私が裁判官だったころ (3) 2001.6.2

京成ホテル・テニスクラブのことなど

1981年7月中旬、京成ホテル・テニスクラブに入りました。
入会金3万円、月会費5000円でした。
テニスは大学時代に、硬式テニスクラブに入り、始めたものです。
裁判官になってからも、続けてきました。

前任地である大阪のときは、弁護士、裁判官らが多いクラブに入っていました。
民間のクラブに入るのは、土浦が初めてですが、ここで、多くの仲間を得ることが出来ました。
仲間に誘われ、あちこちの大会に出場し、クラブ対抗の団体戦にも出ました。
茨城県選手権には予選敗退で出場できず、大した戦績は残せませんでしたが、I氏と組んだダブルスで、牛久・シャトー杯で準優勝したときのトロフイーは、今も部屋に飾ってあります。

1981年7月下旬、郷里の魚津に帰省しました。
このころ父が、将来私の家を建てる候補地ということで、富山の方で、土地を見ました。
良さそうな土地であり、家を建てるということで、それをめぐって話題もはずみ、家族の気持ちをとても明るくしてくれました。
結局は、縁が無かったのですが・・・

8月中旬、家族5人で筑波山に登りました。
車が無いので、鉄道、バス、ケーブルを乗り継ぐ。
お盆のためか、人出が多い。

8月24~27日、真鍋の祭り。
計8台の山車が出る盛大なお祭りです。
山車の上では、ひょっとことか、おかめの面を被った人が踊る。
とても上手で、面白い。
子供たちも、山車引きに参加。
都会に出た若者も、この祭りには帰ってくるそうで、それは楽しいお祭りでした。

裁判官懇話会の準備

10月下旬、東京、飯田橋の聖富荘に行きました。
裁判官懇話会の準備の集まりです。
私は、刑事事件の部門に参加しました。
30名も集まったでしょうか。
実務をこなしながら、研究を続け、成果を発表するということは、並々のことではないのですが、やってやれないことはない。
それに熱心に取り組む方たちであり、そのような仲間の中に参加できることを、喜びに思いました。

その日の帰りのことですが、台風24号のため、すごい雨で、午後9時45分上野発の常磐線急行が、牛久駅で立ち往生。
翌朝5時25分まで停車するというハプニングがありました。
もちろん、車中泊です。窓枠にもたれて眠りました。
朝方、電車が動き出したとき、車窓から、霞ヶ浦の沖合いに見た夜明けが、とてもきれいでした。
疲れを忘れるほどに・・・
土浦の家にたどり着いたのは午前6時。
2時間ほど仮眠して、裁判所に行きました。

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