フリーマンの随想

その81. 旧東海道五十三次を歩いてみて

* 見た事、聞いた事、感じた事、考えた事 *
( Nov. 16, 2009 〜 May 14, 2010 )


 前回からもう1年以上も 「 フリーマンの随想 」 を何も書かずに来てしまいました。 2007年の5月に始めた旧東海道歩きも2010年5月に完了しました ( 途中、母の死があり、5カ月中断。 実質的に2年7カ月でした ) ので、これについて書き貯めておいたものを整理して掲載します。 特に構成を考えず、思いついた事から順に、とりとめなく書き連ねてみようと考えています。 副題に 「 見た事、聞いた事、感じた事、考えた事 」 と書きましたように、情報の受け売り、資料の引用は出来る限り控え、自分が見て、聞いて、感じて、考えた事を書きますので、正確度、信頼度の方は保証致しません。 なお、写真は広重の浮世絵、および最初と最後から2番目のもの以外は全部自分で撮ったものです。
****************** 目次 *******************
1.そもそもの始まり
2.毎回のコースの下調べ
3.江戸時代の道とばかりは言えない
4.徳川幕府がなかったら
5.昔の人は偉かった
6.なくなってしまった道
7.旧東海道と国道1号線
8.旧東海道を大切にする町と粗末に扱う町
9.日本の国土は次第に広くなっている ?
10.東海道線が東海道と離れている部分なあるがなぜか
11.川止と渡し、橋
12.一里塚
13.松並木
14.マンホールの絵柄
15.電柱と電線
16.歩き終わった後で・・・友人たちからの質問に答える形で

1.そもそもの始まり

 2007年の初めに旧友のY君から声をかけられ 「 仲間を集めるから君も一緒に旧東海道を歩いてみないか 」 と誘われたのがきっかけでした。 面白そうだと思って参加しましたが、 メンバーは70歳前後の男性が5人ほど、それよりは多分20歳くらい若いと思われる女性がやはり5人ほどでした。 デパートのロビーみたいな所で顔合わせをし、自己紹介をした後、「 ウォーキングの途中で怪我などをしてもそれは自己責任です 」 とかいうような簡単な約束事をいくつか申し合わせ、さっそくスタートしたのが5月7日でした。 成り行きみたいな感じでY君が日程の立案・調整と連絡、私がコースの調査と当日のガイドみたいな役目をすることになりました。

2.毎回のコースの下調べ

 当時、旧東海道がどこから始まり、どこで終わるのか位は知っていましたが、それ以外の知識は私には全くありませんでした。 書店に行くと本や地図も売っていましたが、私はインターネットを主に利用しました。 調べて行くと、既に旧東海道を歩いている人は沢山いて、みなさん実に克明にレポートを書いていました。 詳細なルートを説明した地図、通行上の細かな注意、見るべき沿道の観光名所の歴史的文化的解説、一里塚、宿場、渡し場や街道筋に残っている本陣、高札場、棒鼻、見附、立場など数多くの 「 江戸時代の街道の名残 」 の調査記録や解説など、よくもまあ、これほど丹念にと驚くばかりの質と量の報告が次々に見つかります。 世の中には本当に 「 好奇心が強く 」 「 律儀で 」 「 丁寧で 」 「 細かくて 」 「 根気の続く 」 人たちが沢山いらっしゃるものだと感心するばかりです。

 これらの中から特に役立ちそうなものを選んで熟読し、得た情報を現在の1万分の1くらいの地図の上に記入して行く事が私の事前の準備作業でした。 これをしてゆくうちに、次々に今まで聞いた事もなかったようないろいろな歴史的・地理的な知識や情報を得ることになり、それがどんどん面白くなってきました。

3.江戸時代の道とばかりは言えない

 私は最初は東海道とは徳川幕府が整備した大名にとっての参勤交代のための道、庶民にとっては江戸からのお伊勢参りのための道くらいにしか考えていませんでした。 しかし、そうではありませんでした。 既に律令時代 *1 から、江戸時代の東海道とは幾つか違う部分 *2 はあるにせよ、ほぼ同じ経路の 「 東海道 」 なるものがあったのです。 私は旧東海道を歩いていて何度、日本武尊 ( やまとたけるのみこと ) の伝説に出会ったことでしょう。 数え切れないほどです。 「 彼は神話の人物だ 」 と言い、9世紀の人物在原業平をモデルにしたという伊勢物語の東下りも 「 単なる物語だ 」 と言うなら、13世紀に、60歳近くという当時としては非常な高齢な女性であるにもかかわらず、京都から鎌倉まで東海道を歩き、紀行文 「 十六夜日記 」 を著した阿仏尼はどうでしょうか。 彼女はもちろん実在の人物です。 私は彼女の足跡に少なくとも3回出会いました。

 でも、今回私たちが歩こうとしたのは、やはり弥次さん喜多さんが通った江戸時代の東海道でした。

*1:日本の古代において、律令が政治支配の基本として独自の役割を担った時代。 広義には七世紀半ばから十世紀頃までの間、狭義には奈良時代と一致する時代をさします。

*2:たとえば、古くから、東海道の内、沼津から小田原までは、江戸時代の→三島→箱根峠→箱根湯本→というルートではなく、→御殿場→足柄峠→関本→という足柄路が本道でした。 阿仏尼もここを歩きました。 800年頃、富士山の噴火によって足柄路が通行不能になって箱根路が作られましたが、箱根路は険しいため、足柄路が修理復元されると、中世まではこれが主要な街道筋でした。 足柄路は何と私の自宅から100mくらいの所を通っているのです。

4.徳川幕府がなかったら

 三河の赤坂の宿場から藤川の宿場に行く途中に山中八幡宮という神社があります。 家康の三河平定の過程で生じた三河一向一揆で、一揆軍に追われた家康が、この神社の中にある洞窟に逃げ込みました。 追っ手の一揆方が、家康の隠れているこの洞窟の中を探そうとしたところ、洞窟から数羽の鳩が飛び立ったそうです。 「 人のいるところに鳩がいる筈がない 」 と思い込んだ追っ手はこの場を去ったので、家康は九死に一生を得ました。 ある人が 「 この時鳩が飛ばなければ家康は殺されていた。 すると徳川幕府はなく、参勤交代もないから、旧東海道も整備されない。 江戸、つまり東京も今ほどの大都会にはならず、日本の首都は東京でなく京都のままだっただろう。 われわれが現在旧東海道歩きなどすることもなかっただろう・・・ 」 というような意味のことを書いていました。 冗談とばかりは言い切れず、半分くらいは本当だという気がします。 こんな事を考えながら歩くのも面白いことでした。

5.昔の人は偉かった

 服装一つとっても、私は5本指の厚手のソックスに普及品クラスですが最新のウォーキングシューズ、雨が降ればフードつきのゴアテックスの上下に折りたたみの傘です。 寒ければ最新の発熱性の下着やウールのセーター、革の手袋があります。 江戸時代はと言えば足袋にわらじ、雨なら藁で編んだ蓑と菅笠です ( 右の浮世絵の人たちなどもっと簡素です )。 木綿の着物に布製の手甲脚絆では冬はさぞ寒かった事でしょう。 箱根の急坂だって、雨が降れば膝まで泥濘に浸かりながら歩いたのだそうです。 のちに ( 17世紀末ころ ) なって改修されて出来た石畳の道が 「 滑って歩きにくい 」 なんて、私たちは贅沢を言いますが・・・

 一日に若い男性は10里 ( 40km:マラソンの距離 ) を歩きました。 明け七つ ( 午前4時 ) に提灯を提げて ( 街灯なんてありません ) 宿を出て、約10時間 ( +昼食と休憩 )、時速4kmで歩いて午後4時頃宿に着きます。 増水による川止めなどがなければ、これを毎日繰り返して12〜13日で江戸−京間の500km弱を歩き切るのが普通でした。 今、若い健康な男性でもこれが出来る体力の持ち主は100人のうち恐らく 数人でしょう。

 しかも、山賊は江戸時代にはもういないとしても、すりが出るし 「 ごまのはい 」 にも遭います。 コンビニもATMも公衆便所もありません ( 女性だって道端で用をたしたのです )。 スポーツドリンクもないし食事だって粗末なものだったはずです。 風邪を引いたって転んで怪我したって薬も医者もろくなものはありません。 当時最高級の旅籠でさえ、となりの部屋とはふすま1枚でプラバシーなんてないし、冬でも薄いかけ布団、もちろん空調や冷暖房なんてありません・・・などと考えて歩いていると、昔の人は本当に偉かったと、本心思えてくるのです。

6.なくなってしまった道

 江戸時代の旧東海道の道すべてが現在現存しているわけではありません。 失われた理由には大別して2つあります。 一つは明治維新の直後は、そばに新しい道路が別に出来ると、要らなくなった旧東海道の上に建物が建てられたりして通れなくなるというケースです。 建物の中には個人の民家 ( ずうずうしい ! ) もあれば市役所みたいな公共建築もありました。 また、江戸時代の古い木造の橋の横に新しく鉄筋コンクリートの橋がかけられると、古い橋は取り壊され、結果として 「 コ 」 の字型に迂回させられることになります。 箱根から三島に下る国道1号線の一部では、敷設の際旧東海道の石畳の石を材料に使ってしまったというケースもあります。 広い舗装道路や鉄道の線路が敷設されると、旧東海道は横へ ( う回路 )、上へ ( 歩道橋や跨線橋 )、下へ ( 地下道 ) と追いやられました。 左の写真の部分などでは、長い地下道その他関係ない道をずいぶん歩かされました。

 第2のケースは、峠を越える山道だった所に、下の方に明治以降トンネルが造られたりすると、元の山道を誰も使わなくなるので、数年のうちに自然に藪の中に消えてしまったというケースです。 最近になって地元の篤志家が協力して藪を刈り、探査し、掘り起こし、整備して私たちが通れるようにしてくださったという所が、結構沢山あります ( 箱根−三島間の一部、宇津ノ谷峠、菊川坂など )。

7.旧東海道と国道1号線

 「 東海道を歩いてます 」 と言うと、国道1号線を歩いていると勘違いされる方が結構多いのですが、大まかに言って、私が歩いたのは旧道:新道 ( つまり旧東海道:国道1号線 ) の比で平均で7:3から8:2くらいでしょうか。 私の感じですから正確かどうかわかりません。 区間により9:1くらいのところもあれば1:9くらいの所もありました。

 歩いているうちに分かって来たのですが、両者が別な部分は江戸時代からの大きな町に多く、両者が重なっているのは郊外、農地などを通っている部分に多いようです。 何故かとういうと、江戸時代に狭い街道の両側に商家や民家がすでに立ち並んでしまった繁華な街では、明治以降広げようとしても立ち退かすのが難しいので、裏の空き地にバイパス的に広い国道1号線を敷設したらしいのです。 これに対し、旧東海道が畑の真ん中を通っていたような場合は、単にこれを拡幅するだけで国道1号線が出来たからだと考えられます。

 また、旧東海道がくねくねと曲がっているような場合は、近代的な自動車用道路に不向きなためか、整地してまっすぐな道路を部分的に新設したようです。 こういう部分では旧道と1号線とが合流したり離れたりする事になります。

 最後に、旧東海道が峠を越えているような場合は国道1号線はその下にトンネルを掘って経路の短縮を図る事が多いようです ( 箱根は例外ですが )。 宇津ノ谷峠などでは、下の1号線のトンネルの歩道を通れば10分もかからない所を私は確か1時間近くもかけて峠を越えて歩きました。

 なお、これも誤解が多いので申し添えますが、お正月恒例の 「 大学箱根駅伝 」 ( 正確には東京箱根間往復大学駅伝競走 ) のコースは、旧東海道そのものではありません。 各区間とも度々の変遷を重ねていますので一概には言えませんが 「 重なっている部分も少しあるが、異なる部分が多い 」 という事でしょうか。 とくに箱根の上り下りなどは両端以外は全く違う離れた道を走っています。

8.旧東海道を大切にする町と粗末に扱う町

 市や町の実名を挙げますが、独断ですので気にしないでください。 すでに東海道を歩いた方で違うご意見の方も沢山いらっしゃることでしょう。

 街道沿いの町はどこも皆、過去の東海道の史跡を大切に扱っているかと言うと、決してそうではありません。 あえて言わせていただくと、最も粗末に扱っている町として、沼津と浜松を挙げます。 四日市もややこれに近いと思います。 旧い史跡など殆ど何も気にしていないと言って良いでしょう。 皆、地方の中都市です。

 大切にしている所には2種類あります。 一つは東海道の史跡だけを売り物にしなくてもどうにか町は食べて行ける ( のだろう ) けれど、やはりこういうものは大事にしておこうと考え、配慮し、多少なりと金も使っているらしい所です。 岡崎、旧亀山などがこれです。 もうひとつは、小さな町でほかにこれと言って飯の種も少ないので、東海道の史跡を 「 町興し 」 に活用しようと力を入れている町です。 関、有松、二川 ( 豊橋の一部 )、新居町、土山、菊川、袋井などがこれです。 これらの中では関がやはり一番です。 もちろん、同系統でも力の入れ方が中途半端に思えた町もあります。 藤川、日坂、島田などです。

 品川から国府津までの京浜・湘南地域は開発も進み他の産業も多いので、とにかくひと言で言って旧東海道には 「 無関心 」 に近いように思います。 静岡県、とくに大井川以西の宿場町はおおむね史跡の保存に熱心なようです。 名古屋から四日市にかけては工業化が進んでいるためか京浜・湘南地区に似ていますが、その先からはまた次第に熱心になってきて、関で最高潮に達し・・・と言うのが私の印象です。 要するに 「 都市化 」、「 工業化 」 に反比例するということでしょうか。

 最後に、本当に史跡を大切にするとはどういう事だろうかと考えます。 あちこちに解説のパネルを貼り、跡地に石碑を建てる事も悪くはありませんが、自ら資料を調べ、汗を流して藪の中に埋もれていた旧道を調査し発掘し復元整備した、丸子、菊川、三島などの有志の人たちのような方々の姿勢こそが本当のそれだろうと、私は考えるのです。 それと幾つかの町で ( 勝手な想像ですが ) 多分、モダンな家に改築したいのを我慢して、旧い家に住み続けることによって史跡の街並みの保存に協力しているのではないかと思える方たちのご努力も忘れてはならないと思うのです。

****************** ここまで11月16日記す *******************

9.日本の国土は次第に広くなっている ?

 品川の宿場を過ぎたあたりでは、街道沿いに海産物の問屋や小売店が多く見られますが、聞いてみると、そこはそう遠くない昔、大森の海岸だったそうです。 広重の浮世絵でもそうなっています。 しかし現在そこから眺めても海岸線は見えません。 はるか遠くまで家が立ち並んでいます。 同じような事は神奈川の宿場でもありました。 京に向って左側の低い所には横浜駅やみなとみらい21のビル群が見えますが、あの辺は江戸時代は海だったと書いてあります。 新居の宿場では当時の船着き場跡は街なかにあり、周囲は全て住宅などに囲まれていました。 宮 ( 熱田 ) から桑名までの伊勢湾の 「 七里の渡し 」 の航路は現在は広大な埋立地になり、工場や倉庫が建っています。

 こうやって見てくると、私には、日本の国土はこの150年くらいの間にずいぶん増えているとしか思えません ( 浸食された海岸線も多少はあるでしょうが )。

10.東海道線が東海道と離れている部分なあるがなぜか

 日本橋は東京駅のすぐそばで、その先も小田原まではJRの東海道線と旧東海道、それに国道1号線の3つは、つかず離れず並行して走っています。 この 「 約束 」 は、箱根越えの際と、静岡の先 ( 日本坂 )、それに浜名湖の先でちょっとだけ破られますが、それらはたいしたことではなく、すぐにまた合流してその先もどこまでも・・・と思っていたら、豊橋でおしまいになりました。

 東海道線は海岸沿いに蒲郡の方に行ってしまい、新旧の東海道道路は西北に向います。 今度はJRの代わりに名鉄本線が岡崎を通り名古屋までずっと東海道の新旧道路に付き添ってくれます。 これは明治の初年に国鉄の線路を通す時、勾配がきつい部分を嫌ったからだと言われています。 当時の蒸気機関車の力の限界だったのでしょう。

 名古屋から先も全く同様の理由で道路と鉄道はさらに遠く別れてしまいます。 JRは北西に向い岐阜、大垣を通って琵琶湖の東岸の真ん中あたりの米原に出ます。 これに対し新旧東海道は南西に下がって桑名、四日市を通り鈴鹿峠を越えて琵琶湖の南端の草津に出ます。 これもまた、鉄道が鈴鹿峠の登り下りの勾配を嫌ったからだと言われています ( 京都から中山道を通り東京に行こうという計画が途中まで進んでいて、それにつないだからだという説もあります )。 その代わり、北の関ヶ原の方を選んだ鉄道は、冬季には今でも降雪による遅れに悩まされる結果となりました。

 もし明治時代でなく現在であれば、鈴鹿峠にトンネルを掘って、距離的にもやや短く降雪の影響も少ない鉄道が出来た筈でした。 結果として国鉄の線路が通ってくれなかった部分では、江戸時代に栄えていた宿場町はみな産業の発展に乗り遅れ、総崩れ状態で過疎化してしまいました。 皮肉なことに、そういう宿場町には今なお江戸の香りが色濃く残っていて、私たちを楽しませてくれるのです。 国道1号線が通ってくれても国鉄東海道線が通ってくれなければ産業の発展が起こらなかったのですね。

11.川止と渡し、橋

 川止 ( かわどめ ) とは川の増水の際、旅人がどんな方法によっても川を渡る行為を禁じたことを言います。 夏期に限らず大雨などの場合は随時川止の処置がとられました。 特に梅雨の時期に最も多かったそうです。 大井川や安倍川、天竜川などの川止は特に有名でした。

 江戸時代、東海道の大きな川にかかっている橋の数は大変少ないものでした。 川の渡り方としては、多くの場合、六郷川や馬入川などのような渡し船に乗って渡る 「 船渡し 」 と、酒匂川などのように浅瀬を歩いて渡る 「 徒歩 ( かち ) 渡し 」 との二つでした。 後者の場合、身分の高い人や体力のない人は馬渡し、蓮台 ( れんだい ) 渡し ( 4人の人足が担ぐ台の上に座って渡ること ) などの方法も使いました。 さらには人足の肩車に乗る渡り方もありました。 広重の残したいくつもの浮世絵には、これらの種々の渡り方が、はっきりと描かれています。 また、徒歩渡しだからと言って、どこを渡っても良いわけではなく、幕府が定めた場所以外での渡河は厳重に禁止されていました。

 何故こういう決まりになっていたかという事ですが、私は子供のころから、徳川幕府が軍事的な理由でわざと橋を作らせず、川を敵の攻撃に対する天然の要害にしたのだと聞かされていました。 所が、東海道を歩いてみて、私は、それもあるだろうが、最大の理由は ( 1 ) 橋梁建設技術が低く、木の橋を架けても洪水のたびに毎年流されてしまうからだったと思うようになりました。 次が ( 2 ) 上記の政治上軍事上の理由で、もう一つが ( 3 ) 両岸の宿場の旅籠の従業員や川の渡しの人足たちの生活保護だと言われています。 つまり、川止があれば客が何日も宿に泊ってくれるし、丈夫な橋が出来たら高速道路橋によりフェリーの会社が倒産するのと同じ事が人足たちの身に起こるからです。

 三つの理由の内、最大のものは ( 1 ) だと思います。 当時の木造の築橋技術では毎年のように橋が流されてしまう事は、目に見えています。 明治12年に大井川に架けられた蓬莱橋 *3 は、ギネスにも認定された世界最長の木造歩道橋ですが、現代の技術をもってしても大水の度に壊れてしまい、遂に1965年 ( 昭和40年 ) 4月に橋脚のみをコンクリート製に変えざるを得なかったのです ( 昔はダムもないし今の大井川よりもっと水量の変化が大きかったと思われます )。

*3:私も渡りましたが、これは東海道にかかっている橋ではありません。

****************** ここまで11月17日記す *******************

12.一里塚

 今回東海道を歩いてみるまで、一里塚については名前とその役割を知っている程度で、現物を見た事はありませんでしたし、常夜灯に至っては、その名前すら知りませんでした。

 しかし、歩いているうちに、往時の旅人たちにとっては共にとても大切なものだったらしいと、次第に分かってきました。 面白い事に、「 燈台もと暗し 」 というか、街道を歩いていて一里塚跡の碑が見つからず、通りがかりの地元の人や近所のお店の人に訊ねても、知っていて教えてくれる人は2〜3割でした。 自分の店の直ぐ脇に石柱が建っているのに 「 知りません 」 と言われた事すら数回ありました。

 理論的には全部で117個あるはず *4 の一里塚は、私が見た限りでは、大別して ( 1 ) 江戸時代のものがほぼそのまま残っているもの、( 2 ) 崩れて ( 崩されて ) 一部がそのまま残っているもの、( 3 ) それを最近改修して元の姿に近付けたもの、( 4 ) 江戸時代の姿を最近復元再築したもの、( 5 ) 跡地 ( 或いはその近く、或いは跡地と推測される場所 ) に、石碑、石柱、木柱、木板、その他を置いたもの、( 6 ) 江戸時代にはあったが現在は見つからなくなってしまったもの、( 7 ) 1里目の芝と2里目の品川のように、江戸中期に既に無くなってしまっていたもの ( 場所がら必要性がなかったからでしょう ) などに大別されるようです。

 私が歩きながら、現存している全ての一里塚 ( 跡 ) に出会え、写真を撮れたかというと、残念ながらNOで、資料によれば絶対に在る筈なのにいくら探しても見つからず、時間の関係であきらめたものが数個ありました。 これ以上詳しいことを若しお知りになりたければ、これをご覧ください。 私はこのページの2.に、世の中には本当に 「 好奇心が強く 」 「 律儀で 」 「 丁寧で 」 「 細かくて 」 「 根気の続く 」 人たちが沢山いらっしゃるものだと感心するばかりです・・・と書きましたが、この方などもそのお一人です。

*4:124里から伊勢湾の海上7里分を引いたもの。 右の写真は名古屋市南区笠寺町に在る江戸から88里目の笠寺の一里塚で、私の個人的な感想ではもっとも美しく思えたものの一つです。 榎はこれくらい大きければ当然江戸時代からのものでしょう。

****************** ここまで11月18日記す *******************

13.松並木

 松並木は江戸時代に街道を往来する旅人の夏の暑さをしのぐため、また冬の防風のために、徳川家康が命じて植えさせたものであると、どこにも書いてあります。 

 大磯、御油、藤川、知立、その他数多くの立派な松並木に私は出会いました。 また、街道のあちこちに 「 昔は両側に長い松並木が続いていたが今は1本しか残っていない 」 とか、「 第二次大戦中、航空機燃料用の松根油を採取するために残らず伐採された 」 とか、「 この区間では近年松食い虫のため全滅した・・・ 」 とかいろいろ書いてあります。

 では当時、東海道の全長約500kmの両側にびっしり松は植えられていたのでしょうか。 それとも所どころに植えられていただけだったのでしょうか。 松並木が全長両側に続いていれば、その間を歩いて行けば、たとえ夜でも別れ道で道を誤る事がないから便利だろうし・・・いや、やっぱり吹きさらしの部分にだけ優先的に植えられていたのか・・・そう言えば箱根の関所付近は松ではなく杉並木だった・・・その手前はずっとうっそうとした森だったから、別に松並木にする必要はないし・・・現在より松並木がずっと多かった事だけは確かだが、それ以上は考えれば考えるほど分からない・・・これが私が最初からずっと疑問に思い続けていたことでした。 でも、この点についての解答はインターネットを長時間探しまくりましたが見当たりませんでした。

 この答えは、しかし思わぬ所にあり、見つける事が出来ました。 それは広重の五十三次の浮世絵でした。 宿場内や橋を描いたものが多いのですが、野原のなかの街道筋を描いたものもあります。 答は、松並木が続いている所もあれば、松がほとんど生えていない所もある・・・という事でした。 例をひとつずつ示します。 「 浮世絵作家はないものをあるように描いたり、あるものを消して描いたりするんだよ 」 なんて言わないでくださいね。


14.マンホールの絵柄

 戸塚を過ぎて藤沢に入って来た辺りで、舗装道路のところどころにある下水道その他のマンホールの絵柄が、行政区画が変るごとにガラリと変る事に気づきました。 普段街を歩いていてそんな絵柄にはまったく関心もなく、気づきもしなかったのですが、長距離を黙々と歩いていると目に入ってくるのです。 それぞれの市の歴史的な出来事、名所、特産物などがデザインされている事がわかりました。

 そして毎回、小田原あたりまで、ずっとパチパチ写真を撮って 「 誰もこんなこと知らないだろう 」 と、内心得意になっていたのですが、ある日、いったいこういう事に興味を持って調べている人が他にもいるんだろうかと、ふと思い、インターネットで検索しました。 そうしたら、チャンともういらっしゃるんですね。 自分の事は棚に上げて 「 世の中には変った人もいるもんだ ( 失礼 ) 」 と、 本当にびっくりしました。

 「 マンホール友の会 」 という全国組織が10年も前からあり、80人も会員がいて、日本中の全ての町の 各種のマンホールの絵柄を誰でも閲覧できる ようになっていました。 それを知ったとたんに興味が薄れ、写真を撮るのをやめました。 こういう経験をすると、もう何か、今後新しい事に興味を持って調べようと思う意欲が薄れるような気さえします。 どんなことでも、もう大抵の事は既に誰かが調べつくし、整理し発表しているのですから・・・インターネットってある意味罪な道具です。

 でも、私がいろいろ見たうちでは三重県桑名市のマンホールのデザインが断然傑作でした。 はまぐりの貝殻に手足と眼があって、お茶目な顔立ちで6匹 ? が思い思いの恰好で飛び跳ねているんです。 ご興味があれば上記のサイトで見てやってください。

****************** ここまで11月19日記す *******************

15.電柱と電線

 私は写真を撮る事が好きですから、歩いている間、片時もカメラを手放さず、1日に4時間16km歩いたとすれば、場所とか天気にもよりますが大体50枚以上は撮ります。

 今回の延べ40回ほどの旧東海道歩き中の撮影で一番痛感したことと言えば 「 日本は何故こんなに電柱と電線の多い国なんだろう 」 でした。 これは昨年読んだあるフランス人の書いた自叙伝的小説の中で、若い主人公が初めて日本を訪れた時の幾つかの強い第一印象の一つでもあることからわかるように、欧州の先進国と日本との最大の相違の一つだと、私は以前から考えていました。

 私が欧州の国々に行き、風景写真を撮るとき、どんな田舎でも ( もちろん大都会でも )、ファインダーの中で構図を模索する際に、電柱や電線を煩わしいと感じた事はほとんどありません。 そういうものがないのですから。 一方、日本で美しい風景を撮影しようとしたら、まず、どこに自分が立ち、どのようにカメラを構えれば電柱と電線を避けられるかが、最初の課題となる場合がほとんどです。

 風景の中の電柱や電線をあまり気になさらない方もいると思います。 人それぞれなのかもしれませんが、私は大いに気になります。 原から吉原あたりにかけての区域を冬に歩いた時、壮大で威厳に満ちた純白の富士山の前に立ちはだかる真っ黒な電線の網にどれほど腹が立った事か。 前に出ても横に避けても、背伸びしてもしゃがんでも、しつこく視野に入りこんでくる電線はどいてくれません。 最近は送電線のほかに、もっと太い光ケーブルが加わっているので、問題は更に深刻です。

 私見ですが、日本の電力会社と電話会社は、設置と保守に費用と労力がかかる地中埋設化を避けて安易な電柱架線方式に依存することで設備投資と諸経費を下げ、明治以来永年にわたり莫大な利益を挙げ続けてきたと考えます。 欧米先進国で実現できている地中埋設化が日本で今からでも実現出来ないわけはないと思うのですが、どうでしょうか。 先進7カ国とか9カ国とかいう国々の中で、首都や大都市の中心部や主要住宅街の道路に電柱が立ち電線が架かっているのは日本だけ・・・これは確かなことだと思います。

 三重県の関の宿場跡でいろいろ聞かせて頂いたところ、ここでは1996年ころから電柱・電線を街道筋の家の裏に全部移動する工事を始めたのだそうです。 3回にわたり工事を行い、12年ほど前に数百mに渡る街道沿い全部の工事を完了されたそうです。 地中埋設にすると、数十mごとに変圧器の大きな鉄製の箱が道路わきに立つ事になるので、これを嫌って 「 裏に回す 」 方式を採ったのだと聞きました。 とにかく、本当に江戸時代の街道筋を彷彿とさせる美しいたたずまいを再現することに成功しています。


左は関の宿場 右は有松の間宿。 電柱や電線の有無は気になりませんか

 これに対し、関と同様江戸時代の街並みを残している愛知県の有松の間宿では、ようやく最近になって一部の地中埋設工事が始まっていました。 現状における醜悪な電柱電線の状況は写真でご覧ください。 一日も早い工事の完成を切望します。

****************** ここまで11月20日記す *******************

16.歩き終わった後で・・・友人たちからの質問に答える形で

毎回歩く前の準備はどんな風に?

 インターネット上で先輩たちの記録や手書き地図を10種類以上、丹念に読み比較しました。 そして一万分の一の地図上に正しいと思われるルートを記入しました。 さらに、立ち寄るべき、観るべき、写真を撮るべき対象を選び記入しました。 それらにまつわる歴史的、地理的な参考資料、写真なども調べて十分に眼を通しました。 これらを行うと、少なくとも歩く時間の倍以上、つまり、4時間歩くなら8時間以上は下準備に必要でした。 多少誇張になりますが、歩く前にもう街道の情景はすっかり頭に入っていました。

 当日は歩きながらそれらを再確認するだけのようなもので、時々予備調査と違う点を発見した時に、むしろ新鮮な感じがしました。 また、5年前、10年前に歩いた方が見つけて感激した昔の建物や碑などを、期待して探したら、その後、取り壊されていることが判明して落胆したことも一度ならずありました。

五十三次を歩き通せる自信は当初からありましたか?

 歩き始める前は、最後まで歩きとおせるかどうかなど、あまり考えていませんでした。 歩きだして最初のうちは、たぶん最後までは続けられないだろうと思っていました。 所が、歩いているうちに興味がわき、なんとしてでも最後まで歩き通そうという思いがつのって来ました。 大井川を越えた所で、一緒に始めた人たちがそれぞれの理由でリタイアしてしまい、自分ひとりになった時、意地みたいなものが急に湧いてきました。 あとは自分の心身との闘いみたいなもので、一度やり始めた事を途中で投げ出したくないという 「 負けず嫌いな自分がそこに居た 」 という事だと思います。

五十三次を歩き終わった瞬間の感想は?

 最後の瞬間は突然急に来たのではなく、最終回も、いつものように 「 1週間も10日もかけた準備の結果として自然に来た 」 わけです。

 もちろん、そうは言っても、自分の健康、妻の協力、その他もろもろへの感謝の気持で嬉しかったし、無事終えて安堵したことも事実です。 それと同時に、私は何か胸にポッカリ穴があいたような気持ちに襲われました。 「 自分はこの先何をするのか。 何が出来るのか。 自分の短い老い先に何が残っているのだろうか・・・ 」 何故だかわかりませんが、虚脱感と言うか、無常感と言うか、そういうものが長旅が終ったとたんに急に胸いっぱいに広がって来たのです。 これは全く予想もしていない事でした。

この次は何に挑戦するのですか?

 それなんです。 上に書いたような精神状態なので、今は何も頭に浮かびません。 でも、何かを始めたいです・・・心身の老化防止のために・・・

街道の中で一番綺麗と言うか、印象深かった場所は?

 それは菊川坂です。金谷宿から石畳の道を上がって行き、峠の頂上に着いてそこから緩い下りの石畳の道を降りて行く辺りです。 ここは菊川の人たちが江戸時代の石畳の道を探り当て、掘り出して整備された部分だと聞きましたが、古い昔そのままの両脇が深い草や野の花に覆われた石畳の道をたどって行くと、急に美しい一面の茶畑の中に出ます・・・周りにはほとんど一軒の家もありません。 江戸時代の街道にタイムスリップしたような錯覚に襲われます。 その次はと言うと、箱根峠から三島に向って降りて行く部分のこれも石畳の道です。 ここも地元の方々が藪から掘り出し整備された部分です。 それぞれの記録の項に掲載した写真をご覧ください。

 また 「 宿場と宿場の間が最も素敵だったところは? 」 という質問だとしても、私は上記の区間を含む 「 金谷−日坂間 」 を挙げます。

 逆に一番つまらないと思った区間は?

 天竜川を渡り、浜松駅の方に向って歩き出すと、最初の1kmほどは良いのですが、国道に合流した途端、狭くてそのくせ車の交通量の多い部分に出ます。 歩道がないので下水の蓋の上を歩かされます。 多少なら我慢できますが、それが延々と何kmも続くのです。 道の両側には店や民家がこれも延々と連なり、見るべき名所旧跡などまったくありません。 歩行者は渡ってはいけないと、地下道を通らされる交差点まであり、腹が立ちます。 一里塚跡なども自治体や住民から大事にされていない様子がありありと感じられました。

 また 「 宿場と宿場の間で最もつまらなかった区間は? 」 という質問にも、この区間を含む 「 見附−浜松間 」 を躊躇なく挙げます。

一番印象深い宿場は?

 やはり何と言っても伊勢の国の関の宿場でしょう。 のこされている旧い町屋の数と質の点で最高です。それに、電柱電線を街道筋から駆逐し、江戸時代の雰囲気を数百mにわたって再現できている点も立派です。 有松は世間の評判が高い割に、町屋の内部は見られないし電柱電線は見苦しいし、あまり感心しません。

多くの宿場に資料館がありますが、どこが一番良かったのは

 規模から言えば二川宿のが有料ですが一番大きく立派だと思います 古文書などは興味深いものが多く遺されています。 草津宿のも立派で、この2つは旧東海道について学ぶなら大変勉強になるという点では双璧でしょう。 でも私には庄野宿の小さな資料館にのこされていた3枚の高札が一番印象的でした。 江戸時代の本物で、他の宿場のもののような再現品ではありません。 板が風雨で浸食されて凹み、文字が浮き上がっています。 文字も達筆で非常に価値の高いものだと思います。 一度出て100mほど歩き出してから、また見たくなって戻ってしまった程です。

道中で一番おいしかった物は?

 本当に一番美味しかったものと言えば、真夏に歩いた後、仲間と入ったレストランで飲んだ大ジョッキの生ビールでした。 でも、それでは答えにも案内にもならないので書きますと・・・

 当然ですが金さえ多く出せば大きな宿場町にはたいてい美味しい店があります。 結局、( 材料+味+量+サービス )÷値段、すなわちコストパーフォーマンスでの比較という事になります。  もちろん個人的な嗜好や価値観もありますが、私の場合は昼食では豊橋市の 「きく宗」 のなめし田楽 ( ¥1,700 ) が一番でした。 夕食では岡崎市の 「一色屋」 の懐石料理が、印象的です。 ¥5,000でしたが東京であれだけの料理を食べたらこの倍は確実に払わされるでしょう。

 亀山市の 「むかい」 の牛肉の水だきも高価でしたが味、量とも最高でした。 いずれも 「 ずいぶん高い物を 」 と言われそうですが、やはり、本当に旨いものは値段が高いようです。 いずれもカホルが一緒にいたから奮発して 「 おごった 」 わけで、私だって一人で旧東海道を歩くときのいつもの昼食はコンビニのおにぎり1個です。

一番苦しかった体験は?

 幸い、体調を崩す事もなかったし、急な登り坂はいくつもありましたが、覚悟していたためか思ったほどではなく、悲鳴を上げるような思いは一度もしませんでした。 最後の方で脊柱管狭窄症の症状が出てからも、痛ければ30分に1回ほど体操をして直したら歩けました。 土砂降りの雨の中を歩いた事が2、3回有り、ズブ濡れになる事ももちろん苦しいことでしたが、雨のために撮りたい写真が撮れない事、立ち寄りたい名所に立ち寄る気になれなかったことが辛い思いでした。

写真は何枚くらい撮りましたか?

 毎回50〜60枚ほどです。 そのうち、失敗作や気に入らないものを捨てるので、毎回のアルバムには40枚ほどが収められています。 41冊ですから1600枚あまりになります。 一生の思い出になる良い記念です。

****************** ここまで2010年5月14日記す *******************

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