事件・事項   注釈(本当は茶々入れ)
明応六年(1497)三月十四日、毛利弘元の次男元就、吉田郡山城内にて誕生。幼名松寿丸、後少輔次郎。
(三楽堂) ホワイトデー・・・。関係ないか、陰暦だし。(笑)母親は、毛利弘元正室福原氏(老臣福原広俊の女)。同腹に興元、五もじ(武田氏に嫁ぐ)がいる。
(矢古女)このお姉ちゃんは、宮姫という方ですね。
ところで広元さんには、側室も何人かいますね。元就を育てた杉の大方、相合元綱ら1男4女を生んだ相合の大方、北就勝の母の有田氏。
明応九年(1500)三月十九日、毛利弘元(33)、嫡男興元(8)に家督を譲り、元就ともども多治比猿掛城へ移る。
大河ドラマ場外乱闘(97.1.5放送分)
(三楽堂) この時、毛利興元(幸千代丸)はわずか8歳。どうして弘元はそんなに早く隠居しちゃったんだろう?
(矢古女) 説明させよう、っておっしゃるんですか・・(^^;)
諸説あるんですけど・・。
その1。毛利家執権の坂氏との確執。
その2。ええと、ちょっとややこしいのですが・・。
広元の時代には、流れ公方・足利義稙が、大内義興を頼って下向しているんですよね。で、広元には、幕府から、義稙追討の命が下った、と。ところが、毛利氏は、大内氏の傘下にある。それで、板挟みになったものだから、幕府の命をうけた広元は隠居し、代わりに興元(幸千代丸)を、大内氏にゆだねることにした。
・・てなものでしょうか。
文亀元年(1501)十二月八日、弘元正室福原氏没(34)。
(三楽堂) わずか五歳で母親と死に別れてしまうんですな。松寿丸こと元就。
元就の育ての親、というより実質的な母親であった「杉の大方」は出自が不明。その存在は、元就が子供たちに与えた手紙の中に散見される。したがって、軍記物などにはそのまま「母杉の方」などと記述される場 合もあり、生母福原氏と混同されることもあった。
(矢古女) 杉さんの実家は、高橋氏、とも言われてますが、興元さんの奥さんの実家の高橋さんとは、別のようです。
(三楽堂) 毛利家文書405では、例の井上邸での念仏伝授が記され、また、420では元就が嫡男隆元に「大かた殿あまり不便之体を御らんすてられかたく候て、我等そたてられ候ためはかりに、若御身にて候しれ共、御逗留候て、御そたて候、それ故に、終に両夫にまみえられす、貞女を被遂候・・・」とあります。
これは弘治四年(1558)の書状ですが、五十年たっても今だに忘れられない女性であったとみえます。この毛利家文書の2か所にのみ、杉の大方は登場するのですが、けっこう印象に残りますなあ。
文亀三年(1503)元就(7)、ペットの鶏「コケ丸」を喪う。
(三楽堂) 事実かどうかはわかりませんが、『名将言行録』では7歳の時のこと。
元就「誰かある、誰かっ」
家臣「何事でございまするか?」
元就「おれのコケ丸を見なかったか?」
家臣「さあ・・・」
元就「屋敷の内外、くまなく探せっ」
やがて、築山の狐穴の辺りに白い羽が散らばっているのを家臣が発見。
知らせを聞いた元就、びっくり仰天。
元就「おのれ、憎き狐め。出会え、出会えっ」
出陣と聞いて家臣たちが慌てふためいて飛び出てくる。
元就、家臣や下男たちを指揮して、築山を包囲する。
元就「(采配を振るって)それっ、狐をいぶし殺せ」
松葉を集めて、どうやら火攻めにする様子。
騒ぎを聞いた母がわりの杉の大方は、信心深い。無益な殺生をしてはならぬ、と狐の助命嘆願の使者を下す。
元就「母上の頼みといえども、これだけは聞き入られませぬ。家臣がけんかをして、一方を殺した場合、殺した者を生かしてはおけませぬ。コケ丸が狐に対し、不埒なことをいたすはずもござりません。それなのに、勝手に殺して、しかも食うとは、言語道断。狐もわが屋敷内に住まうからには、家臣同然。狐を討ち果たすのは、道理というものです」
元就は杉の大方の使者を追い返してしまいました。通常、元就の初陣は永正十四年の有田合戦ということになっておりますが・・・。
狐の末路については、記録がありません。
(矢古女) そう言えば、キツネはどうなったんだ?(笑)(そこまで細かく読んでなかった・・)
(ぺら)  このエピソードは私ははじめて聞いたのですが、「コケ丸」って名前も『名将言行録』に載っているんですか?
(三楽堂) 元就は、鶏は家臣であると言っているので、単に食用で飼ってたわけじゃなさそう。そう考えているうちに、つい命名してしまった。『名将言行録』には「白鶏」としか書いていない。きっと、少年時代の唯一の友達だったのかも・・・。
永正三年(1506)一月二十一日、毛利弘元没(39)。
大河ドラマ場外乱闘(97.1.12放送分)
(三楽堂) 酒害ということじゃ。ナンマンダブ・・・
(矢古女) 興元さんの死因も、酒害だと言われてますね。父母に死に別れた松寿丸、家臣の井上元盛に猿掛城と多治比の所領(300貫)を横領されてしまう。それで、広元の死後も毛利家にとどまっていた側室の杉の大方に助けられ、成長。元就が元服した頃、井上元盛は急死、他の井上氏の助力もあって、元就、なんとか多治比にカムバック。
(ぺら)  この杉の大方さん、再婚もせずに幼い元就くんの面倒をみたのだからえらいよなあ。(さすがに「ショタコンか?」などと茶化すのは申し訳ないような気もする。)
杉の大方は大河ドラマの『毛利元就』でもおいしい役どころなんだろうな。
実の母親に疎まれた信長あたりと比べると、すごい違いだね。
(矢古女) 通説では、井上元盛が、領地を横領した、ってことになってますよね。この辺のことね、住本さんのホームページでは、「井上元盛架空の人物説」が載ってるんですよね。(ただね、これは、松寿丸や杉さんと、井上元兼の間柄には、その時点で特に問題はなかったのでは、ということが、書いてありました)
[http://www.potato.or.jp/~zhuben/]
[http://www.potato.or.jp/~zhuben/mouri/]
(ぺら)  しかし、その説どおりだとすると、『毛利家文書』に載っている「福原広俊外十四名連署状」(元就が家督を継いだときに家臣団が忠誠を誓った文書)も作りものってことになっちゃうの? たしか、これにも井上元盛の署名は書いてあったような・・。
(矢古女) 元就の手紙では、「井上中務丞」が、横領した、って書いてありますよね。(井上中務丞「元盛」という名前は、別の史料にありますね)この人が死んで、また、井上肥後守、伯耆守のおかげで(ってことかな?)、多治比へカムバック、と。井上元兼は、「河内守」だよね? 井上さんがいっぱいいて、紛らわしいぞ(^^;)
(三楽堂) 井上氏には別系もあってわかりにくい。
永正四年(1507)十一月六日、毛利興元元服(15)。
大河ドラマ場外乱闘(97.1.19放送分)
(三楽堂) 烏帽子親は、大内義興。なお、興元は大内義興にしたがって上洛。4年あまりにわたって、足利義植の軍に従っていた。
元就(11)、旅の聖上人より念仏の大事を教えられる。
(三楽堂) これは、自分が十一歳の時のこと、として、元就自身が書状に書いておりますので、信頼がおける話です。これは、家臣井上河内光兼の屋敷で念仏講が催されるということを、杉の大方が聞き知り、松寿丸であった元就を連れて行ったのだそうです。そこで、元就は聖上人から念仏の大事を伝授され、毎朝、日輪を拝して念仏を唱えることを生涯の日課としました。
(ぺら)  このエピソードもはじめた聞いたのですが(笑)、この井上河内は、元春どのを初陣の際、羽交い締めにして押し倒した井上河内元兼と同一人物なのですか?
念仏講にかこつけて松寿丸くんに何かイケナイことを井上河内はしちゃって、それが原因で松寿丸くんは信仰に目覚めたとかさあ。(笑)
ひょっとして元兼って、元就少年と元春少年、親子2人にイケナイことをやっちゃったんだったりして。で、それが後の井上一族粛正につながってしまったってのはどうだ?(笑)
(三楽堂) 別に押し倒しちゃあ、いないと思うが。羽交い締めだけでは物足りないわけね。
(矢古女) この河内は、元兼のオヤジの屋敷だぞお(だから、なんだと言う訳では・・(^^;))
(ぺら)   いや、言いたいことはよーくわかった。(笑)
っちゅうことは、「光兼×元就(松寿丸)」&「元兼×元春(少輔次郎)」。
あ、やっぱり井上一族粛正の原因はこれかもしれん・・。
(にゃぐ) 親子二代が、親子二代にいただかれりゃぁ、ねぇ(泣)
(矢古女) 井上元兼。天文十九年(1550)に殺されたとき、65歳だそうです。
だから、この時点、松寿丸少年が訪問したとき、22歳になってたのね。ううむ、オヤジの光兼と決め付けることもないな・・(おいおい)
ちょっと気になるのは、元就も元春も、正室依存満足タイプ、男色に走ってないんですよね。ひょっとして、幼児体験が・・・・・・・・・・・。
(三楽堂) 念仏聞きに行った先の河内と、元春を羽交い締めにした河内と同一人物であろうと父子であろうと、同じ屋敷内に二人の河内がおったかもしれない。井上光兼は当時55歳。彼が隠居していたとすれば、まあ、この時の河内は元兼と見るべきかな、と思う。父子ともに河内を称していたし、ま、はっきりしないから、「井上河内」としておいたのだけれども。井上光兼は、天文二十年(1551)に89歳で没。なんと、天文十九年の井上党誅殺を免れているのです。
(にゃぐ) どあーーーー(笑)
親子二代で親子二代制覇より、一人で親子二代制覇の方が、すげーー(爆)
永正五年(1508)元就(12)、厳島神社詣。
大河ドラマ場外乱闘(97.1.26放送分)
大河ドラマ場外乱闘(97.2.2放送分)
(三楽堂) これまた事実かどうかはわかりませんが、『名将言行録』では12歳の時のこと。
元就「(家臣に向かい)おまえたちは何を祈ったのだ?」
家臣「はい。私めは若様がいつの日か、中国の主となりますよう、祈りましてございます」
元就「なぜ、日本国中の主となるよう祈らなんだのか?」
家臣「(この坊や、慢心しているなと思いつつ)物事には順序というものがございます。まず、中国をおさめた後に、日本国中を手に入れるのが、モアベターか、と」
元就「(人差し指をたて、家臣の目の前で振って見せながら)ちっ、ちっ、ちっ」
家臣「?」
元就「この世の中、そんなに甘いものじゃないよ。棒ほど願って針ほどかなうのが、関の山さ。だったら、最初から望みを大きく持って、日本国の主、と願っておけば、ひょっとして中国の主くらいにはなれるかもしれないじゃないか」
家臣「それもそうでございますな。中国の主を、という願いでは、せいぜい井上一族に横領された土地が戻ってくるぐらいが関の山でしょうな」
元就(こいつう、気にしていることを・・・)
家臣一同、元就少年の雄大な志に感服して引き下がる・・・。(最後の部分は妄想だけど、一言言いたくなるよなあ)
(矢古女) おいおい、こんなオチだったのか(爆)
(三楽堂) ちょっと、妄想入ってる。だって、腹立つじゃない。ガキにあんなこと言われて。
(矢古女) 元就がガキの頃のエピソードと言えば、家来に背負われて川を渡っていた時、その家来が転んだ、ってのがいいですな(笑)別に、元就が、家来を叱らなかったのがいいんじゃなくて、情景を思い浮かべると、笑える、という(笑)
(にゃぐ) わはははあははははははは(爆)
川の中で家来に転ばれた元就、初陣のときに刀を振り回した挙げ句、井上元兼に初陣されちゃう(byぺら姉上)元春くん。いじらしくもおいしい親子だよなぁ(笑)
(三楽堂) 山国育ちの元就は、カナヅチではないか、と思っている。
転んだ家臣 (ああ、怒られなくてよかった。ホッ)
少輔次郎元就(ああ、溺れなくてよかった。ホッ)
(ぺら)  のちに雪合戦の結果で「元春は山側向き、隆景は海側向き」と元就が判断した理由はただ単に泳げるかカナヅチかの違いだけだったりして・・。(まさかな。(笑))
永正八年(1511)八月、毛利元就元服(15)。
大河ドラマ場外乱闘(97.2.9放送分)
大河ドラマ場外乱闘(97.2.16放送分)
(三楽堂) 元就の元服について、安芸から佐藤某という家臣が、上洛中の毛利興元のもとへ相談にきました。すると、興元は「元」は当家の字だから言うまでもない。あとの一字は東福寺の彭叔守仙に尋ねよ、と言いました。そこで、佐藤某が彭叔守仙に聞いたところ、彭叔は本卦を占って、「就」を選びました。
かくして、松寿丸あらため、毛利少輔次郎元就が誕生したわけです。
(矢古女) 元服した元就は、何事も本家に従う、という誓約書を志道広良と交わす。志道広良は、元就と切っても切れない間柄ですよね。
(三楽堂) 名前のことですが、毛利家代々の一字名「元」が惣領は下に使われる。(例:弘元、興元、隆元、輝元)惣領以外は上に使われる。(例:元就、元綱、元春、元清)しかし、元就が中興の英主となってから、「元」よりも「就」が重視されたみたいですね。惣領は下に「就」がつく。(例:秀就、吉就、重就)で、惣領以外は上に「就」。(例:就勝、就隆)これって、いったんは輝元の嗣子となった毛利秀元が、輝元に実子(秀就)が生まれたので、新しい一字名「就」を用いたのかな? 一方、吉川は先祖返りしちゃって、大江広元の「広」と吉川家本来の一字名「経」を使用。本家への対抗意識でしょうかね。
永正九年(1512)高橋久光女、毛利興元に嫁ぐ。
大河ドラマ場外乱闘(97.2.23放送分)

永正十二年(1515)毛利興元嫡男幸松丸生まれる。
有田城合戦。毛利興元が大内義興の命により武田元繁の城を攻略。
永正十三年(1516)八月二十五日、毛利興元没(24)。幸松丸家督を嗣ぐ。
大河ドラマ場外乱闘(97.3.2放送分)
(三楽堂) 酒害ということじゃ。ナンマンダブ・・・
(矢古女) 興元さんの肖像画を見たけど、やっぱ病弱そうな感じですね。
永正十四年(1517)十月二十二日、有田中井手の合戦。毛利幸松丸の後見として元就初陣。
大河ドラマ場外乱闘(97.3.9放送分)
(三楽堂) 元就の一番手柄。前年に奪われた有田城へ攻め寄せてきた武田元繁の軍を撃破。武田元繁、熊谷元直を討つ大金星をあげました。
永正十五年(1518)元就、吉川国経の女(妙玖)を娶る。
大河ドラマ場外乱闘(97.3.16放送分)
大河ドラマ場外乱闘(97.3.23放送分)
永正十七年(1520)妙玖の祖父吉川経基没(93)。
(三楽堂) 非常に長命で死んだのですね。この方は、武勇にも優れていた上に好学で、勅題によって百首の和歌を詠み、これを朝廷に奉献したこともある。また、後柏原天皇の勅命で『古今和歌集』と『伊勢物語』を筆写した。そのほかにも歌集をたくさん筆写しており、吉川家が現在に伝えている。
妙玖さんは、子供の頃、この祖父にとても可愛がられたので、その日常を見聞きする機会があったのでしょう。
それとも吉川家に養子に行った元春が本の山を見て「うわ〜、すげ〜な〜」と驚き、自分もやってみようかと思ったのだろうか。後に、元春も『太平記』(吉川本と呼ばれる)を筆写することに・・・
大永二年(1522)大内家家臣右田弘詮、『吾妻鏡』を筆写。
(三楽堂) こいつは、重文。これは、毛利家が大内領を手に入れた際、元春が収集し、吉川家に伝存。
大永三年(1523)四月、元就(27)に嫡男隆元誕生。
大河ドラマ場外乱闘(97.3.30放送分)
(三楽堂) 妙玖さんが元就に嫁いだ時期は明確ではありません。元就元服の永正八年〜大永三年の間、ということになるでしょう。『戦国人名事典』では、大永三年説を採っておりますから、お湯かけて3分で隆元ができたようなものですな。
(矢古女) 妙玖さんが元就に嫁いだ時期は有田合戦前後、と考える人が多いみたいです。妙玖さんは、元就の2才下という説があるので、大永三年説じゃ、ちょっと遅い?前後して、元就の異母妹(松姫)、吉川元経に嫁ぐ。元経は、妙玖さんのお兄ちゃん。「お湯かけて3分」ていうのは、どっちかってえと、吉川元春夫妻の場合では・・(^^;) (ううっ、無視しておくんなさいまし(涙))
(三楽堂) 儀右衛門じいちゃんの本には、隆元以前に一女があり、毛利興元夫人の実家石見高橋家に養女に出された、とあります。なにゆえに?
(矢古女) 人質みたいなもの、という話を聞いたことがあるような。つまり、幸松丸の後見人は、高橋のじいちゃん(大九郎久光)と、多治比の叔父ちゃん(元就)だったけど、この両者の力関係の差、ということらしいです。(よくは知らないが)
(幾つかの小説では、口裏を合わせたみたいに、元就の長女は生まれてすぐ死んだのだ、となってます)
七月十五日、興元の子幸松丸没(9)。
大河ドラマ場外乱闘(97.4.6放送分)
七月十九日、渡辺勝、井上元兼、多治比に赴き、元就に謁見。本家相続の打診と思われる。
七月二十五日、宿老十五人連署状を提示し、元就に本家相続を要請する。
八月十日、元就(27)、毛利本宗を嗣ぐ。

大河ドラマ場外乱闘(97.4.13放送分)
(三楽堂) 元就の家督相続に尽力したのは、重臣志道広良でした。元就は、家督を嗣ぐにあたって、「毛利乃家わし(鷲)乃は(羽)を次(続)脇柱」の発句を書いて吉田郡山城へ入城しました。
志道氏は、毛利の庶流坂氏の出ですから、れっきとした毛利一族です。元就を後嗣に推した志道広良は、この時すでに57歳。ところが、91歳まで生きるんですよね。毛利家にはこのほかにも長命な家臣がけっこうおります。彼等のおかげで江戸時代初期に毛利家や吉川家が各種の覚書や軍記を著すことができたとも言えます。元就の後裔である長州藩は、もっとも早い時期から修史編纂事業を開始しました。
元就異母妹松姫、吉川元経に嫁す。
第2章へつづく


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