後記 2006-05-27


 

 とうの昔から信じていたのです。
 この道を辿れば想い描いていた私だけの故郷があるのだと。
 風はささやかに、樹木たちは我先にと若葉を芽吹かせることに夢中だったのです。私はといえば、日がな蓮華草の咲き乱れる草むらに寝そべって、燕の宙返りなんぞを飽きもせずに眺めているのです。それでも時々は思い出したように町へ出かけてみようかと考えたりもするのですが、それも一瞬のうち、まもなく何をする当てもないことに気づいて、たちまちにそんな気分もどこかへ消し飛んでいきます。ただ、日が昇り、日が沈み、私の想いだけが迷う心を光に束ねて、蒼く透けて見えた故郷を覆ってしまいました。

 本当のことを言うと、今、見聞きしていることが現実のものと思われない感覚が続いているのです。自分が生きているのか死んでいるのか、脳裏に映し出される光景が現実なのか、夢の直中にいるのかさえあやふやなのです。自分の本質なのか、あるいは毎日が綱渡りのように冷酷な時間に追いまくられる仕事をしているせいなのか知れませんが、少々どころか大いに夢遊病者の感があります。

 深い意識に陥ったとき、明日の午後は(なぜか明日の朝ではないのです)きっと旅に出ようと決心するのですが、ポストの先の角を曲がった途端にどら猫が飛び出してきたりして出鼻をくじかれてしまうのです。それでも思い切ってこの町に来てみたら、やっぱり遠い昔の自分が歩いているのをあちこちでみかけて、なんとなく若返ったような気分になっています。城跡の近くにあった何某の別荘らしき小さな文学館を訪ねてみたら、この町にゆかりのあの作家や若くして縊死した詩人がホッフッと語りかけてくるのでした。ぱあっと日のあたる曲がりくねった海沿いの道、鄙びた漁港の途切れた辺りにあった食堂で久し振りに海鮮丼を食べたりしてみたけれど、さっきの詩人に語りかけられた言葉が頭から離れず、夜更けの森を彷徨う梟のように私のざわめきは辻を抜け、古の町割りの刻された石柱の陰に一枚づつ見捨てられてしまうのです。

 そうだ、いやいやそうでもないのです。年老いた漁師を先達に運命に逆らった若者、赤毛の娘たちの担いだ御輿がゆったりと神社の傍らに消えてゆくと「わたしは山王原、荒浪育ちよ 一締めしめれば、ぶり網大漁だ うなぎの初昇りや、つるつる昇るよ 富士の白雪は、朝日でとけるよ・・・・・」などという木遣り歌のこだまをのこして最後の町角に私は立っていたのです。

 恍惚と朽ちる古寺の景色、風は淀んで灰かぶりの石碑がたち並ぶ聖域。門前に繰り広げられた娼婦の嬌声や丸格子のうらぶれた窓明かりはもう見えない。杖にすがった老婆がひとり、追憶はひとりぼっちだ。「川崎長太郎」、年老いた作家の後ろ姿をつけていたら「抹香町」の鈍い光が私の目蓋の奥でふるえだしました。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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