二度目に眼を覚ました時、窓の外には冷たい霧雨が降っていた。
いつもは日の出前の一刻、おぼろげな紅紫色に染まる稜線も色を失って、紗のかかった風景が微かな孤を描いて左から右へと流れていく。濃く灰ずんだ上野の森、樹々の間から顔をのぞかす旧寛永寺五重塔、昨日はダイヤモンド冨士のようにくっきりと輝いていた美術大学の校舎も輪郭の定まらぬ影絵のように静まっているのに、水切りごっこの水輪のように点々と連なる寺院の甍が濡れそぼって奇妙に華やいで見えるのはどうしたことだろう。
終の棲家を求め、この町に越してきて4ヶ月、もうそろそろ馴染んできても良さそうなものですが、一向に旅人気分が抜けません。毎朝起床しては窓の外を眺め、長い旅路の果ての見知らぬ町の風景を見ているような錯覚に陥っているのです。
でも、今朝は一寸違いました。確かに違ったのです。
窓の外の舫がかかった景色の中にもう一人の私の後ろ姿を見たのです。
そうです、彼は何処か遠くの町から帰ってきた旅姿のまま、行きつけの店の暖簾を振り分けるようにひょいひょいと霧雨の町中に降り立っていきました。私はあわててしまって、買ったばかりのスニーカーをつっかけ、傘も持たずにその後姿を追っていったのです。
西の方から下ってくる坂下の交差点を曲がって東へ向かい、時を削ぎ落として小ざっぱりとした寺々が左右に並ぶなだらかな坂を上っていきます。上りきった辺りで大きく右にカーブした道はY字型に、一方は上野の森へ、一方はV字型に折れて谷中の墓地へと導いています。その岐路で一呼吸した彼は、躊躇することなく左に折れ、桜並木の通りをずんずん進んで墓地の中へ。そのうちに踏み石の敷かれたとある小道に分け入って、大きな椎の木のある塋域の角を曲がったと思ったら、夢から覚めたように忽然と消えてしまったのです。右も左も墓標の林、いや、墓標の海といって良いでしょう。なすすべもなく辺りを見回している私の額に、椎の葉先から一粒の滴が…。眉毛から目頭へとつたってきた滴を人差し指で拭き取ろうとした時、滴のなかに浮かんでいた万華鏡の世界はふんわりと虹色に広がっていきました。滴に移り住んだ風景が刹那に消え去ってしまうのを畏れるように薄汚れてしまったスニーカーを気にしながら、朽ち果て忘れ去られた言葉を呑み込んで佇んでいると、ふと思い出したのです。引っ越してきたばかりの夏の終わり、北の町から送られてきた詩集のあの詩を。
私の墓は
なに気ない一つの石であるように
昼の陽ざしのぬくもりが
夕べもほのかに残っているような
なつかしい小さな石くれであるように
私の墓は
うつくしい四季にめぐまれるように
どこよりも先に雪の消える山のなぞえの
多感な雑木林のほとりにあって
あけくれを雲のながれに耳かたむけているように
私の墓は
つつましい野生の花に色彩られるように
そして夏もすぎ秋もすぎ
小さな墓には訪う人もたえ
やがてきびしい風化もはじまるように
私の墓は
なに気ない一つの思出であるように
恋人の記憶に愛の証しをするだけの
ささやかな場所をあたえられたなら
しずかな悲哀のなかに古びてゆくように
私の慕は
雪さえやわらかく積もるように
うすら明るい冬の先に照らされて
眠りもつめたくひっそりと雪に埋れて
しずかな忘却のなかに古びてゆくように……
日塔貞子、大正9年山形県河北町西里に生まれ、昭和24年満28歳と3ヶ月で逝った閨秀詩人のひたむきな愛の抒情詩集と銘打たれた「私の墓は」。
結核性関節炎という難病に冒され、手足の不自由を余儀なくされながら左手で書きつづった日塔貞子の詩と過酷な人生を再び世に伝えるために、山形県寒河江の奥平玲子さんが3人の友人と立ち上げた「桜桃花会」から50年ぶりに復刻再販された薄紅色の詩集。一枚一枚のページと、一行一行の詩句、貞子が語りかける言葉の滴に映り込む愛しい記憶の実。私は何度も読み返して、いつの日かの残された会話の中で誰かに語りかけようとしていたのだけれど、ずっと昔に引き返してしまった峠の池にもう一度行きたかったのだけれども、目の前に広がる夥しい墓石群のどこそこからも芽吹いてくる透明な音楽にくるまれた意識の言葉は、霧雨に濡れて、とぎれとぎれの瞑想を縦横に折り重なった墓標の流れに漂よわせているばかりでした。
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