私が裁判官だったころ (12) 2001.6.22

私が裁判官だったころ(12)

1982.10月
このころから、同僚裁判官との間に、距離を置くようになっていきました。
世間話や、仕事の話ですと、自由に話せるのですが、裁判所の制度などにかかわる微妙な話題は、なんとなく、避けるのです。
同じ部屋の裁判官は4名、別室の支部長を入れると5名です。
だからといって、特に気詰まり、というわけではないのですが・・・

裁判所を含む大きな流れの中で、大きな流れに任せる立場と、そうでない立場との間には、溝があります。
このことは、何も裁判所に限ったことではなく、組織である限り、免れようのないことだと思います。
どちらが良いとかの問題ではありません。
個人の、選択の問題だろうと思います。
当局から見て、どちらが望ましいかは、当局の選択の問題であり、当局の判断が、人事政策、司法政策と、関連することは、これも当然のことです。

ただ、裁判所が他の組織と違うのは、裁判官の地位が、憲法で保障されていることです。
憲法第76条は、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職務を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」
と、定めています。
素晴らしい言葉ですね。
この言葉にひかれて裁判官になった方は、多いと思います。
私もその一人でした。

ですから、私のとるべき道は、自己の置かれた立場を、客観的に認識し、信ずるところを曲げないことなのです。
憲法及び法律に反しない限り、それによって、不利益な処遇を受けることはないはずですから・・・

11.1
10/30,31と、土浦支部旅行会。
今年は、外房総方面。
宿泊は、鴨川チサンホテル。
地裁、家裁合同で、実施されたのは、今年が初めてとのこと。
同僚裁判官が、2名も欠席されたのは、寂しく思えました。

11.3
加波山に登る。
午前10時10分、筑波線、樺穂駅に着く。
正面に見える、加波山を目指して、歩く。
次女は、私が、背負子に背負う。
加波山・・・とは、変わった名前ですね。
子供たちは、「カバさん、カバさん」という。
明治維新のころ、この山にこもった乱があった。
加波山事件というそうです。

11.11
畑の、春菊、サラダ菜が、みずみずしく、成長してきた。
つい先日までは、発育の遅さを、嘆いていたのだったが。
反面、ホーレンソーは、大きくならない。
青虫に、食われてしまう。

民事合議の判決で、深夜まで、起案する日が続く。
午前2時までという日もある。
翌日が、刑事法廷のときは、そういうわけにもいかないが。
充実感を感じる。
刑事事件のように、どんどん処理する方法では、この充実感は、味わえないと思う。

11.14
次女、数えで3歳の、七・五・三。
家族5人で、八坂神社へ、詣でる。
大きな太鼓が、目の前で、叩かれる。
次女は、怯えて、お家に帰る、と言い出す。

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