季報 唯物論研究  第46/47号 1993年11月
1993年8月21日〜22日 大阪唯物論研究会哲学部会 合宿( 高野山 恵光院)  での報告に加筆 
 
  

労働者協同組合の運動と理論

−−−「自主」という力動−−−

 

 国鉄分割民営化反対闘争さなかの一九八六年ごろまでに、私は、当局との敵対性の徹底は経営者と一対となった限りでの労働組合(労働法に規定された限りでの労働組合)という自己規定を溢れ出しそれを乗り越えざるを得ないところにまで我々を連れていってしまう、ということをますます強く実感するようになっていました。その問題意識の中で、当時労働者協同組合として自らを規定しはじめていた「中高年雇用・福祉事業団」の運動とも出会いました。その後、雇用される者としての労働者から始めて、いかにして我々はその支配・被支配の関係を超える社会的編成の主体に自らを構成できるのだろうか、その脈路はどのようなものだろうか、ということについて、労働者協同組合運動も参照しつつ、ささやかながら考えを進めてまいりました。今日皆さんにお話しできることはそれによって私が現在到達できた限りでの仮説にすぎません。

 まず、「労働者協同組合」とは何か? ということになるわけですが、とりあえず、「そこで働く従業員が所有し管理している企業」ということにして、話を進めたいと思います。後で見るように、運動として労働者協同組合を考える立場からは、これに加えて社会変革への志向性、たとえばその具体化として仕事内容を社会的連帯の立場からとらえ返すこと、なども労働者協同組合を名乗るための条件としてあげられることになります。 

一 各国の状況

 労働者協同組合が、日本で現在的な、また実践的な話題となったのはそんなに古いことではなく、せいぜい八〇年代からだと思います。

 その時、成功した労働者協同組合の例として最も良く取り上げられたのは、スペインのバスク地方の小さな市、モンドラゴンにおける労働者協同組合グループでした。今や世界的に、労働者協同組合について語られるときには必ず取り上げられるこの協同組合は、一九五六年にあるカトリック僧によって始められ、現在ではスペインでも有数の電器製造企業をはじめとする製造業、サービス、社会福祉、教育、消費生協、銀行までを包括し組合員二万三千人を数える一つの地域コミュニティをなしています。*1
 

 また、イタリアも昔から労働者協同組合がさかんな国として取り上げられてきましたが、三つある協同組合運動のナショナルセンターのうち最も大きいレガに属する労働者協同組合には七万一千人が所属しているそうです。その他ヨーロッパ各国に労働者協同組合があり一九八〇年代を通して増加傾向にあるということです。またヨーロッパでは労働者協同組合についての法制が整っているということも報告されています。総じてヨーロッパの労働者協同組合には、昔からの同業者組合的な伝統につながる系統(たとえばかなり大きな規模の場合もある製造業)と、一九七〇年代以降の新しい社会運動として始められた系統(小規模のサービス業などの)といった二つの系統があるように感じられます。*2 

 一方、これを労働者協同組合と同列に扱うかは(一人一票の協同組合原則に従っていないということで)論議になるわけですが、アメリカでは一九八〇年代から、いわば国家政策としてESOP(従業員持ち株計画)*3というのが進められます。これは文字どおり株式会社の株をそこの従業員が持つ、経営に加わる、税制などの優遇措置もあるというものです。何万人規模の企業でありながら従業員の持株が多数派を占めている例も少なくないといいます。つい先日も経営危機に陥ったノースウエスト航空が賃下げの代償に従業員に自社株を与えることで合意したという記事(一九九三・七・一三 朝日)がありましたが、おそらくそういう文脈ではないかと思います。この運動はレーガンや共和党にも支持されていたものだということを押さえておいて下さい。 

  さて、では日本における労働者協同組合はどのようになっているのかということです。今現に活動している日本の労働者協同組合にはその結成の動機から見て大きく二つの系統があります。一つは労働組合の活動から産み出されたもの、もう一つはそれ以外のたとえば生協の活動から産み出されたものです。

 労働運動から産み出されたものは、さらに二つに分けて考えたほうがいいかもしれません。

  一つは「日本労働者協同組合連合会」(一九九三年に「中高年雇用・福祉事業団全国連合会」から改名、以下「事業団」と略称)です。戦後、失業者に対し国や自治体が公園整備などの就労機会を与える失業対策事業というのが行われていて、その人々を組織していたのが全日自労(全日本自由労働組合)という労働組合でした。一九七一年にその失対事業への新規就労停止という方針が政府によって出されたことに対抗して、では自分たちが事業団を作るからそこに仕事を出せ、というところから出発し、現在七千人、事業高百億円の規模だそうです。仕事の内容は、病院清掃、公園整備、建築土木、生協の物流、リサイクル事業、ヘルパーなどで製造業はないようです。全国的規模であること、海外との交流、自らを理論的に位置づけ、より様々な領域に展開していこうとする熱意などにおいて特筆すべきグループです。

 もうひとつは、労働争議から産まれた自主生産企業のタイプです。
  製靴、タクシー、電機部品製造などの業種がありますが、さらに、国鉄の分割民営化の際不当解雇された国労組合員の争議団が北海道や九州で結成した木工やビルメンテナンスなどの労働者協同組合もこれに含まれると思います。

 以上と違い、生協組合員によるものは、主に主婦が構成員で、ワーカーズ・コレクティブとかワーカーズ・コープと名乗っていることが多く、仕事の内容は、給食とかヘルパー、生協業務請負、翻訳などのようです。首都圏だけでも一五〇団体、四千人以上が関わっているそうです。

  日本の場合、労働者協同組合に関する法制がないことが大きな問題となっています。*20 また、長くてもここ二十年程度の歴史であり、サービス業に片寄っていること、その運動においては社会変革への展望を志向する傾向が強いこと、なども特徴として感じられます。

二 労働者協同組合への力動

  このように、労働者協同組合というのはいろんな国に存在し、しかも増加傾向にあります。では、この労働者協同組合という形態を現在とることになったその原動力はどんなものなのでしょうか。私は日本のことしか実感的にはわかりませんのでそれに限って考えます。さらにここでは、労働者協同組合が自らについて語る自己規定の次元、たとえば現在の労働のあり方への疑問とか、環境問題とか、そういった次元ではなく、その主体性の次元での意味を考えたいと思います。

 端的にいえば、それは、自分たちで物事を自律的に決定したいんだということ、そういう社会的な行動をしたいんだという「力」、そのような「私たち」を作りあげたいという主体化作用、そういったものだとしかいいようがありません。そしてその契機としては前にいったとおり二つのベクトルを見いだせます。

一つは労働組合運動から労働者協同組合に至る契機、方向性です。

  労・使対決という構成による労働者の徹底的な運動が、対象としての「使用者」を失ったとき、その敵対性として成立してきた「我々」はどう遷移するのか、という分岐点でそれは明確化されます。その「我々」という主体性が自律的な構築を志向して作動し始めることが、その契機であるといえます。支配されたくないという敵対が、支配・被支配という関係自体への敵対に変わる時点だ、といえます。

  しかし一般的にいって、たとえば労働争議をともなった倒産であっても必ずこういう道をたどるというわけではありません。

 ある争議があったとします。そして激しく闘われ経営者は会社をなげだしたとします、あるいは労働者が解雇された、でもいいです。そうした時、それまでの「使用者」との敵対によって日々再生産してきた「我々」が自らを持続する方法には二通りあるように思います。一つは、たとえば、倒産し消滅した、あるいは自らを解雇した「使用者」とは別の「使用者」を求めてそれぞれが散開していくことによって、あくまでも「使用者」と一対のものとして規格化される「我々」を仮構し持続することです。それはたとえば、「資本家」と「労働者」という輪郭が配置されていて闘争はそのどちらかに「所属」する主体によって構成される、という構図に自らを適合化していくことです。そこでの「連帯」とは一般性としてのものであって、日々生きる日常の、特異性、固有性が平滑化されてしまっているように思えます。

   一方、もし、その争議において「使用者」との敵対が、ある閾値を超えて徹底的であった場合、いいかえれば具体的でありかつ全面的であったとすれば、その争議の過程は、この現存の唯一性、その固有のかけがえのなさに我々を開いていくように思います。経営側のいう様々な論理、それは現在の資本の増殖の論理、人をその脈路に包摂しようという言説と実践の技術体系そのものだといえますが、それらを、「我々」という激しい力動ゆえに全面否認してしまうことは、何よりも、そういった経営側の打ち立てようとするような一般的な規範性の水準自体と、それらに規定されるものとしての「自己」という殻とから、一挙に脱皮させてしまいます。

 経営側の緒言説を具体的に一つ一つ転覆したから別の主体様式を獲得できるのではなく、絶対的敵対の激しい力動の線上で、いきなり別の主体が既に発動しているのに気づかされるのです。論理より早く走り抜けてしまった力動は、その後からようやく資本の論理への、今まで考えることもできなかった包摂的な批判を次第に微細にまとえるようになるのだと思います。しかし同時に、そうした力動を励起するのは敵対の場面上での徹底した論理的反抗でもあるのです。いわばこの論理の強靭さと敵対の徹底性、力動の強度は正のフィードバックによって自己増殖をはじめあらたな「我々」という主体を構成し始めるのだといいたいと思います。それは対面していた具体的な「使用者」から離陸し、自らの固有性の上で運動を始めて、もはや「使用者」やその一対性としての「労働者」という概念項目をものみこんだものになってしまうでしょう。争議の後も、他の誰でもない、この俺たち、という固有の仲間との連帯を解かずに、労働者協同組合に向かってしまったりする様々な事例は、そのような徹底した集団的敵対においてそれらの争議が闘われてきたしるしなのだと私は感じとります。敵対性の徹底とは、一般性としての自己規定から抜け出し、この世界の固有性、「現存の唯一性」とでもいうべきことを発見する喜びへの導管にすぎません。

こうして、労使関係=権力関係における敵対を極限にまで徹底させることは、自らのかけがえのなさを集団的に見いだした全く新たな主体の構成に至ることができる、そしてそれが、この労働組合運動から労働者協同組合に至る方向性の意味するものだ、といいたいと思います。

 さて、もう一つの契機としてあげた、生協組合員の労働者協同組合=ワーカーズ・コレクティブに至る方向性の方です。

 これらはほとんどがその時点で仕事を持っていなかった主婦によって切り開かれています。その契機は、主婦という自分たちの生活を見直したとき生まれたその受動性への反抗、生活の自立構築への意志として考えられると思います。それは、労働組合から労働者協同組合への力動がそれをめぐってのものであった「雇用関係」という権力関係からはとりあえず解除されたところで、自分たちが仕事を創出し働き方も創出するとしたらどんなことがその内容を規定するのだろうか、という問題に転化されます。仕事内容の選択のしかた自体にそれは現れています。老いた親の世話をどうするかという現在の問題と自らの老いを自らで支えたいという欲求が、ヘルパー組織や老人給食の仕事となって実現されます。自分たちで制御できない食品添加物等への抗議が素性の知れた材料で作る食堂や弁当屋の仕事になります。共同でやりたいこととやれることの交点に仕事が次々生まれていきます。この原理にしたがう限り、やりたいことの増殖とやれる力の増殖は社会すべてを彼女ら彼らの仕事でおおいつくしてしまうでしょう。

 すなわち、具体的にどういうことを共同的に行いたいかまたどう実現するかという内容の増殖力は、それを自ら行う、かけがえのない「我々」という主体を構成していくことができる、そしてそれが、生協組合員からワーカーズ・コレクティブへという方向性の意味するものだといいたいと思います。

  さて、ここまで労働者協同組合から取り出せる「志」のようなもの、核心の力動のようなものである「自律的に生きよう」という方向性を、@権力をめぐる敵対、A具体的欲求の創出、という二つの成分に分離しさらにそれを労働組合と生協というその出自による二つの経路に割り振って理解しようとしてきました。この二つの次元は、我々が自律性を検証するために必要とされる、思考の二つの成分を指し示しているのではないかと、現在のところ私は感じています。したがって、問題はどちらが優れているとかそういうことでは全くありません。労働組合から出発した運動も現在では、ごみ問題、障害者共同作業所、農業、林業などを視野に入れた地域社会、福祉を組み込んだ協同組合地域社会などということも考え始めています。一方生協からの運動ベクトルもその方向性の拡張は、雇用という権力の問題(すなわち自らの夫が日常直面している)を必ず繰り込むことになるでしょう。

三 「自主性」の行方

 労働者協同組合を結成しようという力動の核心には「自律的な行動への欲求」があると述べてきましたが、その様式はそれゆえの危険性と豊かな力とを兼ね備えています。

危険性とは、自分たちが設立した「自主的」企業であるということをもってそこにおける「労・資」対立の問題構成が自動的に消去されるものではないこと、に集約されます。企業内における労資(労使)の敵対は、貨幣に実体化しているような権力の次元なのであって、その次元を問い続けることを確認しないまま、自由で平等対等な「個人」を基体としての組織編成や連帯活動を構想するのは、それが「自主」性という強度で励起されているにせよ何にせよ、権力の関係、支配・被支配の関係を必然的に呼び込むはずです。貨幣や権力というのは今生きている我々の関係性なのであり、貨幣や支配の権力というものをなにか(対等、平等、自由な)自らの「外」にある「なにものか」、謎、だと考えてはならないのです。むしろ自らをそう考えている「主体」の様式こそが貨幣を含む支配と・被支配の関係を地上に現象させるための前提ですらあるのです。

 「自主」性という言葉から考えていきます。まず、自主的であろうとすることは、力動の「強度」を意味するだけであって、自主の内容を何等保証しない、といえます。
  「自己」実現という言葉がある価値を指す言葉として、ワーカーズ・コレクティブの構成員からも、一般企業の経営者からも、マーケティング業者からも発せられることが可能なわけです。要するに、自主的であろうとすることというのは一つの形式であるがゆえに、たとえば自主的に一生懸命金儲けに精進することもできれば、その他のどのようなこともその内容とすることができます。自主性というのが、単なる恣意性の別名である例はたくさんあげられます。たとえばこれらはいずれも労働者協同組合ではありませんが、「労働者」の企業です。先日テレビで見た中国農村のある郷鎮企業(村民出資会社)では出資した村民は二階でのんびり「事務作業」をしており工場で働くのは奥地の村から出稼ぎに来た娘さんたちで彼女たちは歩合給のひどさや早く辞めたいということを訴えていました。また、アメリカのESOPの例では、一人一人の個人が結集したのが「会社」だというわけで、信頼、参加、コミュニケーション、製品やサービスへの誇りなどが叫ばれ、まさに究極の「自主」管理体制という感じです。そこにおいては「個人」というあり方は全く疑われずむしろその「自己意識」の輪郭のままいかに自らを励起するかという方向で未来は企画されているようです。そこでは、市場の参加者としての会社とそれを構成する自立した個人という「自主」性が満ち溢れているように見えますが、私はそこに開放的なものは見いだせません。

 労働者協同組合は、こうした事柄には反省的であり、自分たちでの所有という条件の他に、出資者以外は極力雇用しない、出資比率でなく一人一票の決定権とする、徹底的な話し合いをするなど運営上の原則をもち、さらにその仕事内容についても社会的な意味を検証しようとしています。しかし、支配・被支配の現象はそれら制度の形式上にではなく現実の決定過程に現象するのです。

 日本の労働者協同組合の場合今のところ内部での摩擦は明確な問題設定として外部にもわかる形では議論されたことはないようです。「徹底民主主義」をその原則の一つに掲げる「事業団」の場合、もともと労働組合の形態から出発しており、その教宣活動の延長という感じで各事業所から全国規模まで盛んに様々なニュースが発行され、それらを見る限り事業所単位での話し合いもよく行われ、組合員の自発性と理事側(組合でいえば執行委員)の提案とがかみ合っている、少なくともそうありたいと情報の発信者達が願っていることがよくわかります。事業内容が生産ラインのように機械を組み込んで労働を組織する形態ではなく、病院清掃、生協物流など直接人が主に自分の判断で動ける形態の仕事だということが、事業体内の摩擦を少なくする方向に働いています。また、生協のワーカーズ・コレクティブの方も同じように、小規模であることその仕事自体に目的を持った主婦同士の集合であること賃金が夫婦単位の家計に回収されることで収益性には多少寛大であれることなど、摩擦の発生点が少ない極めて有利な条件を持っています。日本の労働者協同組合の仕事は労働集約的な領域をほとんど出ていないので、逆に大規模生産や情報産業など高度化した労働過程編成が鮮明な形でもたらす問題群からは一見猶予されているように見えるのです。
  しかしもし、日本の労働者協同組合(に現れた思想ベクトル)が現状のままの規模と領域にのみ留まることを望まないのであれば、もっと原理的に注意深く事態を見つめることと、高次化した労働編成をもつ労働者協同組合の例も参照することが必要です。

 旧ユーゴスラビアでの自主管理企業について当時の共産主義者同盟幹部は、労組の自主性のなさを嘆いた後、次のように述べています。「工場の内部には複雑に入りくんだ利害が反映する。どんな利害でも何か根拠があり、依拠すべき原則を持っている。」「自分の仕事は重要である、自主管理権は不可侵である、連帯や社会的保護の必要、あるものは改革の必要、後進性経済効率などを持ち出す、あるものは民主主義をたてにとり、また他の者は義務よりも権利を強調するであろう。」*4

 一方、モンドラゴンではストライキは禁止されていましたが、一九七四年に能力評価、賃金格差をめぐってストライキが起こっています。ここでは労働組合評議会というのが問題解決の役割を期待されていたのですがうまく機能できなかったのです。
 このように、労働者協同組合や、自主生産企業でも様々な摩擦、敵対が起こっています。これらは実践の中で、「自分たちで所有し管理し働く(にもかかわらず)労働者協同組合に労働組合は必要か?」として語られてきた問題に他なりません。

 私の見るところこの問題は、労働者協同組合だけでなく他のすべての企業にも通じる、現在の支配と被支配をめぐるまさに核心的な問題群の一つなのです。

 自分たちで出資し自分たちの中から選び罷免もできる経営陣のもとに自分たちで働いているのにどうしてそこに支配・被支配の問題など発生するというのか?*5 しかしこの論理、すなわち、まず「自分たち」という自己同一性によって論理循環の全体をつかさどる行為発動の主体を通約し、次に、「自分たち」という自己同一性しかそこには登場しないのだから、ゆえに敵対は発生しようがない、と主張するこの論法が、ただ一つ全く問うていない「もの」があります。すなわちここでの、「自分たち」という自己同一性の様式自体です。ここで言説を語っている「自分」は、自己同一的な「自分たち」を打ち立てることによって他者達もその「自分たち」という自己同一性の輪郭内に強制的に同一化させ、さらに最終的に、語る主体の「自分」に同一化させています。問うべきだったのは、この語っている「自分」が作動するとき、この「自分」とは、自分自身に、また他者にどう働きかけようとしているのだろうか、そのとき自明として前提にされているのはどんな規範性なのだろうか、ということなのです。まさにそれこそが「力」の脈路であり、それゆえ、この問いこそが、支配と被支配の現実の脈路を取り扱うことができる唯一の実践的問いに他ならないのです。そればかりでなく、そもそもそれら自明としてきた諸規範性によって初めて「自分」は「自分」としての内容を与えられ、そのような形式としての「自分」を感じ保持しているだけではないのだろうか? と。この、「自分」という自己同一的な主体様式はその様式自体が問われうるものに動態化されなければならないのです。こうして、支配・被支配の問題は、「皆で所有し皆で決めて皆で働いているからそこに支配・被支配の関係は存在しない」という自己同一性に乗った形式的な問題設定を棄て、「主体」のふるまい自体の検証に移ります。

この問題は、労働過程に限らない、支配・被支配という権力関係の構造自体をめぐる問題ですが、労働過程の場面では、管理する者と実行する者という区分は結局なくせるのか、あるいは貨幣の制約から我々は自由になれるのか、という問題に帰着できます。

 労働過程において、たとえば自然法則との接合、企業外との納期や価格との接合、働く人々の接合、そうしたものとしての技術の創出が必要であり、それらの規範性の企画とそれの実行ということが(現在の工場の規模においては)生物学的な一人の輪郭の中では実行できない以上、この、構想と実行の分離と階層性が人の関係に負荷されることは無くせない・・・。このようにいわれることがあります。現在の「労働」という概念が内包する順序の概念、構想(者)の「先行」、実行(者)のそれへの「準拠性」、といった形態から支配・被支配の概念は導かれています。*6 また経験的にも、被支配とは、誰かの思考の中で私が操作対象物、道具として規定され、私がそういうものとして完結させられてしまうこと、逆に、支配とは私の中で誰かを操作対象物、道具として規定し完結させること、と感じられます。ですからこの、構想と実行という二つの概念項目の対応関係とその間での「順序」という形式自体を解体しない限り、すなわち「労働」概念自体を解体しない限り、たとえ参加や相互参入、下からの統制といった概念の導入によっても、基本的にこの支配・被支配の関係は現象し続けることになります。

 さて一方で、貨幣という制約はこうした労働過程においても決定的な規範として働きます。労働者協同組合であろうと何であろうとその力に曝され続けているのです。

 労働過程での支配・被支配の力動はこうした場の中から生まれてきます。
 企業の外から来るように見える貨幣の絶対性と、企業の中での他者への支配としての構想の立案は、一つの輪郭が外接する力として感じるものと、その力を受けてその輪郭が自らの内部に構成しようとする秩序、との関係であり、その「輪郭の作動」ということにおいては全く一つの切り放せない出来事です。この「輪郭」こそ現在の「主体の様式」だとみなすべきであり、支配・被支配というのはこの次元において現象するのだと考えます。
 
  「輪郭」とは、固有性が可能にしている無限の差異から始めるのでなく、ある任意に引かれた閉じた線分による弁別を無根拠な前提として作動を始め、それらの相互作用と高次化に向かっていく、そういう主体が、自らの基底としている単位性だと思います。こうして、輪郭化することによりその固有性*7ではなく一般的な弁別としての意味しか持たない「個人」、その輪郭(個人)の多数性としての「平等」、その一般化された内面としての「自由」、といった諸概念の上で作動する主体を、近代的な「主体」の様式と呼び、現在の支配と被支配の形態はその属性である、といいたいと思います。その支配は、対象をある輪郭として存在規定するところに特徴があり、「これが『規範(おまえ)』*8だ」と対象に向かって規定的な言説をおおいかぶせ、対象がその規定をくつがえせないとき、それが「支配」の関係として現象します。*9 そしてそうしている主体もそうされる対象(自分自身である場合もある)も同じ現存性に属するものであるという位相から見れば、これは現存が現存を規定する自己循環規定であり、規定が必ず、ある輪郭=有限性を持ったものである以上、現存を固着させその力動を抑圧する働きを持ってしまいます。
 
  このように、現在の支配・被支配は自己循環的な論理により構成されているものであるために、それによって再構成されてきたすべての概念結節をずらす行為や論理的に解体していくことがその支配への闘争であり得るのです。またこれらのことから、「支配」は現実に行われる思考と行為によって初めて現実に現象できることがらにすぎない、ということが導かれます。そして「支配」をその場にいるものは逃れられない空間の属性であるかのように語る運命論も、ある制度的な保証があれば「支配」はその時点から終わるという運命論も放棄されます。
 支配・被支配を主体の次元における現象と見る限り、労働過程における支配・被支配の関係を現象させないということは、「労働過程という脈路の次元に留まる限りでの思考」による変革や提案の積み上げといった「形式」によっては決して実現できず、主体様式の次元での変革とそれを保つ日々の「行為」だけが、そのことを実現できるということになります。
 この場合のように、設問の答えとして「主体」という様式を取り扱わねばならないときは、(たぶん「主体」という概念が自分自身についての意識という重ね合わせの型を持つために)、@どのような主体様式であればそれが解決したことになるのか、という徹底的に形式化(モデル化)した形での応答と、Aどのような具体的手だてがそうした主体様式への導きになれるか、という動作の形での応答、との二相にとりあえず分けて考えることが必要になるようです。(たとえば体操の鉄棒で、形としての技の説明と、練習時の寸評、実際に実現した体感、といったようないくつかの相の違いを経験的に見いだせるように。)

 非常に形式化した言い方が許されるならば、近代的な主体とは、自己の有限性と輪郭(差異)の多数性によって、またはその昂進した形であれば、自己の単位性と輪郭(差異)の可算無限性*10によって成り立ち、それぞれの自己は結果として原理的に孤立している、ということになります。一方、支配をめぐる考察によってそれを超え出てきた主体の様式とは、それぞれの自己は、全く同じ連続無限の要素(この宇宙としての物質)から成り立っているがそれぞれの固有の位置から世界を見るために絶対的に異なって作動するにすぎないと自覚し、しかも世界を連続濃度の無限とみるために恣意性*11以外のいかなること(差異)も選出可能な潜勢力を持っていると自覚している、いわば「固有性」に開かれている、そのようなものです。他者とは自らの一つの変奏として、かつそれによって世界の(すなわち自身の)多様性を自らに与えてくれるものであり、他者を輪郭として規定するのは(支配は)不可能となり、固有性が解放する巨大な「力」はある共振のような形で互いに及ぼし合われる、というようなことになるでしょうか。
 では、具体性、動作として、「労働過程」の支配・被支配を現象させないためには、どんなことが考えられるでしょう。

 仲間を、自分が指導すべきものとか操作すべきものとして、また自らを指導してくれるものとしては見ないこと、それに至るために、貨幣、会計やあるいは社会変革のプランというものまで含めた我々を構成する様々な社会的規範性を、絶対性として受容せず歴史的な産物として、我々が皆でこれから別な形に作りあげていくものとして考えること、等々・・・。そしてもし、自分たちは、支配・被支配の関係にはならないように闘う仲間なのだという共通理解が、その支配・被支配がどうして現象してしまうのかまで互いに理解した上で成り立つとき、たとえ「外」で貨幣の権力が現象している時代であっても、その「場」に限っては支配を現象しない行為の条件*12はできた、といってよいのではないでしょうか。そうしたとき、原理的には、その職場では、機械や、作業分担や、生産ラインや生産計画や朝のあいさつにまで、すべてに確実な「変化」が起こるはずです。しかし、支配・被支配という脈路で有意味な変化であるとしても、具体性の編成としてはどのような「変化」であるのかは事前にいうことはできません。その工場に皆からの提案で新たに据え付けられた機械が、これは「鉄を切る機械だ」という抽象のレベルではその前のと同じものじゃないか、と判断されるのと同じように、差異を検出する論理フィルターの密度によってはひっかからない「変化」であるかもしれません。しかし、そうした固有性の次元への開放こそが、ここで考えられた支配・被支配の廃絶の意味そのものなのです。

 さて、見てきたように、「自主性」=「主体」というものは何でも含むことができるために、それが支配に反対しながら、支配を実現してしまう危険性もあり、逆に全く同じ理由で、その危険を乗り越え自らを非常に豊かな道に作りあげることもできるものでした。その自主的でありたいというベクトルは、すべての「自己を対象に規定してくるもの」との敵対でもあるわけですから、それゆえの全方位性も持ち込むことができるのです。
 そして、それらを展開していくとき、労働者協同組合の結成時期には具体的な敵対から大きなエネルギーを備給されたかもしれませんが、一つの軌道を歩み始めた時点では、論理の力こそがその主体の力動の推進力になるのだと思います。
 論理の力がより必要とされるようになるのは、闘争の進捗によって問題領域が、現在はまだ堅固に自明だと思われている規範領域にまで深まって行かざるをえないからだと思えます。

 そのような難問の一つに貨幣という概念があります。それは現在の私たちにとっては、日々考えざるを得ない切実さを持ち、時には人を死なせることさえあります。
 
  貨幣の力を解体するということは、単純な否定や恣意的な利用によってでは果たせません。貨幣の力によらない関係を「別に」想定しようとするのは全く空想的です。力とは関係性であり単純なそれの否定はその力の構成される脈路については暗箱に入れてしまい結局その力の潜勢力を野放しにしてしまうからです。貨幣は貨幣として、すなわち一般的な「力」として、皆から認められて初めて貨幣になり、ひとたびそうなった後は、(誰かの持ち物となることで突然その人の無根拠な「力」となったり)、ある問題の固有の脈路に乱入してきて、いろいろ働くわけですが、それらの場合具体的にどんな局面でどんな問題を解決しようとしてどんな手管で私たちの行動を導こうとするか、の問いこそが必要なわけです。貨幣の登場を待ちわびるまでもなく、いずれにせよ我々が決定を迫られているには違いないその固有の問題構成の次元上で貨幣の恣意的で暴力的な力によらず我々の行動を決定できるようになるためには、どのような固有性が貨幣の振る舞いによって平滑化されてしまっているか、が追求されねばならないわけです。今まで、「金の力には勝てない」逆に「金で買えるからいいや」と思考をそこで停止していた問題群の脈路をその固有の相で懸命に浮上させなくてはならないのです。貨幣の一般的な平滑的な権力、それゆえ支配と被支配の関係を生んでしまうのですが、それにかわるのは各人の固有性に根ざした「力」のみによっていかに様々な決定を集団的に行っていくか、その固有の言葉による世界の充満ということではないか、と思います。すなわち、それらの言葉が、IMF・世銀から子供の小遣いにいたるまでの貨幣の作動状況についての熟考によって、我々の中から日々生み出され構成され続けるという過程においてのみ、貨幣のような一般的な力が不要になるのではないかと思うわけです。 

四 運動と理論

  労働者協同組合はある意味で行き当たりばったりの運動だったのかもしれません。ある未来の解放の構図があってその一分節として運動が行われているというものではもちろんありません。必要に迫られて、あるいはどうしても実現したくてというところから始まりました。その固有性へのこだわりこそむしろこの運動の美点であり強さでもあるのです。いつかは解放されるというような未来の約束の時間から現在を分節化してしまうことなく、今ここでこの固有性の中ですべてを輝かそうとする姿勢は、我々がそこから取り出してみせるべき最も澄んだ美しさの部分です。
  そしてそれらは、人の思想がすべてそうであるように、常に、自らを保ち強める努力なくしては、はかなく解体していくものでもあるのです。
  一つの社会的運動について「当事者」でないものが何を語ることができるのでしょうか。詳細な調査に基づき、さまざまな方向性からその分析をすること、到達点を、問題点をあげ、未来の課題をあげること、予測すること、だとすれば、それらからはずいぶんとかけ離れた報告になってしまいました。しかしそれらとは別のやり方もあるはずです。決して同じ形でとどまることなく、可能性ということの別名ですらある「運動」に対して、これはこういう運動だと決めつけに入るのではなく、分析対象物として対するのではなく、運動と同じ方向を向いて歩くこと、自分なりの問題意識をそれに重ねてその運動から共鳴し共振してくることを増幅して取り出してみせること、その運動のベクトルを極限まで徹底し、ひょっとしたら運動の当事者さえ気づいていないかもしれない驚くべき姿を取り出してみせること。理論とは、実践と実践の間の踊り場のようなものだとすれば、後者の方法こそ私は取りたいと思います。理論は実践に従属するものでもなければ、実践に先行するものでもありません。それぞれが相手に回収され、我々すべてがその当事者であるような、一つの運動、活動自体になれることを望みたいと思います。
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*1 モンドラゴンについては以下を参照。
『モンドラゴンの創造と展開』W.ホワイト/K.ホワイト 日本経済評論社 1991
※なお、その後出版された『モンドラゴンの神話』シャリン・カスミア 家の光協会 2000年刊も必読だ、と私の友人は言っております。
*2 『ワーカーズコープの挑戦』 先進資本主義国の労働者協同組合-フランス・スペイン・イタリア・日本  (国際シンポジウム-東京 1992.6.20 の記録) 日本労働者協同組合連合会 編 労働旬報社 1993
*3 ESOP(Employee Stock Ownership Plans)については以下を参照。
「エコノミスト」1990.3.6 p80
Understanding Employee OwnershipCorey Rosen,Karen M.Young (eds.) ILR Press Ithaca,New York 1991
*4 『試練に立つ自主管理』M.ドルーロヴィチ 岩波現代選書 1980 p260
*5 ここでは、自らが所有する工房で自らが構想しそれを自らが工作するという、一つの「あるべき本来的な(疎外されない?)」労働過程の像、職人像を原点として、それが「工場」に拡大されているにすぎない。構想と実行という順序は維持され、自己同一性によるその順序の工程の完遂が、ある「自己」の実現であるとされている。それは、「主体と対象」という労働概念の構図、そのような主体様式の表現ではあるのだが、結局それが解体されなければならないのである。
*6 構想と実行とを、全く別の事柄として、すなわち「順序」という労働概念の内包を敢えて無視して、全く別のところで継起する独立した行動と見ることで、この支配関係を無化しようという考えもあり得る。「順序」は主体とその従属という概念から導かれたのである。輪郭を持つ(有限性を持つ)元の集合なら(有限集合、可算無限集合)順序はもてるが、連続集合では、元を選出する作業を前提としなくては順序はあり得ない?
*7 この固有性とは、次のようなものではない。すなわち、<個人>を<個人>として、他との弁別において比較可能な<個人>として成立させる、その<特徴>としての個有性。そのように順序づけ序列づけるためにはその弁別(差異)は代数的構成関係を持たなければならないが、それによって他との比較可能性の空間の中に構成されるそれぞれの個有性
 そうではなく、そのような記号性が持ついわば目の粗さの水準で陳述され主張されようとする像あるいはモデルの持たされる個有性の次元ではなく、いわばそういう陳述が行われようとするという世界自体、事柄自体を経験するものとしての、「世界総体の唯一性」としての固有性なのである。そこでは「個」という弁別自体がその世界の唯一性=固有性の上での創出可能性を示す一記号にすぎない。
*8 西欧なら「これが『真理』だ」というところだろう
*9 「『支配』として見える」 すなわち、主体と対象という二項が、支配には必要であり、かつその二項は輪郭を持っていなければならない。もしそうでなければ(主体と対象が輪郭性を持たなければ)「支配」として成立しない。支配という概念はない。主体の対象を取り扱う手つきとしての問題設定よりも、世界観としての連続無限としての世界を語ることの有効性。
*10 要するに線分の上で幅を持つもの(有限性)はその数は多数であっても有限であり、有理数(これは単位性と考えるべきだ)で占めようとするものは可算無限となる。これらは<自己>として折り返す、自己意識を持つための完結性、を持ってしまう。そして、それらではなく、それらの発想を逆転し、積み上げではなく選出ということによって、実数の連続無限を導入した場合にのみ、自己に折り返す完結性で他との関係を代数的に自己規定する様式ではなく、常に「自体性である全体」との関係でしか<自ら>を成立させない主体の様式を得ることになる。
*11 恣意性とは、完結性=自己意識を襞として折り込ませるもの
*12 権力は、また権力でない関係は、関係であるため「関係」がなければ、二人以上いなければ、成立しない。物理的な離島での一人暮らしも、意識である限り関係として原理的に「一人」ではあり得ない、すなわち権力に関する事柄は意識である限り存在する。
*20 2020年ようやく「労働者協同組合法」が成立し、2022年 10月1日施行された。
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