事件・事項   注釈(本当は茶々入れ)
大永四年(1524) 元就、郡山城の拡張工事に着手。

百万一心碑(吉田町)

(三楽堂) 毛利元就の「百万一心」の伝説は、どこかに裏づけとかあるんでしょうかねえ。正確な年代とか。おそらく、郡山城拡張工事のさなかのことであろうし、「みんなで力を合わせれば、城も磐石じゃ」とでもいいたげな文句。そこで、年代的には、元就が毛利宗家の地位を嗣ぎ、吉田郡山の城主となった大永三年から尼子氏が襲来する天文九年(1540)までの間のことになろう。
現在、吉田町にある碑は、オリジナルではない。
大体、このテの伝説は後世のつくり話が多いのだけれど、この話はあながち嘘とも言いきれない部分がある。
毛利家の諸記録にも見あたらないそうだが、地元では古くから伝承として遺っている。
「百万一心」の伝説とは、巡礼の子が吉田郡山城の人柱にされようとした時、元就が「人の命は尊いものだ。人の和によってこそ、城を守れるものだ」と言い、「百万一心」の文字を書いて、長さ6尺幅2尺の巨石にこれを刻ませ、人柱のかわりに本丸石垣の内に埋めさせた、という話である。
何度も石垣が崩れるのは、祟りなどではなく、みんなの心がひとつになっていないからだ、と元就は言いたかったらしい。元就という人は信心深い反面、合理的な人ですね。
これについては、文化十三年、長州藩士武田泰信(長州藩スイミングコーチ。いや、この際関係なかった)という人物が廃城となっていた郡山城に登り、そこで文字の書かれた石を見つけた。どうやら、廃城時に崩された土の中から出てきたものが放置されていたらしい。
武田はこれを写し取った。明治十五年になって武田の写しから由緒書を添えて、元就をまつる山口市豊栄神社に奉納した、とある。ところが郡山城に遺っていた石は失われてしまい、現在の碑は、豊栄神社の奉納額から模刻したもの。かわった字体で、1箇所が切れているため「百万一心」が「一日一力一心」と読める。漢文風に解釈すると、「日を同じくし、力をひとつにし、心をあわせる」といったところか。まるで、領民とともに戦いぬいた郡山籠城戦を予感させるような文句(つまり出来すぎ)だ。
しかし、この話がもし事実だとすれば、そこに元就サイドの作為を感じるなあ。
だって、ちょうど幸松丸が死んだ直後のこと。元就に服従しない家臣領民もいたに違いない。これを人心掌握の手段にしたのかも。
大永五年(1525) 正月、元就、尼子氏と断交し、大内氏に服属す。
(三楽堂) 元就が尼子氏から離れたのは、自分の家督相続の際に干渉してきたからですね。弟の相合四郎をひそかに支援していたらしい。尼子にしたって、足利義晴の御教書をふりかざされて、元就相続の事後承諾をされちゃあ、面白くなかったに違いない。まあ、大内についたところで言うこときかなきゃならないのは一緒なんだけど。
六月、米山城主天野興定、毛利氏に降服。
大永七年(1527)春、毛利元就、上洛?。
(三楽堂) 『陰徳記』には、「元就朝臣上洛之事」としてわずかな記述があります。これによると、将軍足利義晴に謁し、その推挙をもって従四位に叙され相伴衆に列した。さらに帝より錦の直垂を下賜され、享禄二年秋の頃まで在京していた、となってますが、これを裏づける史料はありません。任官については、6年後にようやく従五位右馬頭に任ぜられるので、これは誤伝と思われます。
享禄元年(1528)大内義興(52)没、義隆家督を嗣ぐ。
享禄三年(1530)元就次男、吉川元春誕生。幼名少輔次郎。
天文二年(1533)元就三男、小早川隆景誕生。幼名徳寿丸。
九月二十五日、元就、従五位に叙さる。
九月二十六日、元就、右馬頭に任ぜらる。
宍戸元源、毛利家と和を結び、その孫隆家に元就の娘五竜を室に迎える。
(三楽堂) 元就の女婿となった宍戸隆家は、一門の扱いを受け、家中では、吉川元春、小早川隆景に次ぐ位置を占めるようになります。毛利というと、「両川」が有名ですが、元春、隆景に宍戸隆家を加えて「三名臣」と称することもあります。
ついでに、隆家の妻となった五竜(隆家の居城五竜城に住まうようになったので、こう呼ばれる。本名不詳)は、気が強かったようで、弟の元春などにはお姉さん風を吹かせて、相当仲が悪かったようです。毛利というと、「三矢の訓え」が有名ですが、実際は兄弟間の仲はあまりよくなかったようですよ。
(矢古女) そう言えば、五龍さん、「しん」という名前が伝わってないかな?(どこに出てるのかは、知らないのだけど)
(三楽堂) そうですね、たしかに。歴史学者田端泰子さんの説、と永井路子氏も書いておられますが、かんじんの出典が示されていない。一体、しんさん、とはどこの史料に載っているのか?。わたしはね、こんなこと、女性蔑視だとか言われるかもしれないけど、女性の歴史家や歴史作家って、どうもうさん臭く感じるの。出典を示すとか、そういうことがなおざりにされるケースが多いし。田端泰子氏の著書には『日本中世女性史論』があり、永井氏もこれを参考にしているようであるから、この本を読めば、何か分かるかもしれないな。
第3章へつづく


妄想年代記メニューに戻る
(敬称略)                       妄想輪読会・年代記編纂分科会