季報唯物論研究 第78号  2001/11 緊急小特集 「9・11米国中枢同時テロ」私はこう思う

「自衛」する幻想的な諸主体の限界

 

 死んだ者は語ることがない。死んだ者の名において様々な相反する正義が語られるが、それは皆生きている者たちによる。
 人の死体は抱き起こすのにも重く、呆然と放置すれば腐り始める。その人への記憶は、その微笑みやその声だけでなく、物質としての身体の、その焼かれた骨片の砕け散る手触りにまで一貫する固有のものとして、そして、自らもそのようなものであるという自覚に、繋留されるべきである。
 そこから、すなわち現存する地上の諸概念をもすべて相対化してしまい、同時にすべてのものを生み出すその地点から、死者への哀惜を生かすために、これからの地上はどのように組み替えられるべきなのか、歩み出したい。
 AFL・CIOのウェブページが、倒壊したビルの中に消えた傘下の労働組合員数を淡々と数え上げる時、その一つ一つは、おそらく決して裕福ではなかった、固有の生の確認である。一方で、午前二時に突然家を追い出され、イスラエルのブルドーザーがその家を跡形もなく踏みつぶしていくのを見つめるパレスチナの家族は、もう何十年も占領地でそのような生と死を迎えてきた。
 病気で死ぬにせよ、交通事故で死ぬにせよ、強盗に殺されるにせよ、裸足で井戸水を汲みに行き十歳で死ぬにせよ、マンハッタンで金融取引による利ざやを稼いでいるにせよ、それらの様々な脈路による修飾や賞賛、そして軽蔑や意義付けも無効である地点、それらの現世的存在規定網/自己規定網の届かない地点に、固有の生の位相があり、それは自らの価値を固有であるが故に普遍的なものとして輝かせている。言い換えれば、マンハッタンの一人、アフガニスタンの一人、パレスチナの一人、アウシュビッツの一人、広島の一人、東京の満員電車の中の疲れた一人が、同じ価値を持って尊重されなくてはならない。
 これらの固有性から遊離した、妄想による「自己」意識の運動が、他者を支配しようとするグロテスクさであふれ出ている。それがこの事件を発生させ反復させるものだ。
 ハイジャック機を超高層ビルへ突入させるという行為と、我が日本軍の特攻攻撃とは、全く別のものであると信じている首相、アメリカに付くかテロリストに付くか二つに一つだと「世界」を脅迫して恥じない大統領、最貧国の人々に向かって、君たちを攻撃しているのではない、証拠に(一発何千万円のミサイルと同時に)食糧も投下してやっているではないかと言う戦略的な知性、まずアメリカに信頼されるためニホンは何を為すべきか考えよという背広を着たビジネスマンたち、アメリカの傲岸が招いた自業自得だとつぶやく労働者、・・・。
 テロを企画実行させた者は「裁判」にかけられなくてはならない。そこには彼らと同時に、報復爆撃をしている者も召喚され、それぞれの考えを徹底的に述べさせられる。彼らが語る互いへの恐怖と憎悪について、様々な死者から成る判事達は、その脈路を分析し、彼らの「主体」が妄想として構成されたものであり、「我々」は「何者」でもないことを宣告するだろう。それによる明日は、貧しさと恐怖を解消していく、それぞれの場所での〈熱情〉になるはずである。
 
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