後記 2006-02-18


 

 加齢とともにある感情は失われ、またある感情がいつの間にか胸に巣くっていくようです。

 司馬遼太郎の「街道をゆく」第三十七巻に本郷界隈という本があります。すでに何回か読み返した本ではありましたが、先頃からまた読み返しています。それに倣ったわけではないのですが、巣くった感情を揉みほぐすように、最近は頻繁に小石川・本郷・根津周辺を歩き回っています。

  空

  電柱と
  尖つた屋根と

  灰色の家

  路

  新らしいむぎわら帽子と
  石の上に座る乞食

  たそがれどきの
  赤い火事

  (尾形亀之助の小石川の風景詩)


 ヒューと風にのって吹き上がってくる透明な冬日を凍てついた顔に受けながら、いつものように小石川の丘から谷に下り、本郷台地に向かって歩き始めます。
 柴田錬三郎や佐藤春夫の眠る伝通院前には幸田露伴や幸田文の旧宅があります。現在は露伴の孫娘・青木玉さんがお住まいのようですが、著書『小石川の家』に「二階の祖父の書斎に座れば、まるで木の枝の上に居るような感じで、廊下のガラス戸を開ければ枝がさわれそうだ。」と記した大きな椋の木も健在です。そこからはちょっと横路に逸れて、菊池寛も住んでいたという堀坂を下っていきます。夏目漱石の『こころ』の主人公「K」や「先生」が小石川の下宿から帝国大学に通ったと思われる道です。坂下の小栗虫太郎の墓がある「こんにゃくえんま」を抜けて菊坂に至ります。
 菊坂下の辻を少し白山方向に歩くと樋口一葉が明治二七年四月二八日 五月一日の日記に「花ははやく咲て散がたはやかりけり。あやにくに 雨風のみつゞきたるに、かぢ町の方上都合ならず、からくして十五円持参、いよいよ転居の事定まる、家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが有けり、守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず、家賃は月三円也、たかけれどもこゝとさだむ。店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもい出すもわづらはしく心うき事多ければ得かゝぬ也。五月一日 小雨成しかど転宅、手伝は伊三郎を呼ぶ。」と書いた終焉の地があります。旧宅は明治43年の台風の為、崖崩れで跡形もなくなりましたが、昭和27年に建てられた平塚らいてう女史揮毫の記念碑が残っています。
 菊坂の道すがら、分け入る路地路地にも多くの作家の息吹が宿っています。坪内逍遥、正岡子規、宮澤賢治、石川啄木、金田一京助、島崎藤村、尾崎紅葉、徳田秋声、二葉亭四迷、高山樗牛、梶井基次郎、上林暁、田宮虎彦、水上勉、織田作之助、久米正雄、斎藤緑雨、草野心平、上田敏、生田長江、半井桃水、若山牧水……。
 大正から昭和の初め、正宗白鳥、真山青果、大杉栄、竹久夢二、直木三十五、坂口安吾、谷崎潤一郎、尾崎士郎、宇野浩二、三木清、広津和郎、石川淳などが滞在していた高級下宿「本郷菊富士ホテル」、菊坂を登り切った角には川端康成、芥川龍之介などが良く通ったという、林芙美子や宇野千代が女給をしていた「燕楽軒」が、かつてはありました。
 東大赤門前・喜福寺には久保田万太郎や佐藤紅緑の墓。本郷通りを越えて龍岡門から脇道を下ると森鴎外の『雁』にある岡田青年の散歩道、無縁坂です。坂を下りきって北に向かうと根津。権現裏には室生犀星、尾形亀之助も一時住んでいました。それぞれに、限りなき予感を携えて、消えては現れ、蜃気楼のような安らぎの一時を辻々に残して。
 ひっそりとした家陰、さまよう落ち葉、永遠の外に遊ぶ雀の群れ。あの郷愁がいまふたたびこの往来に薫りくるのなら、寒椿の垣根を越えて私は懐かしい時代に戻っていくのです。

 巡り巡って散策の最後に辿り着くのはいつの時も本郷真砂の丘。ここに立つと、落ちる夕陽が過ぎ去った時を突き上げてくるように、まぶしく輝いているのです。

 亀之助の「天国は高い」風に吟ずれば

  歓声を乗せた遊園地のジェットコースターは夕陽をあび
  どこまでもうねって
  そこばかりが天国のつながりのように
  金色に光つている

  街は夕暮だ

  妻よ――
  私は目映い憂愁の中に居る


 

 

 

 

 

 

 

 

 

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文学散歩 :住まいの軌跡


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