私が裁判官だったころ (8) 2001.6.15

東京高裁長官

東京高裁長官が、土浦支部来訪。
予め、資料を揃えたり、掃除をしたりで、裁判所はあわただしかった。

暑い日が続いており、連日軽装で出勤していた私は、あいにく当日、背広を着ていくことを思いつきませんでした。
座談会にも、1人だけ、ワイシャツ姿で出席。
事務局長から、注意されたりして、落ち着かない思いをしました。

私は、社会人の経験がないまま、裁判官になったので、いわゆる下積みの経験がないのです。
そのため、社会人としての経験不測は否めず、こんなトンチンカンなこともあったのです。
しかし裁判所は、仕事を果たしている限り、それ以外は大目に見てくれていたようです。

茨城県選手権予選など

1982.5月
テニスの茨城県選手権予選に出ることにしました。
シングルス、ダブルス共に。
予選突破するには、5回勝たねばならないらしい。

7.10
検察庁との対抗ソフトボール大会だが、欠席することに決めました。
明日は、テニスの県選手権シングルス予選。
いろいろ考えたのですか、ソフトボール大会は職務ではないし、自分の都合を優先させてもかまわないだろうと、判断したのです。
もっとも、職務とそれ以外を截然と分けきれない面が、確かにあるのですが・・・
明日のテニスがなければ、ソフトボール大会に参加したと思います。

7.11
茨城県選手権。
筑波国際テニス・コートにて。
1回戦不戦勝、
2回戦8-3
3回戦8-4
なんとか、勝ち上がる。
来週、4、5回戦がある。
残った者は、いずれも強敵だ。
でも、力を尽くしてみるだけだ。

7.23
茨城県選手権予選。
筑波学園都市の、土木研究所コートにて。
8-9で、競り負ける。
暑さが、厳しかった。
相手(シード選手)が一枚上だったと見るのが、順当か。
私は、フォア・ハンドを思い切り打って、ネットに出た。
スマッシュは、面白いように決まったが、甘い球は、パッシングされた。
それと、バックハンドが不安定だったのが敗因。

8.上旬
大阪での、法曹テニス大会に出る。
4日は、宝塚G.T.Cで、シングルス大会。
2回戦、S弁護士に、8-0
3回戦、O弁護士に、8-7、
4回戦、U弁護士に、2-8、
3位決定戦、K弁護士に、3-8、
ベスト4には残ったものの、内容には、極めて不満足で、悔いが残った。

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