米・ソ・中国が原発実験を繰り返していた頃

1960年代の放射能汚染と今回の汚染との比較

* 当時はまだ考えたり心配したりする人は少なかった *

( May. 26, 2011, Dec. 27 補足 )


 1960年代前半には、部分的核実験禁止条約発効前に、駆け込みで特に大規模な米・ソによる大気圏内核実験が続きました。 そのため、1963年の5月に人工放射能降下量は、現在までの最大値を記録しました。 当時の東京都杉並区高円寺では、大気中のセシウム137やストロンチウム90の濃度は、最近 ( 2007年 ) の同じ場所での値に比べると、千倍〜1万倍も高かったことが、気象庁の 気象研究所地球化学研究部により報告 されています ( グラフの縦軸が指数目盛になっている事にご注意 )。

 その後、1960年代後半からは核実験の主体は中・仏に移ります。 1964年から始まった中国の原爆実験は、計45回ほどにわたり、新疆ウイグル自治区で行われ、1996年まで30年以上も続きました。 このうち1980年までは地上、それ以後は地下で爆発が行われました。 実験のたびに、日本全域に放射性ヨウ素、セシウム、ストロンチウム、ニッケルなどを含む微粒子が実験後何日かの間、相当量落下してきましたが、私たちはこれらの恐ろしかった1960年代の出来事をとっくに忘れかけています。

 当時と今回の福島原発事故との比較は、もちろん、どの地域で比べるかによって大きく異なります。 中国の核実験の場合は、今回と逆に西日本で放射性物質の降下量が多かったのですが、広く日本全域に放射性物質の微粒子が何か月かに一回、数日〜1週間くらいにわたり間欠的に濃厚に落下してきました。 一方、福島原発の場合は当然、福島県東部地域の陸と海だけに集中的に多く、隣接した関東地方北東部や東京都などにも数日間相当量が降り、それ以外の県ではごく微量または不検出と文科省から 報告されています。 今回は 当初3月中〜下旬の水素爆発後降雨があった数日は特異的に多く降りました。 3月末以降は急激に量は減ってきているようですが継続的に少しは放出され落下しています。

 上記の2つの報告の比較から言える事は次の通りです。 今年の3月中〜下旬には、月間降下量同士で比較した場合、福島原発からだいぶ離れた茨城県内や東京都内でさえ、1960年代とほぼ同程度の放射性物質が降ってきています。 福島県内の測定値は後者の報告には出ていないのですが、とくに避難勧告地域あたりでは、この3月中〜下旬には、当然、更にずっと多かったのではと推測されます。 ただし、幸い4月になると福島でも、月間降下量は1960年代の毎月の降下量よりずっと少なくなってきています。 もちろん、東京ほかの地域でも4月以降の降下量は激減しています。

 今後の推移も含め、積算値として、1960年代と現在とで、どちらがよりひどく放射性物質が降下してきたかについては、地域ごとによく検討し、慎重に結論を出して行くべきでしょう。 現在の最大の関心事は、特に福島原発に近い地域で3月中〜下旬に集中的に降下した極めて多量の放射性物質が、地上その他に今後どのような状況で残り続けるか、そしてそれを如何に除染出来るか、そして地域の住民の方々の健康への被害をどうやって最小に出来るかということでしょう。

 私が勤務していた会社では当時からずっと毎日空気中の放射能を測り続けていますが、神奈川県西部地域でのある1日同士の比較では、1960年代の中国の原爆実験の時の方が今回の原発事故時の最大値より10〜100倍ほど放射性物質が多く降ったという事が上記の測定記録の比較から言えます。 具体的にこの当時どのような影響があったかと言いますと、例えば国内他県の製紙会社が製造した包装用紙や箱の紙に放射性物質の微粒子が多数漉き込まれて混入するため、放射線に敏感な写真フイルムをこの紙で包装すると放射線の作用によりあちこちに黒い斑点が生じてしまい、生産上頻繁に支障が生じました。 また工場内に取り入れる空気は十分に精密ろ過しているのですが、それでも放射性物質微粒子が工場内にも侵入してきて、生産工程に支障が出る事がありました。

 一方、今回の福島原発の事故においては、上記のような放射性物質に起因するフイルム製造上のトラブルは、同じ神奈川県西部地域の工場で全く起きていません。* つまり、少なくとも福島原発から300km近く離れたこの地域では、上述の全てのデータ、事実を総合すると、1960年代より現在の方がはるかに状況が良いという事が言えます。

 上記のような紙に起因するトラブルが起っていたということであれば、当時、当然、トイレットペーパーや子供たちが使うノートにも放射性物質の微粒子が漉き込まれてしまっていた筈です。 でも当時はそんなことは調べられもせず話題にもなりませんでした。 現在なら大変な騒ぎになる事でしょう。 当時は野菜や魚にも当然放射性物質による汚染が、恐らく現在以上に、しかも全国的に起きていたと思われます。 田畑にも校庭にも相当量の放射性物質が撒き散らされていた筈です。 しかし政府やマスコミが当時声を大にして国民に注意を促したという記録を、私は今回ほとんど見つけられませんでした。 記録が見つかったのは、落下期間は洗濯物を屋外に干さないようにした主婦、小学生に屋外で雨に濡れないように呼びかけた教師、外出先から帰宅後すぐ母親に体を洗われた子供などの話程度です。 当時の降下量についてはここにも青森市におけるデータの記載があります。

 恐らく野菜についての規制値も当時はまだ決まっていなかったでしょう。 また、現在の状況と違い日本中で広範囲に相当の汚染が起きているのに、仮に出荷制限などを行えば、食べるものがなくなってしまい、大変なパニック、混乱が起きた事でしょう。 とにかく少なくとも私の家や周辺では当時、殆どの人が無関心に野菜を買って食べていました。

 この中国の ( そしてその前の米国や旧ソ連による ) 核実験により当時の日本中の子供たち ( 現在40歳代後半〜60歳 ) にその後健康障害が起きたかどうか、驚いた事にと言うか、残念なことにと言うか、厳密な調査も無ければ統計もないようです。 周りを見渡したところ、直ぐに心当たりが思いだせるというほどの顕著な異変は何も起きていないようには思えるのですが、それ以上の事は私には分かりません。

 なお、新疆ウイグル自治区周辺ではたび重なる原爆実験のために十数万人もの悲惨な犠牲者が当時出たという報告がありますが、ここでは割愛します。

 また、この文章を書き終ったころ、この神奈川県西部特産の新茶に放射性セシウムが暫定基準値を少し超える量含まれている事が判明し、出荷停止の事態となりました。 この件については、他の野菜等はどうなのか、いつ頃汚染が起きたのか、現在はどうなのかなど、汚染の実態が詳細に調べられるのを待ちたいと思います。

*: { 補足:2011年12月27日 } 3月下旬ころ日本各地で製造された製造用原材料に起因すると思われる放射性物質起因の故障が、4月頃製造され5月頃市場に出た各種のフイルム・印画紙等に発生している事が判明したと最近聞きました。 これらは一時的な問題で、それ以降の製造品には出ていないそうです。 60年代の原爆実験の時と同様・同程度の放射性物質微粒の降下が、3月末頃に日本各地で起きていた事が、改めて確認されました。 しかし、原爆実験の当時の様に、それが毎月のように何年も続けて起きたわけではないので、その後半年以上、同様の故障が発生していないという状況を考えれば、本報告の趣旨に変りはないと考えます。