「我々」という編成に向けて

 

〈主体〉、〈個人〉、〈私〉、もうそのようなものには飽き飽きした。
ただ〈論理〉だけが、それらの構成を分解し、その彼方に、新たな〈主体化〉の〈力線〉による身体を生成する。
それは知識ではなく、日々の生活の中での直接性から導かれる 固有の、しかし人称的ではない、行為である。
語る/書かれる、声/言葉によって、というより存在自体によって、それはどこまでも届く。
〈自立〉した〈個〉ではなく、また、循環する〈自己規定〉でもなく、〈生成する集団性〉こそが、疾走する〈力〉であり、〈ここにあること自体〉の〈喜び〉であった。
このWebページでは、任意でもあり、また固有でもある、或る《私》、の経験と思考が開かれる。
それは具体的な生活における苦闘を、M・フーコー、J・ドゥルーズ、F・ガタリあるいはニーチェ、スピノザといった風によって
加速し、 《我々》という編成に向かい胸を高鳴らせているのである。

 東京都労働委員会 待合室 (都庁第1庁舎南塔34階)から 西方を望む  (1996年)
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