死はそれほどにも出発である
死はすべての主題の始まりであり
生は私には逆向きにしか始まらない
死を<背後>にするとき
生ははじめて私にはじまる
死を背後にすることによって
私は永遠に生きる
私は生をさかのぼることによって
死ははじめて
生き生きと死になるのだ
開設から13年、「文学者掃苔録」の主題とも言うべき「石原吉郎」の「死」が収録された詩集「満月をしも」は1978年2月25日に刊行されました。
それより2週間ほど遡った2月7日に新しい家庭を持った私は、一般的にいえば幸せの絶頂期であったのですが、私の胸中には人知れず渦巻くいい知れぬ「生きること」への恐怖があったのです。その間には母方の伯父の自死、友人の病死、父方の2人の叔父たちの自死、事故死など「生きること」を拒絶され、拒絶した「死」がありました。そして何よりも深く心に刻まれたのは20代の半ば、大学に通うため私の郷里の隣家から上京、アパートに同居していたT君の自死とも事故とも判別せぬ不可解な転落死。複雑骨折の身を病室に横たえ、ただ「生きること」のみに最後の力を振り絞って全身を痙攣させ、空しく死んで行ったT君の亡骸を今も忘れることはありません。その時から胸中に巣食った「死」への恐怖が消えることはなかったのです。
その恐怖から解放してくれたのがこの詩でありました。私は初めて「生きること」を思い知ったのです。元来、「小説」よりも「詩」が好きであった私にとって「石原吉郎」は早くから眼中にあったのですが、この詩は決定的でありました。この詩を書いた1977年の11月14日、「石原吉郎」は埼玉県上福岡の自宅浴槽で入浴中、急性心不全で亡くなりました。つまり私が「死の恐怖」から解放されたとき、「石原吉郎」はすでにこの世にはいなかったのです。
2007年10月10日、「信濃毎日新聞」で長期掲載が始まった石原吉郎「沈黙の言葉」、「シベリア抑留者たちの戦後」とサブタイトルがつけられたこのシリーズは「プロローグ・舞鶴にて上、下」から「封印」、「記憶」、「断層」、「水脈」と続き、平成20年5月30日「取材ノートから」をもって終了しました。文化部記者畑谷史代さん(主に憲法、沖縄、戦後補償、ハンセン病などをテーマにし、「差別とハンセン病~柊の垣根は今も」の著書もある)渾身の連載記事でありました。
連載が始まる2、3ヶ月前、畑谷さんから「文学者掃苔録・石原吉郎」の件でとの取材を新宿の喫茶店で受けました。2時間ほどの取材の間中、畑谷さんの「石原吉郎」の軌跡、戦争とは、生き方とは、言葉とは、様々な根源に真摯にたち向かっていこうとする姿勢に、ただただ圧倒されつづけました。私は久方ぶりに「文学者掃苔録」や「石原吉郎」のことを熱中して話し、いい知れぬ幸福を味わったのでしたが、別れ際に「難しいですよ」といった私にガッツポーズで「頑張ります」と力強く仰った畑谷さんの決意の表情を思い出しながら、毎回送ってくださる新聞記事に重ね合わせ、感慨に耽っておりました。あるときはこんなメールを差し上げたこともありました。………無為に過ごした年月の如何に多かったことか。悔やんでも詮無いことではありますが、シベリア体験を詩にのせ普遍的な心柱を確立した石原吉郎という詩人の魂に触れることによって命長らえているような我が身上を密かに快くは思っているのです。ただ、ラーゲリでの特異な体験エッセイは饒舌にすぎて私のような弱い心の人間には辛すぎるのです。畑谷様のシリーズは微にいり細にいり、足跡は強く、呼吸は静かに、私の弱い部分にこれでもかと食い込んでくるのです。非常に辛いのです。逃げ出したいのです。それでも、もう17回、畑谷様の背姿を拝しながら朦朧体の様相で後追いを続けて来れたことにひたすら感謝の念にたえません。……
「文学者掃苔録」の最終更新日が1月15日のままであったように、この冬から健康上のことや仕事上のことで「文学者掃苔録」の行く末を見定めておりましたが、「沈黙の言葉」に触発されて「文学者掃苔録」をいま少し続けていこうと考えるようになってきました。「生きること」を背負って歩いている限り、不定期であっても途絶えることなく。
私の「立ち位置」はそこにしかないのですから。
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