「私が裁判官だったころ」を書き終えて 2001.9.12

私は、20代後半から30代前半までの9年間、裁判官の職にありました。
裁判官は、3年ごとに全国を転勤するのが、通例です。
ですから私は、9年間で3回転勤し、3度の任地で仕事をしたことになります。
その最後の任地が、茨城県の土浦市でした。
土浦に行ったのは、1981年4月、裁判官になって、7年目の春でした。

裁判官は、判事、判事補の二つに分けられます。
10年以上の経験を有するのが判事で、10年未満が判事補です。
すなわち、最低10年の経験を経て、一人前の判事となるというのが、本来の姿なのです。
ところがわが国では、人員不足なのか、予算不足なのか、それでは、判事が足りません。
そこで、特例として、5年以上の経験を有する判事補に、判事と同じ権限を与えて、判事と同じ仕事をさせるという制度が、わが国では以前から定着しています。
これを、「特例判事補」と言います。
私が、土浦市に行ったときは、裁判官になって6年が経過していましたから、私はそのとき、特例判事補だったわけです。
私は31歳になったばかりでしたが、判事と同じ権限を与えられ、判事と同じ仕事を担当しました。
当然ながら、裁判官としての気負いもあったと思います。

土浦での3年間は、私にとっては、大切な時代です。
土浦を最後に、私は、裁判官を辞めるのですが、
そのころは、仕事のこととか、裁判所のこととかを、自分なりに真剣に考えていました。
当時は、比較的克明に日記をつけていましたので、「私が裁判官だったころ」は、それに基づいています。

当時の日記を、現在読み返してみると、忘れてしまっていたこととか、書生っぽいなと思うことが、多くあります。
同時に、自分としては、精一杯に物事に取り組んでいたなとも、思います。
幸い最近になってホーム・ページという便利なものを作るようになり、土浦の時代をまとめてみました。
私は50代になりましたが、
土浦の時代は、私にとっては、私の青年時代の最後のときとして、大切な時代なのです。

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