分たちは何かの道具として扱われていると感じてしまうときにはいつでも出現している現実の関係性そのもののことだと思います。自分たちが主人公であるということは、「雇われ者根性の克服」という言葉を覚えることによってではなく、日常的に団員間で(あるいは対外的にも)相手を操作対象としていないか操作対象とされることに甘んじていないかという自己点検によってのみ成立(維持)できるものだと思います。
  しかし、相手を操作対象として考えてしまうことは、主に事業団のいわば外から貨幣という制度、納期などといった条件をどう事業団の現状と接合するかという課題・問題からやってくるように思えます。それはまさに普通「経営」と呼ばれていることですが、企業の内部と外部をどう接合・編成するかを企画立案するその作業は、確かに現在それ特有の専門性を持ちます。そしてそれらの条件(貨幣や資本の権力)をも私たちは変成していくのだという意思統一が事業団員になければ、その接合作業は、企画する者とそれに従う者という対立を必ず生み続けてしまうものだと思えます。
 そうしたいわば労働者協同組合の核心でもある、経営や作業行程の決定過程を、「徹底民主主義」と呼んでいるわけですから、その十分な機能の保証こそが制度的にも必要なように思いました。
 委員会報告にあったような、事業団の外に組織化などの任務のため労組を構想するのは、もともと運動体でもある事業団を事業体と運動体に分割するようで不自然に感じられます。どんな問題がありそのためにどんな機構が必要かと考えるべきであって初めに労働組合ありきではないはずです。
 私は、労働者協同組合の最も中心的な"志"は、「支配・被支配の関係でなく人と助け合って生きていきたい」、というものだと思っています。そうであるならその志は民間会社で働く人も、すべての人も共有可能のはずです。事業高の拡大という方向だけではなく、そうした労働者協同組合の思想の深化拡大こそが重要だと思いました。
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