季報唯物論研究  第71号 2000.02

 

自体性の知――徹底した唯物論について

 
 かつて、小学校や中学校で歴史の授業を受けるとき、密かな疑問としてずっと心に沈んでいたのは次のようなことだった。もし、これから五千年も経ってしまったら、その時の子供たちは歴史の授業に何百時間使ってもまだ「現代」にたどり着けなくなってしまうのではないか? これまでもそしてこれからもあまりにもたくさんのことが起き、積み重なり、年表の項目は増加するばかりなのだから・・・、と。
 しかし、そもそも、江戸時代の奇妙な法律、生類憐みの令についてさえもその時の様々な文書や事例は膨大なはずで、ましてや現在に近づくほど出来事はその年月日と微細な輪郭を際立たせているのだから、諸事項の積算という五千年の未来方向で起きた無限累進への恐怖は、現時点への微分という方向でも引き起こされるはずだった。歴史が「事実」を正確に記録しようとすれば、ほんの一年分であってさえいくら長い文章を費やしても表現しきれないのではないか、と。「すべて」を「正確」に表現したいという欲求、すなわち「説明」欲求は、ある未表現の「事実体」というものを対象物として想定し、それへの漸近線として「表現内容」というものを想定している。しかし、表現(内容)と表現される対象(もの)(真実)、という弁別構造自体がむしろ、「正確」に表現しようとすればするほどその不確実性に陥り、対象と表現との一致不可能性という結果を必然的に導くのである。このことは、微細化を形式化するために「数字」を表現に導入してみると容易にわかる。「彼女はほほえんだ」という表現を「ある事実」への表現として考え、その事実をより正確に表現するためとして、「彼女は唇の両端を××ミリメートル持ち上げた」という言い方を導入したとする。××が0から10の間の数字であるとしても、さらにいくらその可能範囲が狭まったとしても、数字表現としては可算無限の多様性が可能であり、具体的な文字で確定は出来ない。たとえ分子や原子の大きさという階段状の数値を導入してそれを回避できた事にしても、直ちに、その時の唇の色は? 等という新たに追加され、そして結局は無限累進していく問いの数々に応答しなければならないために、不確定性は失われず、「対象」と「表現」(説明)は永遠に一致できないのである。これは「事実」と「それを表現する言葉」という二重性を分割設定したこと自体によって内包されてしまった原理に過ぎない。「記号」という分節化された論理格子によって、そうではない非分節的な連続性として想定された「事態」を「説明」する、すなわち両者を対応づけようとする、そのことの、原理的な不可能性が露呈しただけである。*  
 この不可能性を巡っては二つの対応が可能である。一つは、この、「事実」とそれを「表現」する活動という二重性を維持したまま、二元論として調和させる方法である。もう一つはこの二重性という関係を廃止することで、この不可能性(アポリア)も同時に廃することである。二元論を保持する前者の方法の中では、@「認識」は「事実(もの)」自体へは近づけないのだ、Aいや「認識」によって「事実(もの)」は構成されるのだ、あるいは、B「事実(もの)」という、「認識」を越えた存在を認めないのはけしからん、といったバリエーションが可能であり、それらが主に十九世紀から二十世紀初頭にかけて行なった論争も残されている。これらはいずれも「認識」と「事実(もの)」という一対の分節を自明性、先験性としてうち立てており、必ずその神秘化された「事実(もの)」の対極には「意識」や「認識」、そしてその主体であるたとえば「人間」、という項目を持って成立していた。特に最後のBの立場は「唯物論」と自称し、「物は、われわれの意識から独立に、われわれの感覚から独立に、われわれの外に存在する」(レーニン『唯物論と経験批判論』国民文庫)、という言い方で論争に挑んだ。これは当時の被支配者であった弱い立場の者が、闘争に勝利するために、敵の主体が持つ認識・意識をも超えている「物」という超越性が存在するのだということを「真理」としてうち立てることで、その真理をつかんでいる自らは彼らの諸認識、諸意志を凌駕した優位性であると主張しようとした、戦略的な立論だったと見なすべきである。しかし、唯物論という自称にも関わらず、基本的には意識性と物質性という二元論の中に留まって一方の優位を主張しているに過ぎなかったために、この「真理」は、敵・味方はもちろん、主張している自己の意識自体に対しても、意識と物という二元論の枠組みの持続と、その中での「もの」の優位性を効かせることになった。要するに、意識・認識等はそれと弁別されてのみ成立する「もの」との抽象的な一対関係に入り、その一対性が、「私は『もの』に規定された意識・認識である」という被規定感を伴う体感、すなわち「自己意識」の体感となって「唯物論者」を支配したのである。意識は「何か」に規定されているものとして生きられることになった。そして、他者の意識も常にそのような被規定物として、指導されたり、非難されたり、庇護されたりして、矯正され続けなければならない対象物となったのである。現実の諸関係において現前してくる様々な脈路の展開、接合、発展への歩みは、超越的な外部である「もの」の神秘性、抽象的な「もの」の規定力によって無化、封鎖された。「もの」が、意識である自己との弁別によってのみ成立する抽象的な規定力である限り、それは容易に他の抽象的な規定力=支配力、たとえばその「革命運動」の盟主の規定力、と交換可能であり、実際、ロシア革命の命運はそのように推移したのではなかったか。クロンシュタットの水兵や左翼エスエルや多くの農民をレーニンやトロッキーが殺し、スターリンや毛沢東、ポル・ポトが粛正をしたそのことを、個人的な資質ややむを得ない状況、あるいは手段の誤りといったもののせいにすべきではない。「A対Bの対立の中でAの錯誤を指摘することはBを支援することになるはずだ」、という勘違いで一喜一憂する者がいるかもしれないが、それは世界を二分割して天秤に掛けているつもりの、無気力な観客状態が引き起こす反応にすぎない。いずれにせよ、現在すでにこの自称「唯物論者」たちによる支配はほぼ終わっており、われわれが今闘っているのは、もっと精緻で融通無碍でもある資本主義の公理群、各人の自己意識の中に服従を折り畳ませる技術、「自発的」な服従という支配装置である。そこでは「自由な自己意識」というのが支配の必須要素であり、その「主体」こそが自らを服従させていく行為体なのである。そこでは各人が「この行為を選択するしかないのだ!」あるいは「これが私個人の好みだ!」と諸行為を合理化していくその「脈路」こそが闘争の主戦場であり、それはもはや全生活領域に拡大している。その自己合理化の連鎖の狭間であらゆる悲惨が軋んでいる。
 自称「唯物論」においては、「もの」に規定されているということから自由を失うはずの自己意識は、奇妙な言い方で「自由」を与えられていた。自然的な必然性=法則を洞察してそれを利用することが「自由」なのだというのである(エンゲルス、レーニン)。法則という、やはり外部の、「真理」、外在性に従うことで自己は自由になれる、というのは、これまた、自らを規定する何ものか(社会的法則性?)に従うことが天国への道というわけで、独裁者製造にはおあつらえ向きの真理様式の主張ではある。結局これらの「唯物論」は二十世紀以前の思考様式なのである。なぜなら二十世紀の思想の特徴は、思考に使用される、言語、記号というもの自体が関係性の中で生み出されたものであり、その生成脈路自体への分析を組み込まなくてはもはや思考は不可能だということへの自覚性だからである。しかし古い「唯物論」では、事物(もの)、意識、これらの項目は初めから外部に置かれていた確乎たる輪郭を持つレンガへの名称のように取り扱われ、それらの概念自体が分析・解体できるものであるなどとは想像だにされていないように見える。現在の我々はこれらの言説をもはや考古学者の目でしか読み進むことは出来ないだろう。
 しかし、唯物論はこのように命運が尽き過去のものになったのではない。全く別の唯物論が可能であり、それは、意識と物質、あるいは表現と事実、という二元論の中の一方に軍配を上げる「唯物論」ではなく、真に一元論としての唯物論の構築である。その唯物論は徹底した唯物論(ラジカルマテリアリズム)とでも言うべきもので、お定まりの物質と意識の関係で言えば、徹底的な物質の専制下に意識を置きながら、その自由を導くのに何らの物理的不確定性なども必要とせず、むしろ完璧な必然性のもとに意識は置かれるが故に、意識は自由であることしかできないことを実感する、というものなのである。
 「すべては必然である」、という規定からそれは始まる。もしすべてが必然であるならば、「私が何をやっても世の中は変わらない」、と寝ころぶことも、「私がこれから犯す悪も必然であって私のせいではない」、と考えることも、「いや、それは変だ」、と考えることも、すべて必然であり、あらかじめ定められた等価物だということになる。すると奇妙な結論が導き出されることになる。必然だから、という理由付けによる言説、必然だから正しいのだ/仕方ないのだ、という言説が成り立たなくなってしまうのである。すべて必然なのだから、これは仕方ないといいわけをしていたとする、するとそうではなく今ここで自分が「仕方がない」のかわりに全く別の突拍子もない行動を始めようと決意したとしてもそれも必然になってしまうのだから、結局、いっさいの外在的な理由付けによって自己の行動を合理化することを拒否されてしまうのである。世界は全面的な必然性であるという規定はむしろ、これは運命なのだから、というような外在的な理由付けによる自意識の活動を不成立にさせ、驚くべきことに、完全に自由に自己を構築していくべしという倫理性しか導かないのである。この論法、すなわち、ある世界大にまで拡張された最強力の規範性の構築手続きから始まり、すべてをその支配下に置くことで、それ以後は、世界内で起こるいかなる事柄もその支配下の必然性であるから、自らの行為には外在的ないかなる善悪の根拠付けも出来ず、自由と倫理性のみが登場してくる、という思考様式、「すべてが必然であるから、私は自由でしかない」という形式への覚醒は、けっして珍しいものではない。十七世紀のスピノザや、十三世紀の親鸞にもこの論理形式が見いだせる。
 この徹底的な唯物論は、表現内容とそれに平行する事実、という二分割・二重性も廃止している。それは、話す、書く、といったことを、記号の水準ではなく一つの事実性として理解しており、世界にあるのはそのような「活動」だけであるという一元論を徹底化している。そこでの「事実性」とは、古い唯物論と観念論の場合のように記号と対応づけられるのを待っている外部の死んだ体ではなく、今、この白い上質紙と黒いインクの自体性に直立する、非分節的な、生きている固有体である。それはこのインクや紙の成分分析などあらゆる精緻化の陳述によってもなお、それら記号的陳述空間には絶対に閉じこめられず、むしろそれらの記号による陳述を生み出し続けているもの、絶対的な内在性、主体でしかないもの、〈我々〉と呼ぶしかないもの! なのである。このような非分節性(連続性)から、記号であれ何であれ形あるものを選出する過程は不可逆的である。この不可逆性を根拠にして(なぜなら、形への選出(産出)はまだ分節化されてない連続的な世界が持つ絶対的な必然性に従って実現したものなのだから)、新しい唯物論はすべての表現(陳述や行動)に対してそこにあらゆる世界内の脈路がすでに畳み込まれているのを見る。したがってそれらの表現活動に対して新たに加えられていく徹底した唯物論者(ラジカルマテリアリスト)の活動は、先行する諸活動を単一の「意味」に対応づけることなく、それら諸活動の磁場から誘発されるあらゆる方向線(ベクトル)・脈路を導き出し、それらを増強しあるいは屈折させ、新たな結合体を産出しようとするのである。人類の歴史を総体として自己の歴史と感じられるようになることの喜びは(ニーチェ『悦ばしき知識』ちくま学芸文庫)、そのような唯物論者のものとなるだろう。
 さて、数千年後の歴史の授業を心配した後、子供心は、きょうあの子が学校に来なかったことや、きのう私が美しい虹を見たことを、「歴史」は記憶に留めないだろうことに、そればかりか大人になった「私」自身がこの授業の情景さえ忘れてしまうだろうと思えることに、ふるえるようなせつなさを感じたかもしれない。しかし、それはあるかけがえのなさ、ここに存るということの唯一性に感銘を受けた瞬間なのであって、そのような覚醒自体において、「現在」は持続するのである。歴史が、起きたことを積算していくデータベースではなく、私たちがどのようなものであるかを規定する知であるならば、百数十億年もの物質進化の中で、わずか一行で、それを了解した! と言いうる方法も可能なはずでなくてはならない。その地点からこそ、未来への構築に向かう、力強い身体の自由は可能なのである。徹底した唯物論(ラジカルマテリアリズム)はその道を開く。それは対象物への説明ではなく、思考するもの自体を変容させていく、自体性の知=力である。
 

*この原理を利用し、自らが認めたくない「歴史的事実」を不確定化して、結局不確定なのだから存在しなかった、と言うのがいわゆる歴史修正主義の技術である。したがって、「事実」と「表現」という二分割・二重性の設定は彼らの核心であり、この二分割・二重性が続く限り彼らは生息する。

 

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