私が裁判官だったころ (2) 2001.5.31

最初の法廷

1981年4月に土浦に赴任。
初めて刑事単独裁判官として、法廷を主宰したのは、数日後のことでした。
初めての法廷には、なんと、午前中3件、午後4件の刑事事件が、びっしり詰まっていました。
午前10時から始まり午前の3件の事件処理が終わったのは、12時45分のこと。
昼休みに大幅にずれ込んでしまいました。
私はともかくとして、担当の書記官らにとっても、昼休みの休憩時間に大幅にずれ込んだことで、大変迷惑をかけてしまったわけですが、一言の苦情もありませんでした。
おそらく、慣れない若い裁判官を見守ってくれたのだと思います。本当にありがたいことでした。思い返すと、頭が下がります。

この日は7件の刑事事件のうち、6件が結審しました。
驚いたのは、うち2件について、即日判決言い渡しを求められたことです。
私の前任の裁判官の処理方針を、私にも求めたのでしょう。
しかしながら、刑事裁判主催が初めてであり、自信・経験不測の私には、即日言い渡しは無理と判断し、言い渡し期日は別に定めました。

そんなわけで、初日の緊張もあり、この日は、ぐったり疲れてしまいました。
このころ、引越しの手伝いにと、はるばる富山県から両親が来てくれていたのですが、すっかりくたびれた私は、もてなすことも出来ずに、寝てしまいました。

そんな厳しい洗礼を受けたのですが、しばらくすると、法廷も慣れてきました。
争いの無い刑事事件については、午前中に結審し、昼休みに起案し、午後に判決を言い渡すというパターンを取り入れました。
昼休みに食い込むことも無くなりました。

当時、大都市近郊の裁判所支部は、事件が急増しており、土浦支部も例外ではなく、私が担当する刑事事件も、増える一方でした。
事件が増えても人員は増えないので、知恵と工夫でしのぐしか方法がありません。
そんな中での工夫が、上記のような、即日判決だったといえましょう。

判事補会のこと

4月中旬、水戸市で水戸地裁管内の判事補会があり、9名が参加しました。

判事補というのは、任官してから10年以内の裁判官のことです。
裁判官は、はじめは「判事補」と呼ばれます。
10年経って、初めて「判事補」の補がとれて「判事」になるのです。
ところで本来であれば、1人前の裁判官の仕事をするのは、10年選手の「判事」になってからなのですが、それでは、増え続ける裁判をこなす人員がとうてい足りません。
それで、実際は、5年の経験を積んだ判事補に、特例として、裁判をすることを認めており、これを、「特例判事補」と呼ぶのです。
そのころ6年目の私は、「特例判事補」として、裁判の仕事をしていたわけですね。

10年以内の裁判官である判事補で構成される判事補会は、年齢が近く立場が似ていることから、研究会、懇親会の場であり、また、大切な情報交換の場でもありました。

木枯らし会について

判事補会の翌日、判事補会に出席していたA判事補から電話が入りました。
「関東刑事事件研究会」、及び、「木枯らし会」に入らないかというのです。
いずれも裁判官の研究会です。

「判事補会」とは別に「関東刑事事件研究会」、「木枯らし会」があることについては、少し、説明が要ります。
この両者は、かなり、性格が違うのですね。
「主流」対「反主流」というか、「御用組合」対「第2組合」というか・・・

どんな組織であっても、大きな組織になるほど、1枚岩であることは難しくなります。
実は、このころ、裁判所においても、少数派が存在していたのです。
これについては、解説が必要ですね。

昭和40年代、大学紛争で世の中が騒然とした時期があったのですが、世の中で事件があればその後始末は裁判所に来るわけでして、裁判所も世の中の嵐と無縁であることはゆるされません。
そして、裁判となれば、裁判官が、憲法と良心に従って判断します。だって、それが裁判官の職務なのですから・・・
世の中の嵐が収まり、裁判所に事件が移り、それに対する裁判所の判断が示されるようになりましたが、裁判の結果は必ずしも自民党の意に沿うものばかりではないわけでして、政治家の中には、裁判所は 左傾している・・・との印象を持った方もおられたようです。
そのためか、相前後して、自民党による裁判所攻撃、青法協弾圧、宮本裁判官の再任拒否・・・といった、政治による司法攻撃が、開始されたのです。
左傾・偏向裁判官は、裁判官としては不適格だから、採用するな、再任するな・・・という攻撃です。

攻撃を受けた裁判所側は、政治的中立を重視し、思想問題からは遠ざかるという方法を選択することで、自らを守りました。
司法の保守化です。
ところが宮本裁判官の再任拒否に対しては、これを自らにも起こりうる問題として捉えた裁判官の間から激しい反発が起こり、それが反対運動に発展し、最高裁と対立したのですが、権力側が強いのは世の 常でして、反対運動は身を結ぶことなく終わり、反対運動に参加した方は、左遷などの不利益処遇を受け、地方に飛ばされるなどしました。
これらのことは、以後長年にわたって裁判所に暗い影を落とすことになりました。
これらのことがあって、裁判所においては、それまで裁判官の間でなされていた活発な議論が影をひそめるようになり、もの言わぬ裁判官が増えたとも言われています。
当時最高裁人事局長として辣腕を振るったのが矢口浩一氏であり、矢口氏は、後に最高裁判所長官にまで昇り詰めました。

反対運動は身を結ぶことなく終わりといいましたが、不正確かも知れません。
形を変えて、裁判官の研究会として残ったのが、「裁判官懇話会」です。
これは、今でも続いております。

以上が、裁判所においても、少数派が存在したことの簡単な説明です。
土浦で私が誘われた「関東刑事事件研究会」、「木枯らし会」は、少数派の方です。

「木枯らし会」というのは、その頃、木枯らし紋次郎というさすらいの流れ者を主人公とするドラマが、テレビで流行っていました。
木枯らしに吹かれてさすらう流れ者の紋次郎に、少数派として処遇されている自らをなぞらえた命名されたのでしょうか。
研究会が主体だが、時おり家族も含めて集まり、懇親会もあるとのことでした。

私が裁判官になったのは1975年であり、上記の裁判所を巻き込んだ政治の嵐は過ぎ去った後でした。
ですから、私は上記の反対運動に参加したことはなく、最高裁と対立したこともありません。
但し、私は、前任地の大阪地裁のときに、裁判官懇話会に参加しておりました。
おそらくそのことで、「関東刑事事件研究会」、及び、「木枯らし会」に入らないかというお誘いがあったものと思われます。

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