季報唯物論研究 第82号 2002年11月  特集「21世紀と唯物論の存在理由」

  


物質をいかに内在化するか

                            
 「唯物論」という語を「対象」にして何か語ろうとすると、ある困難さのようなものを感じてしまうのは、「唯物論」という語があまりに多義的に使用されているから、だけではなく、そのようにあらかじめ存在するものとして「唯物論」を名指すことによって思考が固着を引き起こしてしまい、そのような状態は物質概念の可能性、あるいはその人が「唯物論」という語に込めようとする可能性と矛盾するからではないだろうか。
 そこで、現実生活に関するいくつかの解決技法あるいは思考技術といったものを示し、それが、現在の言葉の弁別体系の中ではちょうど「唯物」論と呼ばれるべき位置を占めうるものであることを示したい。

1、普通名詞の弁別体系が持つ多重性を識別し、その生成主体としての「我々」を確信すること。

 実体顕微鏡下に田んぼの水をすくい上げ、そこに見えるいくつかの透明な輪郭や動く手のようものを確認した私の甥が、「ミジンコが泳いでいるよ」と言ったとする。その言い方、すなわち「ある主体(ミジンコ)が、ある動作(泳ぐ)をしている」という形式、で表現された現象は確かに私たちの前に現存する。そのミジンコの身体をさらに諸器官に分節化した理解においてもその形式は変わらず、「遊泳剛毛」や「消化管」を動かしている、あるいはそれらが動いているあるひとかたまりの何か、ある輪郭性、「ミジンコ」という生の主体、への「目撃」という形で陳述は成立していく。しかし、それら、透明な体の動きの、その「動き」自体に注目したとき、その動きはある細胞、あるいはタンパク質レベルでの機械的な機序であり、ミジンコだけでなくその周囲の水とも一体となった系の中で発生する「動き」となり、ミジンコという主体輪郭はそのレベルでは成立しない。さらに、分子レベルで見れば「遊泳剛毛が動く」という表現自体が成立しなくなるだろう。これらのことから次のようなことを導き出せる。
 世界理解のためには、いくつかの、限界づけられた有効性を持つ異なる弁別体系が必要であり、それぞれの弁別体系は独立しており、特定のどれかの体系が他を規定したりするものではない。しかしまたそれは諸体系の無限階層性(自然は汲み尽くせない等の言い方)や、諸体系の無関係性を意味するものでもない。いずれの弁別体系であれそれを可能にしているのは言葉であり、言葉は「我々」が生成したものである以上、諸弁別体系の要には未分節性としての「我々」という(複数性でありながら唯一の)エネルギーがある。それは、それぞれの弁別空間を成立させる母体のようなものとして、内在性として、確信されるものとなる。(スピノザやネグリならマルチチュードと呼ぶところである)。
 今、ミジンコの運動について述べた男の子の唇の形、肺からの空気と声帯で作る振動、夏の夕方の大気、私の鼓膜、なども、個体の枠組みを超えたものであり、その男の子が生まれる前に死んだその父親の身体を形成していた物質も含めて、全ては、「同じもの」である(言い換えれば唯一の、この、全体性だけがある)という抽象へ向かう横溢性(分解性)で通分されていく。ある弁別体系が自らを成立させ陳述するために内包していた諸項目の輪郭は、横溢してくる別の弁別体系によって分解・無効化され、その弁別体系の自明性を一旦失うことによってこそ自らを豊富化できるのである。そのような弁別体系の変成(再編成)、普通名詞の絶えざる位相変化を最大限に加速するには、諸体系の自明性から完全に縁を切り、諸言説の生成主体として自らを作動させている未分節性の動力が必要であり、そのような未分節性を対象的に指示するとき、従来、それは「もの」とか「物質」とか呼ばれてきたはずである。  

2、生物としての作動空間と、様々な分節空間との距離を測定し、接地すること。

 戦闘地域以外で戦艦に燃料を補給することは戦争行為ではない、という言い方は、戦争を禁ずるという規則の中にありながら戦争への動員を現実化するための技術として生成されているが、その技術は基本的に弁別空間の多重性の活用である。「戦争」をめぐる弁別空間は「アメリカ」、「アフガニスタン」、「日本」などといった諸主体輪郭間の対抗という枠組みの中でのみ組上げられていく。名付けられ自明化された諸主体が登場単位であり、それらの主体は(自明化されているために)構成分節に分解されず、そのためそれら諸輪郭を横断する項目を生成できないまま、諸輪郭の激突、勝敗、強弱、消滅、分裂といった力学的陳述だけを引き起こす。しかし戦争の中での実質行為は、ある水準では、燃料を補給する、機械を修理する、引き金を引く、などという諸行為としてしか分節されず、またそれらの弁別規則は「戦争」空間内の対抗諸項目が持つ個体化的・力学的な弁別規則とは独立である。そこで、この二重分節を利用して、だからこれらの行為は「戦争」ではないのだ、少なくとも人を殺すということとは別のことを遂行したのにすぎないのだと主張し、そのことによって戦争の実質を遂行しようとするのである。このやり方は日常のありふれた光景であり、欠陥商品のデータを隠した社員は、私は命令に従っただけで、ただパソコンのキーを押しただけだと主張するだろう。
 このような技術を無効化するためには、我々は諸々の行為の可否、良い悪いの判断を、四肢による個体的所作の分節空間でではなく、我々の身体感覚、体幹の動態における分節空間で行なうべきだろう。すなわち、「戦争」のターム:激突、支配、圧殺、接近、服従、等々や、「愛」のターム:投入、包容、重ね合わせ、支配、服従、等々の分節において、諸行為を判断していくことである。 それにより、その時々変形する局所的な論理座標への参照によって自らを責任から逃避させ続けるような身体を排し、倫理的な主体様式として生き抜く身体を得ることができるだろう。  

3、知を自らの存在に適用すること。そう努力すること。

 今また多くの悲惨を招き入れている、国家、あるいは民族といった諸項によって規定される自明性の主体は、我々を生物として、あるいは「もの」としてみる別の弁別空間によって横断され、別の線分で識別される別の主体様式を形成することができる。知というものをこれまでの人類の生成物として認め、それらの整合性の上にのみ「我々」という主体を創出しようとする限り、銀河系や太陽系、地球の生成、現生人類の発生と地球上への展開、といった理解は、それを学校の試験のための知識ではなく、自らの生に適用(接地)する限り、国家や民族という概念による主体化を不可能にしてしまうはずである。すなわち、様々な国家や民族や個性が「共生」するのではなく(なぜなら共生という言い方は弁別される個体を論理の前提としているが、そのような絶対的な個別性、言い換えれば自明性の輪郭、に止まることを知は排するからである)、それらの民族や国家という個別的な自己規定(主体様式)の生成をその歴史の一場面に持ったことがある、そのような一つの「我々」だけが存在するのである。
 地方自治体レベルの選挙に外国人が参加できるかどうかという議論において、国家と国民のトートロジーを愛撫しながらいきりたっていた反対派の思考群も、地域という同一性によって「外」国人との共生を唱えていた思考群も、ペルーという現実の国家では、地方政治どころか、大統領自身が日本国籍であった、という事実の前に沈黙してしまったように見えた。その事実を自らの思考に組み込んで、自らの思考を深化させようとした風には見えなかった。二重国籍の大統領、あるいは、無国籍者の現存、というのが国家・国籍をめぐる現実である。そこから出発しようとする思考は、逆に国家と国籍の一対性という架空の物語から始めようとする思考と弁別されるにあたり、架空に対する実体の優先、としての、唯物論、という名称の引き受けも辞さないだろう。       

4、全ての位置に自らを代入すること。そう努力すること。

 たとえばマルクスが資本論の序文で、「資本家」や「土地所有者」という概念について、それは経済的諸範疇の人格化に過ぎず「個人」は諸関係の被造物だ、と宣言することは現在でも重要性を失っていない。自治体の業務を民間委託することで人件費を削減する、というニュースにおいても、ではその削減された人件費で働く人は年収いくらになるのか、それによってどのような生活ができるのか、なぜそれがよいことなのか、その施策を決定した人の、あるいはニュースの原稿を書いた人の年収はいくらなのか?という疑問からは、「生」をめぐる現在の臨界点が見えてくる。日々の金に苦労している者はこのニュースを自らの生活を拘束する抑圧と受け止める。そうでない者は、「経費は少なければより良い」、というノルムを含むある空間内での整合性として首肯する。もちろんこの分割線は様々なところに引かれ、固定していない。軍需産業の経営者は転職可能なそこの労働者より、自らの産業の繁栄、すなわち軍需の増大を、それによる自らの収入の確保、家族の幸せ、をあらゆる手だてで求めようとするかもしれない。新聞記者は顧客企業の広告入稿金額を考慮するだろう。それが、現在、経済と呼ばれる支配的な規則であり、その規則による活動が、別の空間では全く別のことを引き起こしている。それらの諸主体の行動は互いに受け入れがたく、解きがたい対立が幾重にも重なって見える。この、お金をノルムとする諸主体の限界づけは、別の分節空間でのみ分解可能である。借金の返済に窮した殺人という結節は日々の食事という物理的な水準の確実な保証によってしか解体することができない。地上に何でも願いを叶えてくれる都合の良い神様がいない以上それは我々が自らに対して集団的に保証するしかないものなのだ。経営者の強欲も欺瞞も、労働者の怯えも無責任も、同じ規則への従属に属するが、それを分解するためには一度、生物としての、ものとしての存在規則から、それらの「経営者」や「労働者」という分節の作動規則を自覚化することが必要なのである。そして様々な位置に配備された様々な諸主体の行動規則をもすべて「我」のこととして内在化可能なのは、「我々」が、同一の基盤上に現象しているものであるからに他ならず、その同一基盤を指して言うのに適当な語は、「物質」という語以外にないだろう。
 また、何らかの機会で得た世界へのある理解を、自らに適用してみることは、ちょうどビル建設工事現場のタワークレーンが自らの力でマストを継ぎ足してクライミングしていくのに似ている。パート労働者に均等待遇が必要であることを述べた新聞会社の見解は、月曜日に載っているその新聞会社への派遣労働者の募集広告(短大卒以上でPCのできる二八歳位までの方、日給八四〇〇円、一年契約で最長三年まで更新可能、等々)という自らを映す鏡と出会うことによって、さらに理解が深まるだろう。記者にとっても読者にとっても。
 また、「わが同胞」に酷い仕打ちをした隣国の非情への怒りは、一度その仕打ちの「具体性」に戻ることにより、歴史的にそれと「同じ」ことを受けた「敵側」の誰某に自らを代入することで、「わが国家」の「正しい私たち」の身体による作動とは別の身体感が開始できるだろう。この代入手法は「自分たち」は同じものであるという理解によって成立しており、それには人権や、自由といった架空の共通項も活用できる。たとえば、基本的人権という語を普遍的に実現されるべきものとしてとらえ、自らに対しても職業選択の自由、居住の自由などを規定し、出自により自らの選挙権が剥奪されるなどとは想像も出来ないというのならば、どうしてその人は、それらすべての権利を奪われた特定の一族などというものを規定するその国の憲法を放置しておけるだろうか。現在、天皇制と呼ばれている日本国憲法の規定への各人の見解は、それぞれが主張する自由や人権がどの程度のものなのか、くっきりと示すことになるだろう。
 かつて私が国営企業の労働者(鉄道員)だった頃、私たちのストライキについて悪法も法なり「違法スト」だ「国賊」だと徹底的に批判してきた人々が、同じ国営企業のポーランドの造船労働者たちが我々のちゃちなストライキなど児戯に等しいほどの大規模違法ストライキを行ない始めた時、にわかにポーランドの彼らを英雄であるかのように言い始めた時、はっきり私は思い知ったのである。現在日本で違法ストを攻撃する者たちは自分が日本にいる限りポーランドのストライキを声高に支援するが、彼らをポーランドに移行させれば絶対に彼らは違法スト実行へのおびえの前に(悪法も法なりと唱えながら)沈黙するだろう、そして日本で違法ストを行ない賃金差別を受けてきた我々こそがそのストライキに加わってしまうだろう。逆に、日本のストライキに反対する者たちに英雄視されたポーランドの労働者を日本に移行させたら、彼らは我々と共に日本の違法ストに突入してしまうに違いない。「社会主義・共産主義陣営」と「自由主義陣営」などという薄汚れた言葉で引かれた分割線は虚構であり、現実に存在していたのは、今それぞれの「現実」に対して挑んでいける思考の脈路をもてるかどうか、という分割線だったのである。
 結局「唯物論」はある党派性を指し示すのではなく、このような、現実を生きるための批評的技術を整合的に名指す場合に選択されるべき名称の一つにすぎないように見える。
 


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