「フォーラム21」No.33  1995/5/15 掲載

メディア上の身体(下)

アルバイト・スチュワーデス報道の接線

※「スチュワーデス」という言葉は2023年においては死語であるが、執筆した1994年時点での使用法に沿ってそのまま表記する。

 

Vさまざまな論理スペクトル

 運輸相の発言を受けて日本航空がアルバイト・スチュワーデスの採用見合わせを発表した九四年八月一六日以後のマスメディア上での言説はいくつかに分類することが可能だ。

 まずあげられるのは、ある「権威」対「私たち」、実際に使われた言葉で言えば「官」と「民」の関係、という対比構成を設立し、その中で、これは「民間企業への行政の過剰介入だ」、「規制緩和」に反している、という主張の様式である。すなわち、「私たち」へのある「権威」による侵犯、という像が持ち出された。これは運輸相が、言うことを聞かない会社には増便の際に差を付けるぞ、という恫喝と共に発言したことにより、その恫喝を成り立たせていた「監督官庁」対「被監督企業」という対比構造に反射して、この問題をそのような意味での官と民との「対抗性」として組み立てる脈路がまず映し出されたのである。(後に運輸相は恫喝部分を取り消さざるを得なくなるのだが)。しかし同時に、運輸相発言のこうした対抗的、攻撃的構えは、このアルバイト・スチュワーデス導入の話題を以前から何の批判的見解もなく目前で流れていく既定性として、<スチュワーデス>と<アルバイト>の出会いの特異性にのみ着目して、「ニュース」を生成してきたそのようなノルム(慣行規則)への不意打ちとしても出現したのである。そのことが、こうしたニュース生成ノルムを生きてきた諸主体にとって直接的な自身への攻撃性、自身にとっての対抗性として運輸相発言を受けとめさせ、より頑なにこの「官民対立」という表象、その介入の不当性という脈路にこだわらせた。そのため、この反発力によって、介入の不当性の検証(言い換えればそれまでの自らの姿勢の正当化作業)に思考のベクトルは吸引されてしまい、自分たちがそれまで気づいていなかった女性に対する雇用差別や進行中のパート雇用化の問題群との切片が運輸相発言に含まれている、という思考方向への転轍はブロックされてしまったのである。

 当初運輸相が反対理由として「『身分が違うスチュワーデスが同乗していると、緊急事態のときに精神的な一体感に欠け、チームワークが働かない』という安全上の理由」(朝日0824)をあげたことから、それへの単純な反証が介入の不当性(無根拠ないいがかり)を証明するとみなされしばらくはそれに熱中するのがみられた。初め、運輸相の言うことは突飛な「精神論」でありたやすくそれは反証できると思われていたのである。

 それらの反証として様々な人から活発に繰り返された発言は−−後で一つ一つ検証するが−− 三つに収束している。それは、@「専門家」が安全に問題なしといっているではないか Aすでに外国人スチュワーデス(という身分の違う人)が働いているではないか Bアルバイトでは安全を保てないというのは現在アルバイトとして多くの職場で働く人々への差別だ、の三つである。リストラによる人件費削減としてのパート化は自明視され、逆に女性の客室乗務員=スチュワーデスの保安要員としての働きは限りなく抽象化されて、もはやそのような言葉としてだけ残るにすぎなくなる。

 ある種の思想にとっては、こうまでして、運輸相の言説によって入れられたひび割れ、水漏れは、とにかく塞がれなければならなかったのである。

 1 官と民

 「官」の過剰介入だという主張は、具体的には次のようなものだ。

 「監督官庁の強権をたてに突然の計画撤回を迫った運輸相の手法には問題が多く、航空行政に大きな傷跡を残した」(朝日0817) 「航空関係者からは『行政が民間会社の経営権に介入するような越権的行為で、規制緩和に反するのではないか』と反発する声も上がっている」(読売0817) 「日本航空が民営化されたというのは誤報、規制緩和も夢という話なのでしょうか」(元日航社員作家男 朝日0817) 「この問題の重要な点は、新内閣の重点課題であるべき行政改革・規制緩和に逆行して、行政の長である大臣自身が必要以上の企業干渉をしている点である」(投書会社役員六二歳男 朝日0827)

 こうした新聞会社の発言の他に、日経連の永野会長の「パートでもアルバイトでも職場ができるのはいいことだ。運輸大臣は困るかもしれないが、進めた方がいい」日航は「ずいぶん素直だな」(朝日0820)という発言も含まれる。日経連会長の言い分は、九四年一月に工作機械製造会社の「オークマ」が定年年齢を五六歳に引き下げようとしたのを労働省が六〇歳に戻すよう指導したことをめぐる彼の批判発言の方が端的に主旨を表している。『この不況で会社がつぶれるかもしれない。何とかしなくてはと経営陣が必死のリストラ策を講じているさなかに、経営の足を引っ張るような介入がおこなわれていいのか』(赤旗0127)。いくつもの声がユニゾンで重なる。「規制緩和が必要なときに、とんでもない逆噴射発言だ。民間会社である日本航空には、安全を第一とした上で自らの経営方針を貫く自由がある。運輸相と運輸官僚は、その自由をどう考えているのだろうか」(朝日天声人語0820) 「正社員として採用すればリストラ計画に狂いが出てくる。時給制や年間契約に固執すれば運輸相が納得しないだろう。しかし、運輸相に経営責任はとれない」(朝日0817)

 これらは、現在の規制緩和論や反官僚論を唱える主体性=自己意識が何におびえ、どんな慣習的行動規範を持っているか、また、何に自らの支えを見出しているか、を示している。

 今回政治家の「民間」への介入を批判した永野日経連会長は別の所で公共料金の値上げ反対を唱えていたのだが、その彼の発言は公共料金で収入を得る企業経営者からは次のような言い方でかみつかれていた。「財界の代表者が他企業の経営に口を出すのはおかしい。もし予定していた値上げができずに赤字経営になったとき、責任を負ってくれるのか。なんなら永野さんと公開討論をしてもいい。−−住田JR東日本会長」(朝日0707) 年間一千億円からの黒字経営を続ける企業が、赤字になったら云々という理由付けで、その場合責任をとってくれるのか、と言っている。これは、リストラのじゃまをした運輸相は責任をとれるのか、という言い方と全く同型である。

 企業経営の順行ということがまず決定的な自明の規範である。いまは、それがどのようなことがらであるのかはおくことにしよう、ただそれが「自明性」、すなわちそれ自体について思考されることのない領域、をなしているということ、これらの主体が、そうした決して思考されえない領域を内包して初めて成立しているものであること、それだけを確認しておきたい。次に、反論として行われる、お前は「責任をとってくれるのか」という言い方に着目せざるを得ない。日常生活でもこれはしばしば出会う戦術である。君はこうすべきじゃないか、ああした方がいいよ、気持ちよく説教しているその人に、突然説教されていた男が反転する、いくらお前が俺のことをああだこうだ言っても結局お前は責任とってくれるのか? 俺のことは俺が責任負うしかない、お前は俺のことに責任なんかとれるのか!、と。この、弱い者が一挙に強者になったがごとくの反転は、誰も介入できない単位としての独立した「個人」、「自己」、「主体」という基体の設立とその前面への打ち出しによって、相手の「意見」の脈路をすべてブロックする。そして、単位として規定したという原理上、相互の関係においてはいかなる「他者」もこの「私」について関与できないという関係しか持たないそのようなものとして、「他者」と「私」という一対を生成したのであるから、要するに他の誰もこの「私」について「責任」など取りようがないのこの「私」の行為は既に「私」が決定した所のかくかくのごとくするのが妥当である、という、結局は自己同一性の確認=自己循環の結論へと導こうとする戦術なのである。そしてその場合の「私」=「自己」とは何らかの自明性の行動ノルムを含んで成立したものであり、(この場合それは企業経営の順行ということだが)、それに反すると思われた場合だけ彼はそのような不可侵の「自己」「個人」「主体」を打ち立てて、闘争するのである。

 したがってそのような「自己」、「主体」などと呼ばれる空間は、<自己>という項とそれを規定しようとしてくるある別の<項>との一対性(この場合<民>と<官>のカップル)によって初めて成立している空間であり、そこに登場する二つの項は磁石の両極のように片方だけでは存在できないものである。規制緩和、「官」という規制力からの「解放」による「自由」、という 筋書き(ファンタジー) は、「官」と「民」という一対性が前提であり、 くびき としての「官」が存在し続ける限り希望としての「自由」の歌は永遠に歌い続けることができるはずである、そしてまた、そのような主体様式である限り、規定力としての「官」を消滅させることは絶対にあり得ないのである。なぜなら「官」の消滅とは、対極の「民」=「自己」の消滅でもあるからだ、それ故、 くびき からの解放を歌い上げる「自由」の歌は彼の終わることのない 十八番(おはこ) になるわけである。*1

 ここに登場する、日経連、運輸省=官庁、個別大企業、政府、といった項目だけみても、普段いかにそれらが協調しあい、また対立しあい、新たな施策を創出していくものであるかは、誰しもよくわかっているはずである。たとえば一九九四年度予算では失業予防と労働力移動の潤滑性を目的として、「民」である企業が雇用調整策として行う出向・休業・教育に助成する制度(雇用調整助成金)に前年度の倍以上、千百三十二億円、出向支援システムの整備に六一億円、等々、企業の合理化推進と産業構造転換、その過程での雇用の管理のために、「雇用支援トータルプログラム」と名付けた、あわせて三千三百十一億円が労働省関係の予算として計上されている(赤旗0226)。また、政府の様々な審議会の委員にどれだけ多くの大企業経営者が就任し、また大企業の経営陣にどれだけの元官僚が居座っているだろうか。

 「規制緩和」、「官の民への過剰介入反対」という、「対比」と「自由」の戦術は、そうした具体的な日常の事件への個々の検討を一挙に無化し、単調化し、官と民という二項目間の単振動にすり替えてしまうのである。そこでは「自由」か「隷属」かという抽象的な二項に自意識を振り分けようとする言説の下で、具体的な施策そのものはそれへの人々の判断をすり抜けて一方的に行われようとしている。誰によって行われようとしているのか? 対立しているはずの、「官」と「民」によってである。自身を、「官」と対立する「民」の一員だと思っていた者は、君が大企業経営者ででもない限り、「自由」の歌を歌う「自我」の高揚感だけで腹をいっぱいにしろというわけだ。

 「官」との対比の単純で熱情的な夢が終われば「民」は(そして「官」も)もう一体ではなく、微細な階層構成、たとえば親企業/下請企業、勤め先の会社/労働者たる私、作業を監督する正社員/パートとしての私、そういった日常直面する別の様々な組み合わさり、が作動しているのである。

 しかし、夢というものは何度でも見ることができてしまう、そして、それが解析されないであり続けること、それがこの権力の拠り所である。

 以上見たように、「規制緩和にこれは反している」、「官の民への過剰介入だ」このような言い方で得られる効果は、結局、このスチュワーデスのアルバイト化が持つ様々な固有の問題を一切無視する、平面化するということであった。なおかつ、これらの言い方は、ここにこそ「自由」の闘争があると主張するのであるが、その主体の様式は、<規範性>としての「官」と、<自己>としての「民」を両極とする自己循環的な空間として構成されており、高揚した「自己意識」にもかかわらず、いや、むしろそれゆえに、「官」と「民」という対比構造を固定化するものである。

 さて、こうした「官」と「民」の関係という問題設定における「官」/「民」という二項(自己意識を構成する一対性)はともに極のようなものでそれぞれ構造的な広がりは持っていない。広がりが想定されてもそれは構造を持たず一様性しか持っていない。今回の運輸相発言をめぐっての「官」の「民」に対する過剰介入だという言い方を検討すると、この「官」と「民」という両極がその時々融通無碍の像をそこに仮託できてしまうものであることがよくわかる。今回の事件は、すでに会社、運輸省で協議が進んでいたアルバイト・スチュワーデス導入について、後に政権交代でその地位についた運輸大臣がそれは認めないという発言をし、それが問題化されたのであった。その発言への対抗性が、規制緩和、すなわち公と私、官と民との関係の問題として打ち立てられたのである。しかしそうだとすると、このアルバイト・スチュワーデスの導入を認めていた運輸省と、それに反対した運輸大臣というものはひとつの「官」としてまとめられず、何らかの構造性として位置づけられなければならないはずである。またこの間に起きた政権の交代はどう位置づけられるだろうか。*2

 しかし、規制緩和に向かおうとする「私たち」と、対するに権威として立ちはだかる「何者か」、という対比される両項はあくまでもそれぞれが一様性として想定されている。「権威」すなわち「官」も、また、対抗する「自己」すなわち「民」も一様な 塊(マッス) として想定される。したがってその対峙の構図は、(政治家+官僚)対(民間企業)、というものがいつのまにか、(横暴な政治家)対(官僚+民間企業)という奇妙な分割の構図にずれ込んでしまっていても、どちらも「官」(前者)対「民」(後者)の「同じ」構図内の事柄だとして怪しまれないのである。*3

 それまでマスメディアにおいて、日本政治の一焦点として、「官僚」の支配を越えいかに「政治」が自らの力を取り戻すか、などという文脈で槍玉に挙げられることの多かった−−それは同時に、それへの「こだわり」から逃れられないという、拝跪の一形態でもあったのだが−−その官僚たちも、今回は、「いうことをきかない官僚はクビだ! 吹き荒れる『亀井台風』 首すくめる運輸省」(朝日0828)などという、運輸相揶揄の記事の文脈の中で新聞記者にとっての同胞的な殻の中に迎え入れられている。

 こうして、規制緩和の脈絡、すなわち官と民の関係、もっといえば(日本語での)公と私の関係は、その対比の分割線の位置を自在に変更させながら、その、<ある規範>対<私>という対比・循環の構造だけを持続させるもののように思える。そこでは「私」と対比される「規範」は「官」という一様性であって官僚という分節と政治家という分節が固有の関係構造を持つものであるとはみなされない。逆に、「規範」と対比される「私」も一様性であって対比の分割線の位置からこちら側はのっぺらぼうに均質とみなされている。すなわちこういうことになる。ある時は高級官僚、政府をまとめて「官」とみなし、ある時は郵便配達人まで含んで「官」とみなす。またその移動する分割線のこちら側では「民間企業」とか「国民」とか「サラリーマン」というやはり一様性が場合にあわせて選択され、いずれにせよそれは、会社の規模の大小も収入の差異も男も女も老いも若きもそれらの差異を無化された、一様化された(しかしその時々その場限りでの)「私たち」なのである。

 このような主体の様式は、現実の諸差異から出発しようとする感情と思考を、「公」と「私」の一対に固着した規格に刈り込み変成させることによって、自らが構成していくものとしての「公」、「我々」の空間を創出しようとする力動を押しつぶすのである。*4

    <以下続く…予定>    未完

 

<註>

*1
しかし、そのような、規制力と一対になっていてそれとの対比で実現が想定される「自由=自己」の状態とは、「自己」を既に構成している自明化された諸規範(ノルム)に従うことが何らの障害にも出会わない状態、という意味でしかないのであるから、その自明化された諸規範について考察する契機を失うことになる。また、各人を作動させる自明化された規範の内容、すなわち欲望される自由の内容が、たとえばある者にとっては企業経営の順行のために人件費を速やかに削減する手続き上の自由であったり、敷地一杯に建物を建てられる自由であったり、ある者にとっては会社の規制力からの自由であったりと、現実の具体的な場面では全く対立する「自己」や「自由」であってさえも、ある任意の規制力との対比による生成という意味では同じ「自己」という様式「自由」の様式として、一様に包摂可能となり、各個人は全く相反してさえいる思いをそれぞれ勝手に託しながら、同じスローガン、「自由」と「自我」の励起状態に到達するということになる。この原理が、新保守主義とか新自由主義と通称される思想が現す統治の形式、すなわち「自立した個人」という統治戦略を貫徹するそのものであることは言うまでもない。またそれは、「権力からの個人の自立」を主張するタイプの「反体制派」がなぜ「新保守主義」に糾合されることが可能か、の理由でもある。

 「個人というのは権力が行使され襲いかかる与件といったものではない。」「個人とは、……、自らをピンでとめるようにしながら、権力関係によって生みだされるもの」なのである。(M・フーコー「空間・地理学・権力」actes 4号p541988 福井憲彦訳)

 これらことは、規制緩和、個人の自立と責任の確立、地方分権といったような言説が構成してみせる対峙の次元はむしろ架空の闘争(循環する「自己」への罠)であり、具体的な現実の諸事件、たとえば自身の賃金や年金の額、近くにできる原子力発電所への意見、勤務する会社での自らの扱われ方への具体的怒り、等々といった多数多様な具体性の次元を伝わっていく闘争の力線こそが現実の場面だということを示唆する。それら具体的な事件から出発した闘争の力線が、現在支配的な社会統合の諸規範やレトリックに包摂され鎮静されるのでなく、それらの力動を生きること、極限まで生きることによってむしろその力動の脈路を散解させ別の力動に<なっていく>ことこそが闘争の過程なのであり(J・デリダならそれを脱構築とか差延と言うかもしれない)、その闘争の<力>は、直接的に、怒りとか、納得できないという感情の形で我々に届けられるのである。

 たぶん、具体的な自身の日常を構成する様々な規範、企業経営のノルム、生きるためにはこうしなければならないという形に回帰する様々なノルム、自己を三百六十度包囲し自己を構成してさえいるそういうノルムについて反論でき得ないと思えるときに限り、例を挙げれば、会社の提案する「合理化案」に納得はできないのだが反論が構成できない、というような抑鬱の状態の時、我々は、彼岸の希望として「自立した個人の確立」というような言い方を架空性のスローガンとして掲げてしまうのではないだろうか。しかし本当は、会社側のいうことに実は納得ができない、という、微かであるかもしれない思い自体こそが、絶対的な抵抗の根拠なのである。おそらく、世界というものを整合的に理解しなければならないと思っている場合ほど、しかしまたそれが不徹底である場合ほど、それらの納得のいかなさや、怒りというようなものをむしろ自身の中の雑音として抑圧して、別の整合性にむりやり渡ろうとしてしまうのではないだろうか。しかしそれは、整合的、合理的であろうとすることが問題なのではなく、彼が考えていた限りでの整合性が、そうした納得のいかなさや怒りというものの位置を繰り込めていないそのような未熟なものだったから、ということにすぎないのではなかろうか? 「怒りにおいて問題とされるのは、受け入れがたいこと、容認しがたいことであり、また拒否や抵抗であって、この抵抗は自らが理性的に考えて成し遂げうるすべての事柄を超え出る形で一挙に自らを投げ出す」(「共出現」J・L・ナンシー「批評空間」1994Uー3)のであり、そうだとすれば、怒りや感情というものは、むしろ「理性」を展開させる原動力だと言えるだろう。

 その、言葉にもならず、形にもならないその強度、その直接性に従って、その怒りが、その割り切れなさが、どんな脈路でそのようなものとして<>にもたらされたのかを、問い、また解いていく力動はまだ明かしえぬ様々な「合理性」を、到来させ、出来させるだろう。感情は、科学にとっての様々な観測データの位置を占めているのだ。

※「個人」や「自己」というものが無垢の前提ではなく、それらがある権力関係において構成されてくるものであることについては、五年前に脱稿したものですが、拙稿「『雇用』という言説をめぐって」(『日本の<保守>を哲学する』大阪哲学学校編著 三一書房 1994 所収)も参照して下さい。

 そこには、一九八〇年代の国鉄分割民営化反対闘争、すなわち、会社解散↓新会社への選別雇用というラジカルな戦術によって労使の力関係の逆転が賭けられた闘争、において、「雇用の確保」という言説を軸にして、国労(分割民営反対、選別雇用反対を唱え続け、当初は組織率七〇%以上を占めていた最大労組でありながら分割民営の時点では少数組合となり、不採用者=「解雇者」のほとんどを占めることになった労組、そしてまた私が所属していた労組でもあった)からの脱退が、いかにして、自らの<生>と同値された<>を確保するための、犯すことのできない「個人の自由」の行使、として打ち立てられていったかについて、書いたつもりです。

 およそ日常の闘争を懸命に闘った経験の後には、日本人の「解放」は自立した「個人」の確立にかかっている、という言い方に「留まること」は決してできなくなるだろう。むしろ日常的に「自己」「個人」として作動しているこの意識のあり方がいかなる自明化された原理にしたがっているかの解析へと思考は導かれざるを得ない、それは実際に言われた、行われた、ことがらの脈路との格闘として展開されていくだろう。解放の表象すなわちスローガンとして神秘化された限りでの「個人」、そしてその「確立」という自己循環に慰撫されるのではなくて。

※なお、M・フーコーは権力と支配について、要約すると次のように述べている。

 権力関係とはどういうものかを理解するためには、権力を内的合理性の見地から分析することではなく、戦略上の対抗者を取り上げて、すなわち、この関係を解体しようとしてなされた試みや抵抗の形態を、調査すべきである。最近際だってきたそのような抵抗の対立項としては、女を支配する男の権力への、子を支配する親の権力への、精神病を支配する精神医学への、人口を支配する医学への、人々を支配する管理体制への抵抗があるが、これらを「権威に対する抵抗」と定義するだけでは不十分である。これらの闘争には次のような共通点がある。@一国内に限定されず、特定の政治的・経済的支配形式に限られない「横断的」闘争である。A闘争の標的はそれぞれの権力効果であり、たとえば医業が批判される第一の理由はそれが「利益を生む事業だから」でなく、人々の身体、健康と生死に、制御されえない権力をふるうからである。Bこれらは「直接的な」闘争であり、自分たちの問題が「解放・革命・階級闘争の終焉」といったような「将来のある時点」に解決されることだとは考えず、また「本当の敵」などというものも探さずに自分自身に対して今現に行使されている権力を批判する。Cこれらは「個人」の地位を問う闘争である。個人を個人たらしめそれが同時に他者とのつながりを切断して強制的に各人を己れの「アイデンティティ」に縛りつけることになるようなすべて、いわば「個別化」の支配に対する闘いである。Dこれらは、知識、能力、資格と結びついた権力の作用に対する異議申し立てであり、知の特権性に対する闘いである。E結局これらの闘争は「我々は何者であるか」という問いをめぐるものであり、私たちが個々に何者であるかを無視する経済的・思想的な国家の暴力の拒否であり、人が何者であるかを決定する科学や行政による審問の拒否でもある。

 要するにこれらの闘争の主目標は、「しかじか」の権力制度なり集団なりエリートなり階級というよりも、「権力の技法であり形式」なのである。

 主体(サブジェクト)という語には、支配と従属という形で他者に依存していること、と、良心や自己認識によって自らのアイデンティティと結びついていること、という二つの意味があるが、どちらも従属させ、服従させる権力形式につながる。

 「近代国家」の権力は(その強力さの理由の一つでもあるのだが)そのように個別化と全体化とを同時になす権力形式なのであり、それは牧人=司祭型権力とも言うべき、キリスト教に由来する古い権力技法を取り込んでいる。それは牧人が羊を導き管理するように、領土ではなく個々の人間を生涯にわたって見守る権力形式だが、十八世紀の頃その新たな配列・組織化が起きたのだ。

 それは、来世ではなく現世での、個人の健康・福利・安全など<生>の増強を目標に掲げ、そのための警察、福祉団体、篤志家、病院などの組織が社会全体へ広がり、また家族のような古くからの制度もそのような権力機能を果たすように組織されるに至った。その目標と遂行者の多様化は人間の知の発展を、@人口に関する全世界的、数量的役割、A個人に関する分析的役割に集中させた。この支配は、個人の個別性の新しい形態を造り続け、それによって個々人を統合しうる非常に精巧な構造であると考えるべきである。

 今日の標的は、私たちが何ものであるかを見出すことでなく何ものかであることを拒むことだろう。近代権力構造の、個別化であると同時に全体化でもあるこの種の政治的ダブルバインドを排除するために、私たちが何ものたりうるのかを想像し構築しなければならない。現代の課題は、国家及び国家の諸制度からの個人の解放ではなく、国家と、国家に結合した個別化の形の双方から私たちを解放することであり、私たちは数世紀にわたって強いられてきたこの種の個別性を拒否し、主体性の新しい形式を育成してゆかねばならないのである。(M・フーコー「主体と権力」「思想」1984・4 渥海和久訳から要約)

 こうしたフーコーの権力や主体というものについての考え方は実際の闘争で自分たちが何と闘っているのかをはっきりさせるのに役立ち、その運動の力を加速させてくれたように思う。

 もし、これからフーコーを読んでみようというのなら−−彼の著作やインタビュー、講演の内で権力について述べたものは多いが−−『ミシェル・フーコー 1926-1984』新評論1984 に所収のすべてのインタビュー類、『性の歴史T知への意志』特に第5章「死に対する権利と生に対する権力」、「現代の権力を問う」=「朝日ジャーナル」1978・6・2(来日講演、後に『哲学の舞台』朝日出版社1978に所収)、「全体的かつ個別的に(政治的理性批判をめざして)」=「現代思想」1987・3、「個人に関する政治テクノロジー」=『自己のテクノロジー/フーコー・セミナーの記録』岩波書店1990所収、「自由のプラチックとしての自己への配慮の倫理」=『最後のフーコー』三交社1990所収などを薦めたいと思う。また、(1994年時点で)最も充実したフーコーの著作目録(邦訳もほぼ網羅)は、『逃走の力/フーコーと思考のアクチュアリティ』J・バーナウアー著 中山元訳 彩流社1994 の巻末にある。

*2
  このことについて運輸相は概略次のように発言する。
  日本の政治・行政は、国民から選ばれた政治家が総理大臣を選びその総理が政治家を行政府の長に就けてそれが最終決定権を持って行うことになっている。羽田政権の時には野党だった自民、社会、さきがけが今度は政権を取った。「これまで運輸省はアルバイト採用を認めてきている」というが、それは前政権のことであって、現政権が新しい価値観で従来の政策を見直すのは議会制民主主義では当然だ。それを、どんな政権になろうが、だれが大臣になろうが、今まで事務レベルでやってきたことをそのまま継承しないのは「横槍」だとか「政治のエゴ」だなどと批判するのはおかしい。マスコミは役人とマスコミが日本の政治をやるかのように言っていて勘違いも甚だしい。(徳間書店「サンサーラ」十一月号) これは交代することもある政府と、官僚制との関係についての詰めた思考がマスコミに欠けていることを、議会制民主主義の教科書どおりに批判したものなのだろう。それへの反論として、「政権交代があっても進行中の事案は絶対変更してはならないのだ」、という形式は原理上持ち出せない。したがってこうした論理への反論は、運輸大臣=政治家の発言内容が妥当かどうかによって、場合によっては「役人」の方が正当な場合もあるというような方向へとずらされることになる。要するに、「仮象・形式」と「実質内容」という対立の導入であり、自らは「実質・内容」に立つと宣言することなのである。「政治家が役人の言いなりになるのは情けないことだが、政治家が役人の意見を無視してことを決めたからといって、それが自動的に正しいわけではない」(近事片々 毎日0817) 「私は、省庁のトップである大臣が強力な指導力を発揮するのは、むしろ自然なことであると思っている。しかしそれも、大臣が政治家としての個人的利益を離れ、国家的、国際的見地から行動する限りにおいてである。……国家や国民の利益よりも、自己や派閥の票勘定の方を重視している…政治家が「強い」指導力を発揮することになれば、現在の官僚支配以上の利益誘導がまかり通ることになってしまう。……官僚支配に対する批判が高まる中、官僚に代わるべき政治家の質についても、今回の事件を契機に考えてみる必要があるのではないだろうか」。(談話室 作家三六歳 産経0823)

 しかし、これらの反論は、ここで終えてしまうなら、悪ければ「役人」と「政治家」の戯れ、良くても、「合法的な政権であれその施策が妥当なものでないならば人々はその施策に反対すべきである」、という別の形式を主張したにすぎないことになる。焦点である具体的問題、アルバイト・スチュワーデス化について、「役人」の方がどのように正当であるのか、あるいは運輸相が正しいのか、それとも別の見方があるのか、はこの反論においてはまだ何も言われていない。それは運輸相発言が主張した正当性も同じく形式的なものであることと対応している。

 この二つの立論、すなわち、それぞれが政府・官僚・国民・・等々の登場人物の関係を形式化(モデル化)して、しかもそれが相手の唱えるモデルへの制限であろうとする一対の立場、「政権が変わったのだから前政権と違った判断があって当然だ」という論と「そうであるにしてもその判断が正当であるかどうかが真に問題だ」という論との一対は、互いを指弾するだけに留まるならおそらく、相対する一組の当事者がどちらも都合がいい方をその時時着用して相手を打撃できるそのような一対の盾と矛にすぎないことになるだろう。

 言い換えればこの一対は、現在「民主主義政治の制度」として考えられている、法や政府などといったいわゆる「国家」と、それを生み出すいわゆる「市民社会」という弁別において、それぞれが互いを規定し照らし合う言説だと思える。そして、「政府」というものが具体的な諸問題の合意形成過程を指すのではなく、「選挙」という一つの断絶によって一挙に成立する、力の「閉じた輪郭」であるとされる限りにおいて、その力の「他」を反照する「恣意性」、すなわち、政府はその「自ら信ずるところ」に従って行為しなくてはならないという「恣意性」は生まれることになる。それは、「他」の勢力と「対峙」することにおいて「自ら」である、という形式へと卓越化しそれに固着することで「恣意性」となる。そして、その力の「恣意性」を認めることと、その力が、その母体であるとされる「民衆」に帰属すること、という二つの相反する要請を満たすために、前述したような一対の循環する論理が必要とされるのである。しかしながら、「私は民衆から選ばれた政府なのだから私は<それ>をすることができる」という、力の無限定性の表現と、「たとえ政府であれ<それ>が妥当であることしか行ってはならない」という、力の限定性の表現、その二項への分裂と循環の相に留まる限りでは、最も肝心の、<それ>−−ここではアルバイト・スチュワーデス問題だが−−というものの具体的な妥当性をめぐる論理の展開に入っていくことは不可能である。それは「政府対民衆」や「政治家対官僚」といったこれらの循環規定の、外部において初めて可能になるのである。

 別の言い方をすれば、たとえば「国家と市民社会」というようなモデル化されたあらゆる構成の外部から具体的な諸問題についての闘争はわき起こり、その闘争が逆に様々な構成モデルの規制力を変成していくのだ、ということになる。 

 いずれにせよ、ある思想からは「政府とそれへの抵抗権」とも言われるだろうこの問題の切片は、循環する形式論(モデルの叙述)か、運輸相という個人あるいは政治家の質、心構えに回収されてしまい、政治家、官僚といった結節項の関係を構造化、規制化してみようという方向へも、また運輸省と運輸相、対立するそれぞれの考えの脈路の次元に移行してそこでの徹底的な検討という方向へも進まなかった。

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  要するにここでは、「私=民」に対峙する規範的対極という位置についたものがすべて「官」と呼ばれているのである。 なお、「官」として名指された主体、たとえば官僚も、当然「私・自己」として作動しているわけだが、その場合の「私・私たち」とは、自らを「民」として規定する自己意識が唱えていたような<ある権威に抵抗するもの>としての「私・私たち」ではなく、逆に、<自らの制御対象としてすべてを現前化しようとする>そのような自己意識の作動様態としての「私・私たち」なのである。この二通りの「私・私たち」の様態は、「自己意識」という一つの主体様式がその特性として表す相互生成的な対応組であり、すなわち不可分の一対であり、「一人の人」の中でも様々な脈路に応じて両方が交代して表れている。

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  こうした「官」対「民」、「公」対「私」の対面構造性、のっぺらぼうな性格による、分割線の自在な操作、移動可能性は、様々な技術に利用されている。累進課税よりも消費税の方が公平なのだという考え方は、一様な単位の集積として「自分たち」というものを考えようとしているのである。各人の収入の違い、そういったものはもはや自明な合理性によっているとみなされている。たとえば収入は、その「個人」の「能力」や「選択」によって規定されたものであり、その「個人」という単位性にすっぽり回収されるのであって、その金額の差には各個人の輪郭をはみ出してしまうような不当性などは何もないことになる。その主張によれば、五十二歳年収三百六十万円の零細企業労働者(労働者協同組合に関するある研究会(1994・8)での報告例。東京都内、光学機器部品のプレス業、従業員十三名、男性。)も、四十三歳年収千三百万円のサラリーマン(日経新聞1994・6・14「納税者から見た税制改革 変わる負担構造(1) 中堅サラリーマン 年収一〇〇〇万円層を救済」で例示された航空会社勤務Iさん(男性)の場合。夫婦と子供二人。)も同じ個人であり、対等なのである。そのような主張にとって、「これほど大きな賃金の差はいったいいかにして構成されているのか」という問いへの回答のしかたは、まず、超越的な対等性と自由の表象としての「個人」という概念、すなわち政治的な平等の空間(要するに一七八九年の革命だ)がアプリオリに設立されるところから始まる。そしてその個人の自由な行為としての、契約、努力(苦闘)、それへの代償、結局、その(平等な)個人から発しその個人の為したことを変数として再びその個人に回帰した、そのような「力」として賃金は規定される。出発点は平等な自由な諸基体(諸個人)であり、その進行過程においてもなんらそれ以外の範疇と出会わないのであるから(実は自己循環なのだから当然だが)、その結果も当然(たとえどんな差異があっても)平等以外でありようはずもない、というわけだ。だが、賃金(貨幣)とは、ごまかしようもなく誰もが知り、痛切に感じているように各人の活動力の大いさの他律的限界づけに他ならず、その使用できる量の差異とは直接各人の活動の限界づけの差異に他ならない、(そして<活動>とは各人の<生>の具体性に他ならないではないか!)どうしてそれを差異的に限界づける規定があってなお、「各人」は平等だと言い張れるのであろうか。

 「個人」というものの平等性を前提としなければ、現在、我々が見出すのはまさに力の不平等、全くの無根拠な不均衡、支配と被支配の姿なのである。