第3章 自分の責任・他人の責任
熱心なスピリチュアリストである実業家がある交霊会で質問した。
・・・背後霊や友人(の霊)に援助を要求するにはどの程度まで許されるのでしょうか
「生身の人間である霊媒との接触によって仕事をしている私どもは、地上生活における必要性、習慣、欲求と言ったものを熟知していなければなりません。物的必要性について無頓着ではいられません。現実に地上で生きている人間を扱っているからです。
結局のところ霊も肉体も神の僕です。霊の宿である肉体には一定の必需品があり、一定の手入れが必要であり、宇宙と言う機構での役割を果たす為の一定の義務と言うものがあります。
肉体には太陽光線が必要であり、空気が必要であり、着るものと食べるものが要ります。それを得る為には地上世界の通貨(コイン)であるお金が必要です。そのことはよく承知しております。(シルバーバーチは口癖のように〝奉仕は霊のコインである〟と言っている。それになぞらえている)
霊も肉体も神の僕と申し上げましたが、両者について言えば霊は主人であり肉体はその主人に仕える僕です。それを逆に考えることは大きな間違いです。あなた方は本質的には霊なのです。それが潜在的に神性を宿していると言われる所以です。つまり宇宙の大霊をミニチュアの形で宿していることになります。
宇宙と言う大生命体を機能させている偉大な創造原理があなた方一人一人にも宿っているのです。意識を持った存在としての生を受けたと言うことが、神的属性の全てが内部に宿っていることを意味します。
全生命を創造し、宇宙のありとあらゆる活動を維持せしめている力があなた方にも宿っており、その無尽蔵の貯蔵庫の中から必要なものを引き出すことが出来るのです。
その為には平静さが必要です。いかなる事態にあっても心を常に平静に保てるように成れば、その無尽蔵のエネルギーが湧き出てきます。それは霊的なものですから、あなたが直面するいかなる困難、いかなる問題をも克服することが出来ます。
それに加えて背後霊の愛と導きがあります。困難が生じた時は平静な受身の心になるように努力なさることです。そうすればあなた自身の貯蔵庫から・・・未だ十分に開発されていなくても・・・必要な解答が湧き出てきます。きっと得られます。
吾々はみな進化の過程に在る存在である以上、その時のあなたの発達程度いかんによっては十分なものが得られないことがあります。が、その場合も又慌てずに援助を待つことです。今度は背後霊が何とかしてくれます。
求めるものが正しいか間違っているかは、単なる人間的用語の問題に過ぎません。私達から見て大切なのは動機です。
いかなる要求をするにせよ、私達が第一に考慮するのはその動機なのです。動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人の為に役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、決して、無視されることはありません。
それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈ると言う行為そのものがその祈りへの回答を生み出す原理を作用させております」
ここでメンバーの一人が、学識もあり誠実そのものの人でも取り越し苦労をしていることを述べると
「あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。人間としての義務を誠実に果たして、しかも何の取り越し苦労もしないで生きていくことは可能です。
義務に無頓着であっても宜しいと言っているのではありません。かりそめにも私はそんな教えは説きません。むしろ私は、霊的真理を知るほど人間としての責務を意識するように成ることを強調しております。しかし心配する必要などどこにもありません。霊的成長を伴わない知的発達もあり得ます」
・・・あからさまに言えば、取り越し苦労性の人は霊的に未熟と言うことでしょうか。
「その通りです。真理を悟った人間は決して取り越し苦労はしません。なぜなら人生には神の計画が行き渡っていることを知っているからです。真面目で、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。無用の心配をするということのそのことが霊的成長の欠如の指標と言えます。
例え僅かでも心配の念を抱くと言うことは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。もし確信があれば心配の念は出てこないでしょう。偉大なる魂は泰然自若の態度で人生に臨みます。確信があるからです。その確信は何ものによっても動揺することはありません。このことだけは絶対に譲歩する訳にはいきません。なぜなら、それが私達の霊訓の土台とあらねばならないからです」
・・・例えば50人の部下がいて、その部下たちが良からぬことをしたとします。その場合は気苦労の種になってもやむを得ないように思いますが・・・
「責任は個々において背負うと言うのが摂理です。摂理のもとにおいては、あなたは他人の行為に責任を背負うことはありません」
・・・文明社会においては責任を背負わざるを得ないことがあるでしょうか。
「文明は必ずしも摂理に叶ったものではありません。摂理は完全です。機能を中止することはありません。適確さを欠くこともありません。間違いを犯すこともありません。あなたには自分のすること、自分の言うこと、自分の考えることに責任があります。
あなたの成長の指標が魂に刻まれているからです。従って他人の魂のすることに責任を負うことは出来ません。それが摂理です。もしそうでなかったら神の公正が神の絶対性を欠くことになります」
・・・もし私がある人をそそのかし、その人が意志が弱くてそれを実行した場合、それでも私には責任が無いでしょうか。
「その場合はあります。他人をそそのかして悪いことをさせた責任があります。それはあなたの責任です。
一種の連鎖反応を起こさせたことになります。何事も動機が考慮されます。私は決して自分以外の人に無頓着になれと言っているのではありません。魂がある段階の偉大さを身につければ、自分の責任を自覚するようになり、やってしまったことはやってしまったこと・・・自分が責を負うことしかないと深く認めるように成るものなのです。
一旦その段階まで到達すれば、何事につけ自分にできる範囲で最善を尽くし、これで良いという確信を持つようになります」
・・・自分で理解している限りの摂理に従っておればのことですか。
「いいえ、(摂理をどう理解しているかに関係なく)原因と結果の法則は容赦なく展開していきます。その因果関係に干渉できる人はいません。その絶対的な法則と相容れないことが起きるかのように説く教説、教理、教訓は間違っております。原因と結果の間にはいかなる調停も赦されません。
あなた自身の責任を他人の肩に背負わせる手段はありませんし、他人の責任があなたの肩に背負わされることもあり得ません。各自が各自の人生の重荷を背負わねばなりません。そうあって初めて正直であり、道徳的であり、倫理的であり、公正であると言えます。それ以外の説はすべて卑劣であり、臆病であり、非道徳的であり、不公平です。摂理は完璧なのです」
・・・広い意味において人間は他の全ての人に対して責任があるのではないでしょうか。世の中を住みよくしようとするのは皆の責任だからです。
「おっしゃる通りです。その意味においては皆に責任があります。同胞としてお互いがお互いの番人であると言えます。なぜなら人類全体は〝霊の糸〟によって繋がっており、それが一つに結びつけているからです。しかし責任とは本来、自分が得た知識の指し示すところに従って人の為に援助し、自分を役立て、協力し合うと言うことです。然るに知識は一人一人異なります。従って他人が他人の知識に基づいて行ったことに自分は責任が無いことになります。
しかしこの世は自分一人ではありません。お互いが持ちつ持たれつの生活を営んでおります。全ての生命が混ざり合い、融合し合い、調和し合っております。その全てが一つの宇宙の中で生きている以上、お互いに影響を与えあっております。だからこそ知識に大きな責任が伴うのです。知っていながら罪を犯す人は、知らずに犯す人より重い責任を取らせます。
その行為がいけないことであることを知っていると言うことが罪を増幅するのです。霊的向上の道は容易ではありません。
知識の受容力が増したことは、それだけ大きい責任を負う能力を身に付けたことであらねばならないのです。幸と不孝、これはともに神の僕です。一方を得ずして他方を得ることは出来ません。高く登れば登るほど、それだけ低く落ちると言うこともあると言うことであり、低く落ちれば落ちるほど、それだけ高く登る可能性があることを意味します。それは当然のことでしょう」
その日の交霊会には二人の息子を大戦で失った実業家夫婦が招待されていた。その二人にシルバーバーチは次のような慰めの言葉を述べた。
「霊の力に導かれた生活を送り、今こうして磁気的な通路(霊媒)によって私どもの世界とつながりを持ち、自分は常に愛によって包まれているのだと言う確信を持って人生を歩むことが出来る方をお招きすることは、私どもにとって大いに喜ばしいことです。
お二人は神の恵みをふんだんに受けておられます。悲しみの中から叡知を見出されました。眠りの後に大いなる覚醒を得られました。犠牲の炎によって鍛えられ清められて、今尚二人の魂が本当の自我に目覚めておられます。
お二人は悲痛の淵まで下りられました。魂が謀反さえ起こしかねない厳しい現実の中で人間として最大の悲しみと苦しみを味わわれました。しかしその悲痛の淵まで下りられたからこそ喜びの絶頂まで登ることも出来るのです。〝ゲッセマネの園〟と〝変容の丘〟は魂の体験という一本の棒の両端です。一方がなければ他方もあり得ません。
苦痛に耐える力は深遠な霊的真理を理解する力と同じものです。悲しみと喜び、闇と光、嵐と好天、こうしたものは全て神の僕であり、その一つ一つが存在価値を持っているのです。
魂が真の自我に目覚めるのは、存在の根源が束の間の存在である物的なものに在るのではなく永遠に不変の霊的なものに在ると悟った時です。地上的な財産にしがみつき、霊的な宝をないがしろにする者は、いずれ、この世的財産は色褪せ錆つくものであることを思い知らされます。
霊的成長による喜びこそ永遠に持続するものです。今こそあなた方お二人は真の自我に目覚められ、霊界の愛する人々とのつながりが一層緊密になって行く道にしっかりと足を踏まえられました。
御子息がふたりとも生気はつらつとして常にあなた方のお側にいることを私から改めて断言いたします。昼も夜も、一時としてお側を離れることはありません。自ら番兵のつもりでお二人を守り、害が及ばない様に見張っております。
と言ってお二人のこれからの人生に何の困難も生じないと言う意味ではありません。そう言うことは有り得ないことです。なぜなら人生とは絶え間ない闘争であり、障害の一つ一つを克服していく中に個性が伸び魂が進化するものだからです。
いかなる困難も、いかなる苦難も、あなた方を包んでいる愛の力によって駆逐できないものはありません。それはみな影であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。訪れては去っていく影に過ぎません。
悲劇と悲しみをもたらしたものは全て、あなたのもとを通りすぎて行きました。前途に横たわっているのは豊かな霊的冒険です。あなた方の魂を豊かにし、今学びつつある永遠の実在に一段と近づけてくれるところの驚異に満ちた精神的探検です。
お二人がこれまで手を取り合って生きてこられたのも、一つの計画、悲しみが訪れて初めて作動する計画を成就するためです。そうした営みの中でお二人は悲しみと言うものが仮面を冠った霊的喜悦の使者であることを悟るという計画があったのです。悲しみは仮面です。本当の中味は喜びです。仮面を外せば喜びが姿を見せます。
どうかお二人の生活を美しさと知識、魂の豊かさで満たして下さい。魂を本来の豊かさの存在する高所まで舞い上がらせて下さい。そこにおいて本来の温もりと美しさと、光沢を発揮されることでしょう。魂が本来の自我を見出した時は、神の御心と一体であることをしみじみと味わい不動の確信に満たされるものです。
私達の述べることの中にもしあなた方の理性に反すること、叡知と相容れないように思えることがあれば、どうか受け取ることを拒否なさってください。良心の命令に背いてはいけません。自由意志を放棄なさってはいけません。私達は何一つ押し付けるつもりはありません。強要するものは何一つ有りません。
私達が求めるのは協調です。ご自分で判断されてこうすることが正しく且つ当然であるという認識のもとに、そちらから手を差しのべて協力して下さることを望みます。理性をお使いになったからと言って些かも不愉快には思いません。その挙句に魂の属性である知性と理性とがどうしても納得しないと言うことであれば、それは私達はあなた方の指導霊としては不適格であると言うことです。
私は決して盲目の信仰、無限の服従は強要いたしません。それが神が自分に要求しておられることであることを得心するが故に、必要とあらば喜んで身を捧げる用意の在る、そう言う協力者であることを望みます。
それを理想とする限り、私達の仕事に挫折はありません。ともに神の使い手として手を取り合って進み、神の御心を日常の中で体現し、吾々の援助を必要とする人、それを受け入れる用意の在る人に手を差しのべることが出来るのです」
そしてその日の交霊会を次の言葉でしめくくった。
「始まりも終りもない力、無限にして永遠なる力に見守られながら本日も又、開会した時と同じ気持ちで閉会致しましょう。神の御力の尊厳へ敬意を表して、深く頭を垂れましょう。その恵みをお受けする為に、一時の間をおきましょう。その栄光をわが身に吸い込み、その光輝で我身を満たし、その御力で我が身を包みましょう。
無限の叡知で私達を導き、自発的な奉仕の精神の絆の中で私達を結びつけようとなさる神の愛を自覚致しましょう。かくして私達は意義ある生活を送り、一段と神に近づき、その無限なる愛の衣が私達を、時々刻々、温かく包んでくださっていることを自覚なさることでしょう」