協同総合研究所 所報 「協同の發見」1991年12月 第4号

協 同 す る 欲 求

 1987年の国鉄分割民営化は私にとって大きな転機でした。その過程への再考が、労働者協同組合運動の具体的実践への共感に繋がっています。
 今、当時の運動から次の様な事を考えています。


1 )「仕事」と「雇用」とは全く別の空間に属する。
私たちが組合バッチを付けて「仕事」をすると当局から処分されるが、列車は異常なく動き、輸送という「仕事」は完遂されている。この場面で「仕事内容」から浮き上がってしまう処分という余剰の力こそ「雇用」の意味だ。「雇用」なしに「仕事」はあり得る。


2 )「雇用」は支配・被支配を結果する権力関係そのものである。雇う・雇われる、すなわち当局の「労働者を操作する」という主体と、組合の「当局との対時」という主体は、力を介して循環するー対であり、ー方が次第に強くなって片方が消滅するという変化はあり得ない。この主体形式において、組合=反支配のベクトルは、次の両極の間にしかない。
@「当局が行なおうとする」力の発動への反発という一点においてすべての施策に反
対し続け、対峙の強度のみを内容とする自己確信に空洞化していく(その自己は無力感や孤立の恐怖と表裏だ)。
A逆に、当局の種々の論理(貨幣ノルム、その他、人間はどうしたら働くか等々)、に服従し、その論理内部における 「程度の争い」をもって個々の施策における内容的な妥協だと誇
る。一見激しく対立するこの二つの路線は、他者を、また自己を、構図内の配置・道具的に認識している点で当局の思想と同型である。


3 )この閉塞した権力空間を超出するという事は、当局との対峙関係において輪郭をもつに過ぎなかったこれらの主体形式とは別の主体に遷移するという事である。その過程は、「大衆」や「支配者」といった項目が配置された構図の中での思考ではなく、集団的自己である 「大衆としての自己」 を自覚化する事でありその内在的力動をもって行なわれる。それは、力による、力、権力に関する分析であり支配・被支配の苦痛、現実の中に契機がある。それは、自分の仕事の内容においてその自然的、社会的意味は何か、現存する全ての物は人類の成果なのになぜ一部の人間だけがその使用方法を決定できるのかという問から始り、人々と協同して、支配・被支配でなくひとつの我々として生きていきたいという欲求、力に至る。だからその力は、男、女、子供、病人、全ての人間に向い、「仕事」による協同はその一局面に過ぎない。


4 )「自分たち」で「皆」で「すべて」を決定するというのは、「恣意」で、物理的集合形態で、全てを議論し、決めるという意味ではなく、膨大な人間活動の分担の中において、各人が自らも人も道具として扱う事を拒否して考え行動していく、そういう思想・共同主体の自己生成力を意味する。


5 )お金で生活を組織するという事は、現在まで人類が形成してきた支配的なルールになっている。今すぐそれに従わない事はできない(赤字は出せない)としても、この貨幣とか、賃金制度とか、所有について、それが何であり、どうして私たちの共に生きようとする欲求を妨げるか、を考える方向に開いていなければ、窒息してしまう。ある事柄について「これは変わらない原理だ」と宜 言する事と、「これはいつかは(あの世では?)変わるのだ」と信仰する事とは同じだが、その事柄の仕組、その力の働き方を理解しつくそうとする態度は、それらと決定的に違う別の生き方なのだ。


6 )人々と共に世界を作り上げて生きていきたいという欲求、生命力は、あらゆる領域で支配・被支配の隙間から、様々な形で流れ始めているのではないか。おそらく個人という概念、自分たちという概念を全く変えてしまうだろうその流れに、私もそのーつの流れとして合流したいと思う。