「フォーラム21」No.32  1994/10/30 掲載

メディア上の身体(上)

アルバイト・スチュワーデス報道の接線

※「スチュワーデス」という言葉は2023年においては死語であるが、執筆した1994年時点での使用法に沿ってそのまま表記する。

 (1994年)八月始めに、三年連続の赤字経営であった日本航空が、経営再編策の一つと称して国内線の女性客室乗務員(スチュワーデス)について「時給千三百円のアルバイト」を導入するという計画を発表した。ところがその後、自民党所属の運輸大臣がそれは「安全上問題があり認めない」と発言し、運輸省もそのように「行政指導」したことを発端にして多くのことがマスメディアで報道された。

 ここにおいて私がしようと思うことは、今回の問題に関してマスメディアで具体的に言い表されたことを検討することによって、一つには、このニュースをニュースとして成立させた前提的な脈路は、いかなる対比と緊張によっていたかを明らかにすること、二つには諸言説に現れた対立や攻撃の相がどんな合理性によって成立しているものであったかを明らかにし、その戦術の効力についても確定すること、三つには、それら具体的に言われたさまざまなことのベクトルを、それぞれ延長することによって現れる亀裂、別の身体感、別の思考様式・行動様式について述べること、である。*1

 T ニュースの成立

 まず、「スチュワーデス」という呼び方が、すでにしてある見方を呼び込んでおり、以後さまざまに報道される言説の論理運行を規制する要素の一つになっていた。

 客室乗務員には航空法施行規則第二一六条による保安任務があるにもかかわらず、乗員、整備士が航空法で運航全体を担う「航空従事者」と規定されているのと違って、「航空従事者」とは規定されておらず法的位置づけが低められているという「矛盾」があるという(赤旗0825)。すなわち、航空機の運行という事柄が(地上からの誘導や情報提供という作業はとりあえず除いても)、一つはその操縦及び機体の整備というまさに飛ぶための物理性にかかわる事柄と、もう一つは間接的にしかそれに関与しないとされる事柄−−たとえば客室内での異常を感知しそれによって飛行計画の変更がされること、すでに着陸に失敗してしまった後、炎上した機内から客を誘導すること*2など−−とに分離されて考えられ、かつそれが職種=人に割り振られている、ということである。この分離は、飛行機の場合には支えのない空中を飛んでいるために、いかなる運動も操縦席でのパイロットにしか制御できない、という機構的な特性から導き出されている。そしてそれが、鉄道の車掌−−軌道上を信号系によって走行するものであり異常発見時には非常弁を引いて緊急停止させることを求められている鉄道の車掌、と、飛行機の客室乗務員を違うものに感じさせている。物理的な運行への、すなわち飛行機の機体を操縦することへの関与は、操縦者(パイロット)という「他者」を介してしか絶対に不可能であるということが、客室乗務員をして「運航」概念から遠ざけ、別の役割として弁別され設立された「接客」という範疇に重心を置いて規定する際の脈路になっている。

 その客室乗務員の中でも特に女性を、パーサー、アシスタントパーサーなどといった職制にかかわらず一括して「スチュワーデス」と呼んできた。日本語である「スチュワーデス」のイメージが、歴史的にどのように生成されてきたかはおくとして、それが現在どういうものであるかはまさに言われている事柄そのものである。では、それはどのような事柄だろうか。

 「運航」、すなわち交通手段としての「機能的本質」として理解された事柄*Aの、その核心に「飛行」という概念が輪郭づけられ始めると、それとは切断されたものとしての「接客」という対比が生まれる。そしてそれが「若い」女性に特化されている。たとえば次のように。

 @「この不景気風に吹かれて、航空会社は新人スチュワーデスの不採用を決定。結果、飛行機に乗ってもあのピチピチ・ギャル・スチュワーデスにめぐりあうことがとんと少なくなった。機体なんか多少古くたっていいから、スチュワーデスくらい若いのを頼む……ピチピチ・スチュワーデスを何とかお願いできないものなのか、日本航空さん。『確かに、お客様がスチュワーデスにそうした期待をお持ちになるのはよーく分かります。私も航空会社の社員でなければうなずくところです。…… 期待を裏切られた、というお客様にはただ、お詫びして、『ベテランの円熟した魅力も見出して頂きたい』とお答えするしかありません』(日本航空広報部)」(週刊文春0409)A「パーサーC子さん(三五)は、八月十二日の『亀井発言』翌日のテレビのワイドショーに驚いた。中年の男性俳優が『バイトでいいじゃないか。若けりゃ若いほどいい』と話しているのだ。『スチュワーデスをある種の水商売としか見ていないんですね』」(アエラ0905)B「女性でもスチュワーデスの高齢化に批判的なのが浜田マキ子女史。『私は女性にとってスチュワーデスは三〇過ぎてやる仕事じゃないと思います。業務的に言っても、年をとった人より若い子の方が機敏なのはもちろん、サービスされる側にとって好ましいのは当然でしょう。能の言葉で『時の華』という言葉があるんですが、要するに人にはその年齢その年齢に適した役割があるということです』」(週刊文春0409)D「どの航空会社も、数百倍という筆記試験の倍率を突破してくるのは、TOEFL六百点以上などの優等生ばかり。そのうえ身長や容姿などでえり抜かれ、男性からは『つきあってみたいステータスシンボル』とあがめられる」「(乗務に就くスチュワーデスたちの写真の説明文として)女性のあこがれの職業ナンバー1」(週刊朝日0916)E「愛用の下着はこれ!誘い方はこれ、これ![スチュワーデスの謎]空の旅が20倍楽しくなる 第2弾 アルバイトスッチー決定記念」(週刊ポスト1007 朝日0926の広告文による) このように語られる「スチュワーデス」がある。それは、「私」の自在になるかもしれない客体(としての主体)であり、同時に、「私」をそのように否応なく誘惑し自らを見せつけてくる攻撃的な主体でもある、要するに「自己意識」と「自己意識」の間でのゲームの戦略=「性」の範疇の中に、それは配備されている。*B

 そしてそれらに対応して、「先輩の話を聞けば、体力的には大変そう。スチュワーデスとして二十代をカラフルに生きて、次のキャリアアップにつなげられたら」(アエラ0905)という、像がある。*3「二十代を・・・」、若いうち、なのである。

 職務という概念から能うかぎり遠く、自己を「魅惑するもの」としてその像は、男・女・各人によって精気を吹き込まれている。

 一方、経済的な待遇の面では、「二七才のスチュワーデスが年収六、七百万だそうだが、私の感覚ではとても高いと思う。条件は違うが列車や客船、ホテルのレストランで働く二十代後半の女性にこれほどの賃金は払ってはいまいし、ほとんどがアルバイトだろう」(投書三二才会社員男 読売0819)などと、空飛ぶウエイトレスとしてねたまれてしまったりする。(組合の発表では勤続十年で国際線国内線あわせると平均年収六百六十万円。産経0917)

 「女」がここでも重要な要素である。「女、なのに高すぎる待遇」、なのである。同じ待遇を受けている男性客室乗務員はこうした対比のされ方では批評されないだろう。

 低賃金、期限付きの契約社員、という待遇の変化は当然これらの「スチュワーデス」イメージに変更を加える。次のようなものがそれに対応しているだろう。

 「スチュワーデスが真に花形だったのは、ジャンボ機の導入で大量採用が始まる、一九七〇年代以前と見る向きは多い。五八年に日航に入社し、六年間スチュワーデスをした女性(五七)は振り返る。『日本がまだ発展途上国だったころの話です。会社もスチュワーデスのイメージを宣伝広告に使った。今や花の部分はもういらない、実をとると会社は判断した。時代は変わりましたね。』(アエラ0905) 「米国などでは、スチュワーデスはブルーカラーと紙一重の職業と見られている。日本が特殊なんです。いずれ職業としてのステータスが崩壊するときが来ると思っていたが、今は過渡期でしょう」(週刊朝日0916)

 しかしアルバイト化によるこうした待遇面での「ステータスの崩壊」は、「男」の性的な対偶としての「スチュワーデス」像の崩壊とは独立だろうと考えられる。むしろ皮肉なことに、「二五才までの女性を採用し三年間の時給制雇用、その後正社員への道も開く」という、若年退職制として運用が可能でもある最終決着案により、(それがスーパーの商品陳列係のように四五歳以下の募集とかであるなら全く別の事態を引き起こすのだが)、むしろますます仕事から切れた空想的な「スチュワーデス」像が持続可能になるだろう。なぜなら、それの解体はなにより女性客室乗務員の多数派がたとえば勤続年数の増加によって「若い女」でなくなるという強行突破的な現実改変と、具体的な業務への理解によって飛行機の客室乗務員に若い女性であることを求めるのは奇異なことだという新たな常識によってもたらされるだろうが、今回の施策はこれまで進んできたそういった傾向性を、低賃金と若い女であることを同時に成り立たせるために、全く逆方向に動かそうとするものだからである。

 「……小子が最近乗ったアメリカの飛行機では白人、黒人、黄色人と人種も、年齢も様々な男女の乗務員のサービスを受けたし、イタリアでは美青年のスチュワードの存在が目立った。ドイツでは、体力に自信のありそうなベテラン風の女性乗務員が実務をこなしていた」(【斜断機】産経0901)。 「人種も、年齢も様々な男女の乗務員」が採用されるためにはそのような施策が採られなければならず、「自然」にそうなるわけではない、おそらくそこにいたるまでには様々な闘争があったはずである。

 こうした、高給取り、若い女、華やかさといったような「スチュワーデス」にまとわりつくイメージが、会社側の提案自体をしっかり見つめることをさせず、おもしろい話題というものへとずらしてしまうベクトルの一つになっていた。 あの「スチュワーデス」だからこそ、その言葉の位置の対称点だと感知された「アルバイト」「時給制」と言う用語と接続したのである。対称的な語の接続は原理的に言ってそれだけで目を引くこと、「ニュース」そのものになる。だからこそ、すでに話題として一巡りした九月初めには、会社側は「待遇面や安全管理策を見直したうえで 短期契約のスチュワーデスを導入する方針を固めた」「『アルバイト』と報道されたことで誤解が生じているとして、 新しい名前をつけることも考えている」(朝日0901) 「……アルバイトについては『 契約制の正社員 である』と強調した、……」(朝日0910) というように報道の言葉にこだわる戦術を登場させたのである。

 会社側が報道に求めていることの核心は、「契約」という言葉の導入である。*4

 この「契約」という言葉こそ、「短期 契約 」であろうと「アルバイト 契約 」であろうと「出向 契約 」であろうと、すべて、当事者双方の同意、すなわちたとえ内容がどんなものであろうと双方の、「合意」、という一点において、その両側に「まったく対等の当事者」という項目を創出させる装置なのである。

 一方「アルバイト」という日本語は、むしろ、その「契約」の実体を指している。安い賃金、時間給、単調な仕事、一人前ではないこと、別の頭脳によるプログラミングによって作動を繰り返す機能的手足、稼ぐということ以外−仕事内容など−への非関与=それ故の逆立ちした自由、自分はたとえば学生という 別の 本質を持っているのだとでも言い続けなければやりきれない従属性、等々、崇高なものとして労使ともども崇め奉りたい様々な「労働」の、床に落ちている粉々な破片、落ち穂拾い、それをしている人、それが日本語の「アルバイト」だ。だがまたそれは、他のすべての正規の、立派な、一人前の、「契約」を、雇用「契約」の実体を、貫いてもいることではないのか。

 会社側が「アルバイト」でなく、 正確に 、「契約制の」、「短期契約の」、と書いてくれと懇願したのは、まさに「契約」という用語が、「アルバイト」という語にまとわりつく胡散臭さを一挙に「会社」と「アルバイター」との対等性に転化させる機能を果たしてくれることを当て込んだものなのである。言い換えれば、「契約」というのは自由な対等な市民によるものだと書いてあった学校の教科書を人々が再び思い起こしてくれることを当て込み、−−皆さん、ここにいるのは互いに納得した契約の当事者であって、ここには弱い立場のアルバイターやそれを使い捨てる強者の会社なんてどこにも出演してませんよ−−とあわてて幕を引きだした口上なのである。

 八月十二日の亀井運輸相の発言以前から、この、航空会社がアルバイト・スチュワーデスを導入するというニュースは報じられていた。(朝日0708/0803) いろいろな業種のいろいろな会社で下請化とかアルバイト化は今現在も進められているはずであるが、(たとえばNTTの番号案内)、しかしそれらについては今回のアルバイト・スチュワーデスのようには報じられなかった。「時給は訓練中が八百円、地上勤務は千円、乗務時は千三百円。……年収にすると約二百万円になる見込みで、日航の新入社員の年収約四百万円の半分程度」(朝日0803) などというようなアルバイト化を主題とした形では決してニュースにはならなかった。したがって、追い出されていく職場の人々と新たな不安定雇用の労働者としてそこに参入していく人々だけが、下請化やアルバイト化が起こったこととその内容を知っており、その闘争の中で会社側と、また仲間内で、やり取りされた膨大な言説と行為はそれぞれの胸にだけ蓄積されて生活の表土の下に埋められていくというわけだった。だがなぜ、航空会社の、しかもスチュワーデスの場合だけが、アルバイト化を主題化した形でニュースになったのだろうか? 

 今回の当初の会社発表でも、タイに本拠をおく子会社であるジャパンエアチャーター(JAZ)に採用されるアルバイト・スチュワーデスは「一ヶ月のうち十五日間は国内線に乗務、五日間は羽田空港で 地上業務をする 」(朝日0803)ことになっていたように、すでに、「空港のカウンターで航空会社の制服を着て搭乗手続きをしている人たちの多くは、アルバイトや下請け会社の社員」(朝日0827)なのだそうだが、同じく直接客に対面する業務でもカウンター業務の下請化はニュースにもならなかっただろう。まさに今まで見てきたような対称的な配置関係にあったこの、「アルバイト」と「スチュワーデス」の組合せだったからこそニュースになったのである。

 しかし、これとは別の「スチュワーデス」理解によっていれば事態は異なってくる。

 『赤旗』(日本共産党機関紙)の例を見てみる。そこにおいては、普段の日常においてこのメディアにかかわる人々の考えがどうであるかは別として、少なくとも編集の際のノルム(慣行規則)としては、「スチュワーデスは保安要員」であり、「国内線二カ月半、国際線は三カ月半から四カ月間の教育訓練(座学、実地ふくめる)をおこない、試験を受け、基準に達した者が、客室乗務員として乗務」できるのだし、さらに「ベテランスチュワーデスから実際の乗務の中で、経験、体験をうけつぎ、蓄積することで、『一人前』」になれる(赤旗0825) のが「スチュワーデス」であって、そこには先ほど取り上げた週刊誌やテレビのワイドショーなどの表現する「ある種の水商売」の像は入り込む余地がない。したがって、アルバイトとスチュワーデスの接合はそういった方向性ではニュースにはならないことになる。ニュースの可能性としては、そうしたたいへんな仕事を(労働条件も悪い)アルバイトに行わせるとはけしからん、という方向になるだろうか。そしてその言い方は、「スチュワーデス」を何らかの意味付けで特権化しない限り、どんな仕事にも当てはまるあまりにも一般的なことがらだ、ということになるだろう。

 問題はニュースが決して「事実」を伝えるものではなく、「事実」を構成するものであるということである*5。そしてそれを構成するノルムは多様であり、それぞれの脈路を分析することは、現在の「支配」「統治」を分析することに他ならないということである。同じアルバイトや下請化にしても、たとえばNTTの番号案内の現在の外注化過程については『赤旗』は職場ルポをはじめ精力的に報道しているが、一方『朝日』はそれを主題化する報道は全くしていない。逆に『朝日』はアルバイト・スチュワーデスの話を航空会社が決定した段階で掲載したが、少なくとも同じ日『赤旗』は何も伝えてはいない。『朝日』と『赤旗』ではその「ニュース」を作るノルムが違う、そしてそのそれぞれがどのようにして現実を構成し読者に働きかけようとするものなのかも分析されなければならない。『朝日』あるいは『赤旗』というのは固有名詞ではあるけれど、さまざまに可能なニュース生成のノルムのうち、ある二つへの名称だと理解するべきである。ニュース生成のノルムという言い方はそれぞれの編集部の脳に回帰するものではなくて、それぞれの位相によって別々に編成された、ニュース生産と供給、自己維持といった装置全体を貫くことができる、何を特異性と定めるかについての規則群を指していることになる。

 以上、アルバイト・スチュワーデスの件について週刊誌や商業新聞が亀井運輸相発言以前から取り上げてきた際の、ある独特のバイアス(偏向)の脈路について考えてきた。では、ほかの、たとえばNTTの番号案内のアルバイト化についての報道の脈路とはいかなるものだろうか。

 このNTTの番号案内のアルバイト化の現在については『朝日』は全く書いていないというわけではなく、電話番号案内104番の値上げ計画*6に関する記事の中でこう書いていた。一つはタイトルが「赤字構造『104』値上げ論争混戦気味 NTT申請で電通審 長期展望を/もっと上げろ/新ビジネスに」というもので内容は「都市部の問い合わせを地方の電話局に転送して答えたり、希望退職を募ってアルバイトに置き換えるなど、合理化はしている」(朝日0729) というもの。もう一つは「電話番号案内に4案 郵政省提示 NTTから分離も 収支改善策」というタイトルで、「第一の案は、機械化やアルバイト化を進める一方、番号案内の料金を引き上げて収支均衡を目指している」(朝日0802)というもの。しかし、こうした言い方は明らかに、アルバイト化を記事の主題にしていたスチュワーデス報道の場合とは違っている。あくまでも「経費削減」の一項目としての例示にすぎない。実は、企業としての『朝日』自身について『朝日』は読者に向かってこうも言っている。「広告不振、営業努力にも限界−−皆さまもご存じのように新聞社の経営を支えているのは購読料と広告収入が二本柱で、この広告収入が購読料を抑える役割を果たしてきました。しかし、今回の景気低迷で広告収入は激減しています。…… 朝日新聞社では各分野の経費節減を進め、設備投資の圧縮・先送りなども実施して参りました。新聞社の経費でとりわけ大きな比重をしめる人件費につきましても従業員の大幅削減を含め、圧縮に務めております」云々(ご愛読の皆さまへ−−購読料改定に御理解を1993・11 朝日新聞社・ASA朝日新聞販売所連名の折り込みチラシ)これらの記事とチラシの両方を貫いているのは、企業経営にとって、すなわち自身にとって、人員削減・アルバイト化は自明性の範疇に含まれるという理解である。そうである以上、個別企業のそういった労務政策はそれ自体ではことさらニュースにはなれないことになる。なにか別の要素が必要である。今まで優良企業といわれていたあの会社が、とか、争議などの事件化、他の記事との連関性というものによって記事になると思える。朝日新聞が個別企業の合理化案を伝える一九九三年二月二七日の記事をみる。「NTTが合理化の促進を狙い『希望退職』を導入する」というものだ。この記事は、「今回新たに導入する希望退職制度は、年齢に関係なく、広域的な配転に応じられなければ半強制的に退職してもらおうという、合理化の進展を目的とした」制度だと伝えている。年間一千億円以上の黒字を計上してしまうこの企業での「配転に応じられなければ半強制的に退職!」、この厳しさは、同じ日の別のもう一つのNTT関連記事と一対をなし、接続する。それは「NTT社長が市内料金の値上げ希望を表明した」というものである。ニュースとしての主題は、読者に直接関係することとしての、NTTの市内料金値上げ方針、の方であって、その値上げという方針による反発力を吸収すると同時に納得させる壁として、二次的に、希望退職・合理化の記事がある。経営業績の悪化⇒合理化(経費削減・人員削減等々)⇒やむを得ない値上げ、あるいは、厳しい合理化の遂行⇒値上げの容認、という了解された合理性の順序機構*7にしたがってきっかりとニュースは生成されており、それによってNTT経営陣の、朝日新聞記者の、そして読者の、共通する「現実」としてその完結した合理性が構成され、再確認されている。商業新聞はそのような、現在支配的な合理性の集団的な確認のための装置でもある。

 結論として言うと、商業新聞において、ある個別企業の合理化案のニュースは、争議以外では、そうした企業業績悪化↓人員削減、経費削減、あるいは、人員削減、経費削減↓料金値上げという閉じた「合理性」を構成する順序内の一項としてのみ生成可能なように見える。そして、単独のニュースでなく業績の悪化や人員削減などいくつかのニュースの順序と布置こそが「ニュース」=「現実」である。この場合構成される「現実」とは、この企業経営と呼ばれている「合理性」の脈路そのものであり、共同的に行うその合理性の「自己確認」が同時にこれらのニュースの順序と布置によって構成される「現実」なのである。もちろんそれは、商業新聞会社が自らの、 現実の 商品の値上げを押しつける際の論理運行(折り込みチラシの引用を参照)と全く同型とならざるを得ない。*8

 しかし、アルバイト・スチュワーデスに関するニュースは、こうした個別企業の合理化案をニュースに生成するノルムの一つである、航空会社の経営悪化との連関という要素だけでなく、スチュワーデスという像への侵犯としてニュースの価値を備給されたのである。そして侵犯されたのはその高いとされてきた経済的なまた身分的な保証であったから、他の合理化案報道の場合と違って、合理化案の内容のうち待遇に関わる部分に細かくふれる報道を結果し、さらにそのことによって、その施策の具体性についてさまざまな意見も誘発したのであった。

 

U 問題をずらす技術

 最初報じられた亀井発言は、「アルバイトと正社員では身分に差があり同じ航空機に乗り込むとチームとして一体感がなく、緊急時の対応が心配だ」(朝日0812) との理由で導入の再検討を求めたというもので、「従わない会社は増便申請などで不利に扱うこともある」(朝日0816)という警告付きであった。

 まず、この発言を予想もしていなかった者たちによって、この混乱した事態を整合的に理解できるようにするためのいくつかの試みがなされた。

 一つは、この発言の「真意」、発言者の「本当のねらい」というものを推測し確定すること、言われた事柄そのものから、言われていないが本当はそれが言おうとされている、隠された真実、という次元へと問題をずらし、それを推測することで、言われてしまった問題そのものからは逃避すること、である。

 さまざまな「真意」をめぐる「説」が紹介されている。

日航にだけ厳しいのではないか? すでに運輸省が認めていたのになぜ? 自民党のしかも「タカ派」の大臣が労働組合と同じ発言をする裏はなにか?というようなそれぞれの疑問をうまくふさぐように生成されている。

 @自民党が野党になっていたときに日航のVIPルームの使用を断られたため(産経0818) A運輸官僚が運輸相への事前説明をしていなかったため(産経0818) B運輸省に勢力を広げたとされる新生党への対抗意識、『運輸族議員』出身の大臣としての影響力誇示(朝日0818) C日航関係の警備会社と密接な関係があり、「警備・安全保障」という利権に食い込みを図っているのではないか(サンデー毎日0911発行は0830頃)

 いずれも各メディアがそう主張しているのではなく、そういう説が囁かれているという「ニュース」である。

 このやり方、発言者の隠された真意を解釈し確定することによって、発言され言い表された脈路自体は思考から排除する方法は、「現象」の背後にそれを規定する「本質」を求めずにはおれない思考様式、世界を、規定するものと規定されるものとに二重化せずにはおれない思考様式、から導き出されるにすぎない。言われたことに接続して思考をどこまでも展開するのではなく、「発言者」と、それに規定される「発言内容」という二重化によって、発言者がかくかくの存在であったから、その発言はしかじかであったのだと完結的に述べる解釈学は、世界のさまざまな出来事には必ず作用因としての「主体」がある、という理解によって成立している。それは「稲妻をその 閃光(せんこう) から切りはなし、後者を稲妻と呼ばれる主体の 活動 であり作用であると考えるのと同じく」誤解である。「活動、作用、生成の背後にはいかなる、<存在>もない。<活動者>とは、たんに想像によって活動に付加されたものにすぎない、−−活動がすべてである」(ニーチェ『道徳の系譜』ちくま学芸文庫 信太正三訳 p405)

 発言者の「真意」をいくら見出したとしても、言われたことの脈路をそれで無効にできるわけではない。その言われたことの脈路は、また別の所で、また別の発言者によって繰り返されるだけだろう。

 もう一つは、「これは事情がわからぬ素人大臣の発言である」、という規定をとっさに浴びせかけることで、アルバイト・スチュワーデス導入を認めた判断脈路の再検討に入り込むことをとりあえず防御しようという眼瞼反射の一種である。

 @「時給制の導入は、大手航空三社の費用の二十%強を占める人件費削減の一手法として、航空審議会答申に盛り込まれ、さらに運輸省もお墨付きを与えたという経過がある」(読売0824) A「安全面を含め、監督省庁である運輸省や労働省と事前に十分な調整、根回しをしていただけに」(産経0818) B「アルバイトといっても訓練は正社員と同じで、安全性にすぐ影響することはないというのが、運輸省航空局をはじめ専門家の見方だ」(朝日0817) それゆえに C「大臣のような素人が口を出す問題ではないでしょう」−元日航社員の作家、「就任早々で事情をよく知らない大臣が勇み足的な発言をしたという印象だ」−航空評論家(朝日0817) ということになる。

 今回の施策の導入がいかに、「事情」に精通した、と自認する、一群の「専門家」グループによって運行されてきたものであるか、またそれらの判断がいかに、運輸大臣という「政治」(とりあえず、選挙で示された国民の意志、というマスメディアが普段唱えている意味で十分だが)にさえ優先する超然としたものだと考えられているか、がよく見て取れるだろう。専門家とは誰か? 会社経営者、「監督」省庁、審議会委員、評論家たち、そして新聞会社の経済部記者もその一端であると自己認識しているようであった。残念ながら、「専門家」としてそこに欠けてしまっていたのは、当の「スチュワーデス」、あるいは「普通の人」だけである。そして、「事情」というものがある特定の人々、要するに発言している自分たちなのだが、にのみ把握可能な、特別な、「世界の秘密」、「世界の真実」として囲い込まれ、位置づけられている。<それは素人が参加して組み立てられるべきようなことでは、ないのだ!> 世界は彼らが認識し組み立てた「事情」によって作動すべきであり、それに外れる行動は「素人」の危険な誤りなのである。<たとえそれが国民に選ばれた政治家であっても!> したがって、「大臣の発言はどう考えてもおかしい。安全の専門家でもない人が、なぜあんなことを言うのか」と運輸省「航空局の中堅職員は語気を強め」、「ある幹部」は「そろそろ官僚側から大臣を説得して、落としどころを考えなければ」(毎日0824)と新聞記者に話すのである。「専門家」たちによって囲い込まれた、世界の真実たる「事情」、それが守られるべき彼らの眼球であった。

 さてこうした、アルバイト・スチュワーデス導入に肯定的に関与してきた一群の人々の、見てしまったことを見なかったことにするような自己への慰めは持続できない。事態は現実の中で終息させられなければならない。かくして、亀井運輸相の発言内容をめぐって、具体的な闘争は始められなければならないのである。

  <以下次号>

 

<註>

*1
私が使用したのは、朝日、読売、毎日、産経、赤旗の各紙、および目についたごく少数の週刊誌などである。新聞記事の選出は、記事本文にスチュワーデスという語を含み、かつ、アルバイトまたは時給という語が含まれているという条件を中心に行った。
引用に際しては新聞名などの後に一九九四年のものは月日のみを4桁で表示した。

*2
週刊「金曜日」1994・9・30の佐高信司会の座談会で、日本エアシステムのスチュワーデスは、九三年四月一八日に岩手県花巻空港で着陸に失敗し火災となった状況からの客の誘導経験を語っている。その他、事故の際の客室乗務員の重要性について最近では次のような記事がある。「韓国の済州島で(一九九四年八月)十日午前、大韓航空のエアバスが着陸に失敗し直後に炎上した事故は、百六十人の乗員乗客のうち数人がかすり傷程度のけがをしただけで大惨事を免れた。乗務員の的確な誘導と乗客たちの冷静な行動が奇跡≠呼んだといえる。」(産経0811)

*3
もちろんすべての接客がこのように、すなわち「若い女性」に割り振られるというわけではない。たとえばホテルの接客はその道一筋何十年という男性が売り物になることがある。
  接客を私個人と対面するような像で構成すれば、そしてその私という個人が「男」という規定の中にあれば、その接客される私個人の自在性は(業者と「お客様」の権力関係として)、先に引用したような、性的な対象であり吸引力である「女」の像で相手を規定しようとするのだろう。接客される私は多数の中の一人である、と考えた場合には、対面的な吸引力としての「若い・美形」といった要素を望むことは消えるだろう、さらに、接客される私が男女子供らの多数多様の一人であると規定された場所では、接客者は親切とか深い気配りといった一般性を帯びた者として想定されるだろう、そこでは「若い女」ではなく、「落ちついた・たのもしい・人生経験豊富な・男」などの像が今度は持ち出されることになるかもしれない。

*4
朝日、産経の記事はほとんどが「アルバイト」という語を事件の終息まで使い続けていたが、読売は「時給制スチュワーデス」、毎日は「時給・契約制スチュワーデス」という用語を使った記事の方が「アルバイト」を使った記事より最初から多かった

*5
カナダで子ども達のメディア教育に使用されている指導書は次のように述べる。

「メディアとクリティカルにつきあう方法を子どもに教えない学校は、メディアのイメージや表現に何の疑いも持たずそのまま完全なものとして信じこんでしまう子ども」や「メディアを悪知恵にたけたものだと全面的に否定する懐疑主義者をつくりだすことにもなる」「私たち個々人の意識を左右するまでになっている」メディアに対する教育の目標は、
@「メディアが現実を構成するやり方を解読するのに必要な技能、知識、態度を育成する」
A「これらの構成物と広く浸透している価値観の社会的、文化的、政治的、経済的意味の意識化を促進する」
B「メディア作品をつくるために使われる多様なテクニックを確認し、解釈し、検証する」
C「メディア作品を構成する人たちはさまざまな動機、支配、緊張などに従属していることを認識する」
などであり、その基本概念は、

一、メディアはすべて構成されたものである。

二、メディアは現実(リアリティ)を構成する。

三、オーディエンス(視聴者)がメディアから意味を読み取る。

四、メディアは商売と密接な関係にある。

五、メディアはものの考え方(イデオロギー)と価値観を伝えている。

六、メディアは社会的・政治的意味を持つ。

七、メディアの様式と内容は密接に関連している。

八、メディアはそれぞれ独自の芸術様式を持っている。

といったものである。

「このプロセスによって、子どもは自分たちの文化との間に一定のクリティカルな距離を置き」「子どもは、自分たちの世界を支配するシンボル体系を解読し、記号化し、そして評価する能力を身につけたクリティカルな主体性を確立するのである」

『メディア・リテラシー』カナダ・オンタリオ州教育省編/FCT(市民のテレビの会)訳 リベルタ出版 1992 \3,440

 ※この本の水準は、ともすれば「商業マスコミは『真実』を伝えていない」という単調性によって別の「真実」を対比することに収束してしまう、我々のよく目にするメディア批判を遥かに凌駕しています。実践的な「技術書」としてぜひ一読をおすすめします。

*6
毎年一千億円を越える利益を上げてしまっているNTTが、たとえば光ファイバー網建設に向けてばく大な設備投資資金確保の必要を感じた時(現在凍結中の、基本料金と番号案内料金の値上げ案による予測では九六年度には経常利益は三千九百七十億円になる予定−朝日0429)、いかにして「経営悪化」という、値上げに到るための基点を設立できるのだろうか。そこには、分割と併合を駆使していかに戦略適合的な「会計輪郭」を生成するか、そこから導き出された赤字または黒字という指標をどのように使用して目的とする効果を上げるか、という二つの技術がある。国鉄の線区別収支概念の運命(「赤字線」廃止の理由付けのために徹底的に使用された後、JRになってからは、そのようなものはもともと計算不能だとして消滅させられた)や、全国プール制の高速道路料金制度、NTTの市内部門と市外部門という輪郭付け、「大赤字の」電話番号案内部門という輪郭などはそのような戦略によって構成されたものであり、また高齢化社会を支えるのに「必要」な「資金」の、「現役世代」と「退役世代」の負担割合などという分割と対比も同様である。すなわち、会計記号自体がそのような戦略・技術なしには使用できないものなのであり、「企業」という会計輪郭そのものがそういう技術による輪郭なのだと言っても良い。それらの分割・対比・輪郭付けによって生成した諸主体が、「赤字」に危機感を持ち、また不公平をなじり、いずれにせよたとえば値上げ、「合理化」、税負担の様相の変更といった目的とされる具体的施策を受容するように、いかに、そのように導いていくか、それに向けて統治の全技術は駆使される。したがって、単にそれらは弱い者いじめだというだけでは全く戦略的には不十分であり、統治が一つの系として編み上げている諸戦略の脈路と亀裂を明確にさらけ出すことによって、それをもはや機能できないものにする、無力化する戦略が採られなければならない。それは同時に、いわば「自己統治」とでも言うべき新たな倫理性を帯びた、過程としての「我々」、「我々」の構成過程、そのような<力>の発現そのものであるだろう。

 ここでふれた、貨幣の流れの計測という審級から諸行動を規範的に導出するという、現在の、支配・統治の技術の一つの核でもあるやり方、について言えば、「いまの私たちに欠けているのは、……マルクスの理論と同じくらい的確でマルクス理論の延長となるような金銭についての現代的な理論なのです」(G・ドゥルーズ)ということになるだろう。ドゥルーズは、その理論の基本原理を提供するには経済学者よりも銀行家の方が素質に恵まれているでしょうね、と言っているが、日々、家計のやりくりと会社の「円高リストラ」の攻撃的言説に苦闘している者は皆その素質があるというものだろう。企業が「赤字だから・・・」と言って来るとき、こんなに内部留保を隠しているではないか、「正しい」会計処理をすれば赤字の額はもっと少ない、経営の失敗である、等々の反抗のベクトルはさらに突き進まなくてはならない。そもそも企業における「赤字」とはどういうことか、家計における赤字概念とそれは同じなのか違うのか、と。その時我々は、同じ単位で表記されているが「<サラリーマンのポケットに入る貨幣>と<企業の帳尻の中に登記される貨幣>とは、同じ貨幣でない」そして「この貨幣の二つの明細表が自由に変換するという原理」(G・ドゥルーズ/F・ガタリ『アンチ・オイディプス』市倉宏祐訳 河出書房新社 1986 p275-p276)、その幻想的な原理の効果によって我々がさまざまな決定を下していたことを見出すに違いない。それは分析にあたり決定的な視点の転換をもたらすことになるだろう。

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料金値上げは一般的には、企業業績の悪化というものを起点にしてその充足という脈路で語り始められることが多いのであるが、NTTの場合企業全体の輪郭としてはとうてい赤字にはなれない。そこで先に述べたように内部にいくつかの会計輪郭を分割生成することで、そこにおける経営の悪化というものを創出し、その収支改善の必要性を訴えるという戦略がとられている。市内部門、その中の電話案内部門というようなものがそれにあたる。しかしそれも、そのような施策を対外的に語る主体であるNTTという「一つの企業」としてみれば大黒字でないかという反論を避け得ない。

そのために、たとえ起点としての経営悪化が不分明でも料金値上げという「自身の主張」を受け入れさせるための合理性として、「私たちは大規模な人員削減合理化をした」ということを起点にして「だから値上げを受け入れて欲しい」に帰着する、すなわち、私らは自らの身体に「痛み」を刻み込んだのだから、今度は君たちも「痛み」を受忍して欲しい、という図式の戦略が平行してとられている。

後者の戦略の機序はこうなっている。まず「自己」と「他者」の分割、これが勝負の参加者となる、この場合は「NTT」(必需事業遂行者)と「利用者」という分割である。当然ながら、この勝負は登場人物をそのような二項として分割創出したそのノルム自体が持つ一つの傾向性の斜面で争われる、そしてその斜面の条件の中で必ず勝てる方からしか勝負は仕掛けられない。第一歩は、その上方の位置にいる一方が下方のもう一方に「苦」の負担を「お願い」することから始まる。すると、お願いされた側は高飛車に次のように言う自由と権利を得る、他人に「苦」を「お願い」したいというのなら、まず「お願い」する君たちが「苦」を担ってから出直すべきだ、と、それは斜面の上で対等性を確保できたと感じられる唯一の一瞬である。それを言わせてから、仕掛けた者はいそいそと「苦」を自らの身体の上にたっぷり自己贈与して再び登場する、今度はもうお願いではない、君たちの要求はすべて果たしている、君は受け入れられ自己を貫徹したのだ、君が語った合理性によればもう君は我々が提起した「苦」を受忍しなければならない、いや失礼、君の要求どおりになったのだからこれは君が嫌々受け入れる「苦」ではなく君の選択なのだ、と。かくして、斜面は元通りになっているわけだ。しかもその傾斜は今後は自らの選択として言われるようになってしまったとは。

このドラマ、実際にはマスメディアが語りを代行して人々の胸の上で上演される、このドラマによって、受動感に圧倒されることなく、それ故の徹底的な反抗を呼び起こすことなく、自らの「主体」の実現も感じながら、かくして、「他者」によって提起された施策は「自己」の身体の上に折り重ねられるのである。「……やむを得ない……しかたがない……そうだろ?…」この最後の台詞だけは君が自分の胸に言わなければならない。

この勝負は「痛み」を大きく、何回も、見せることができる方が必ず勝利する。その際の「痛み」のノルムが「経済」であるならば、より多くの「痛み」の刻み込みに耐えられる「身体」を持った「主体」、その時点で経済的に支配的な「主体」の勝利は必定である。

しかも、当たり前のことであるが、NTTが「<私たち>はこれだけ血を流したのだから・・・」と言い始めるとき、それを記者会見席で読みあげる者たちはもちろんその血を流したという出来事(大量人員削減合理化)後もNTTに留まり記者会見できるほど元気に生き続けている者たちである。彼らは、自らに「痛み」も刻み込めるというNTTという主体の身体、その仮想身体の頭脳であるにすぎず、そこから流された血とは、遠隔地への強制配転に耐えられず「希望退職」していった電話番号案内の五一歳の女性、その人たち、その固有の一つ一つの身体・苦闘のことなのである。

この敗北の斜面は、「事業遂行者」と「利用者」という分割、そのような「自己」と「他者」を分割創出したその時点で決定されてしまっていたのではないだろうか。通信なら通信という「事業」をする人と、「利用」する人、というその分割はその「仕事」が現実にはすべての人々を横断して遂行されるものであることを無視して、孤立した「彼ら」と「私たち」を造形してしまう。そしてそのような二つの主体である限りそれらが関係を持ち互いに力を及ぼせるのは、仕事の具体性、何をどのようにするかの決定の次元、その、世界の固有性に展開していく豊かさ、ではなく、互いの身体に刻まれる「痛み」の対等性の要求や、そこから生まれる満足、ねたみ、そういった空虚で悲惨な「自己意識」の力動空間でのみなのである。我々が自ら使用する具体的な物やサービスについていかにしていこうかということを、議論する場所もそれを皆で決定していこうという心構えも持つことができず、ただ、「事業者」と「利用者」という互いを虎視眈々と狙っている視線でしか出会えないというのは、やはり驚くべき、また悲しむべきことなのだ。

そして、それらが歴史的に形成されてきた「自明性」の上で作動している事柄である以上、その自明性を解きほぐし別の私たちの様式をその過程で創出し続けることが、その連帯性の現実、そのものとなるに違いない。

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念のためつけ加えておけば、商業新聞において個別企業の合理化案が労働問題として取り上げられるときも、「企業の業績」と「労働者の生活」という、解消されることなく、しかし折り合いをつけなければならない「永遠の」二項目、その対立と緊張の一具体相として取り扱われることによって、労・使(労・資)関係の永続性、自明性が確認され、そのような「人間の運命」とそこでの英知、行動が称えられ続けるのである。

 

*A(掲載では削除した注はアルファベットで示す)
いささか話がそれすぎると思われるかもしれないが、一九七三年のチリ軍事クーデターで国を追われた、生物学者のH・マトゥラーナとF・バレーラは、世界認識と実践に関する魅力的な本『知恵の樹』(菅啓次郎訳 朝日出版社1987)の中で次のように述べている。ある地点で生み出された「なにか」が導管によって運ばれもう一方の端にいる受け手に送り届けられるというメタファーで「コミュニケーション」を考えるのは間違っている。伝達される「なにか」は存在しない。ある社会単体のメンバー間に相互的に引き起こされた調整行動のことを、「コミュニケーション」と呼ぶべきなのだ、と。

 私は、これは「交通」という概念にも言えることだと思う。「米」を運ぶ、「客」を運ぶと言うとき、運ばれる「米」や「人」をそれが他と社会的に何の関係も持たない「基体」であるかのように考え、それが他に何の影響も受けず与えず起点と終点間を移動するのが「交通」だと考えてしまう。すると、その「もの」が起点と終点で変化を被らないこと=安全、その「もの」が起点から終点までに要する時間=速さ、といった機能的な概念ですべてが組み立てられることになる。しかしその「もの」が移動するという世界の変動はその「もの」を含む世界全体の変動なのであり、それは機能的な理解では到達できない価値を、今現に構成しつつある過程に他ならないのだ。列車は衝突したり脱線したりするものだし、飛行機は落ちるものだが、そのことを組み込んでいかなる社会的な体制を作りあげるのか、というのは、その乗務員だけにかかわる事柄でなく、また空を飛ぶ乗り物をどんな技術的思想で生み出すか、というのは、製造会社の技術者だけにかかわる事柄でなく、そうした列車や飛行機という装置を作りあげ利用する覚悟をしたものとしての「我々という現在性」にかかわるものなのである。しかし、たとえばリストラという言葉によって、貨幣の流量の計測に第一義的な価値を置いてしまう者は安全性を、砂山に立てた棒のように考え始める、すなわちその棒を倒さずにどこまで貨幣の流れは浸食できるかというゲームのように胸を躍らせる。その棒が倒れるとは、誰かが、死ぬか、負傷する、ということだ。

 安全性という言葉はそうした賭博の掛け金のようなものから別の事柄として組み換えらなければならない。それは、一人より二人いたほうが「安全」である、いや一人でも充分だ、耐えられるはずだ、などと比較級と機能性で語り合われるものではなく、生きるということに関する、ある、共同的な決意性なのである。鉄道や、バス、いくつかの業務上過失致死の事件を思い浮かべるとき、私には、運転士・乗務員というものは、「事故」の起きてしまったとき、そういった社会の誤り、いたらなさ、を一身の責任に変換して背負い込み、事件をニュースとして報道し話題にする事ができる「他の人々」には責任のないことを証明するための存在のようにさえ思える。だがそうである限り安全性はその企業と乗務員にだけ還帰し、慇懃に「お客さま」と呼ばれ遠ざけられた者たちは、「私たちを安全に運ぶのが君たちの仕事だ!」という観念的な言説を誰はばかることなく大声で繰り返すことができる権利を飽きるほど手に入れるだけだろう。しかし、国鉄の列車乗務員というささやかな経験から私が望むことは、そのような「安全性」という概念を全く別の事柄に組み換え、「客」と「業者」に分節化されない、一つの「我々」が構成していく熱情としてそれを生きて行くことなのである。

B (掲載では削除した注はアルファベットで示す)
これらの言説を、伝聞でなく地の文として語っている週刊誌はいずれも男性読者を主な対象にしたものだが、決して若い男性を対象にしたものではない、「スチュワーデス・フェティシズム?」の専門誌でもない。それはたとえば、「国連常任理事国入り/消費税 この無定見さには呆れるばかりだ 村山内閣重要閣僚[本音発言]スッパ抜き」週刊ポスト10/07 といった「政治」記事とも同梱になっている一冊なのである。この「政治経済」記事とさまざまな「有名人」のゴシップ、女性のヌード写真などが雑多に詰め込まれ、勤労男性を主な読者に想定した、この種の週刊誌、あるいは夕刊紙、というメディアについては別に考えなくてはならないだろう。これらのメディアが、自己に向かうベクトルにおいては<性>を語り、他に向かうベクトルにおいては、政治的、経済的、性的、いずれにせよ、膨大な量の言説によって示唆されるのは、<スキャンダル>ということのようなのだが、この<スキャンダル>とはどういう状態なのだろうか、またこれらが一冊の本・新聞に編成されることが可能なのはどのような接合と連関の脈路でだろうか、また、毎週あるいは毎日発行されるというのはどういう効果を持つのだろうか。