私が裁判官だったころ (14) 2001.7.2

その後の経過

1983年8月
支部長に、辞任のことを話す。
支部長から地裁所長に連絡されたようだ、
最高裁への辞任の連絡は、しばらくの間、所長のほうで、保留しておくとのこと

10月3日
支部長から、
後1年間、土浦に残って、10年の任期終了で退官してはどうか、と言われたが、断った。
既に、名古屋での話が進んでおり、私の都合だけでは決められない段階と思ったので・・・
もっと早い段階であれば、そちらを選択することもあり得たろう。

10月13日
水戸に行き、K地裁所長に、退官の事情説明をする。
簡単に済ます予定であったが、
昼食をご馳走になり、その後、偕楽園を案内して下さった。
小雨が降っていた。

所長が、東京地裁の所長代行をしていたとき、約150名いた判事補のうち、
辞めたのは一人だったという。
水戸は、管内併せて、判事補22名、その中で私が辞めるということが、気になるらしい。

10.17日
日立支部のI裁判官から、電話有り
同氏も、退官し、弁護士になる意思を固めているとのこと
同氏とは、木枯らし会を始めとして、親しくしていたが、
退官のことは、初めて聞いた。

そうすると、水戸は、管内併せて、判事補22名、その中で2名が辞めることになる。
先日の所長の話に照らすと、所長としては、気になるところなのだろう。

1984.2.14
K所長が、最高裁の上席調査官に栄転とのこと
17日に送別会がある
私は、令状当番なので、欠席することになろう

2.21
昨夜、子供たちに、名古屋に行くことになったことを、初めて伝えた
それまでニコニコしていた長男の顔が一変し、
わんわん泣き出した
毎日、幼稚園の友達の、しんぺい君、りょう君達と、遅くまで遊んでおり、
別れるのが、よほどこたえたものと思う
いったん泣きまくったあとは、割合落ち着いている
もう大丈夫のようだ

3.11
昨日、木枯らし会
水戸市にて、
仲間のうち、私とI裁判官が、退官
2名が転勤し、3名が残る

青法協が、青法協であることをやめるとのこと
新たに、名称、規約等を考慮中らしい

青法協は、その機関紙「かがり火」とともに、
裁判所のリベラル派として、理想を掲げてきた
そして、弾圧を受けた歴史がある
その仲間には、尊敬できる方が多い
時代の流れを感じる・・・

3.28
今日の判決言渡しで、仕事は終わり
法服を着ることは、もうない・・・
来週は、名古屋で、新しい生活を始めているだろう

3.31
今日で一区切り
明日からは、自由人、民間人
素晴らしい響きだ

前へ   次へ
私が裁判官だったころトップへ