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兼平《かねひら》

二番目
季節  春
作者  世阿弥元清
典拠  平家物語
作物  舟(柴をつける)
前シテ  老翁(面・三光尉《さんこうじょう》または朝倉尉《あさくらじょう》)
後シテ  今井兼平《いまいのかねひら》(面・平太《へいだ》)
ワキ  旅僧
ワキヅレ  従僧二人

物語

木曾を旅立った僧が信濃路を過ぎ、春の近江路を粟津へとたどっておりました。
粟津で討死した木曾義仲のあとを弔おうと思い立っての旅です。
やがて矢橋の浦につきました。
一人の老人が辛い身の上を嘆きつつ、柴舟を操って川面を行き過ぎようとします。
僧は老人に舟に乗せてくれるよう呼び掛けますが、老人はこれは渡し船ではないからと言って断わろうとします。
僧は自分は出家の身であるし、渡し船も見当たらないので特別にお願いしたいと重ねて頼みます。老人も、仏の教えは川を渡るのに渡し船を得るようなものと言う例えを思い出して「とくとく召され候え」と僧を柴舟に乗せます。
粟津に向かう船上で、老人は僧に問われるままにあたりの名所を教えます。向いには都の鬼門を守る比叡山が見えます。延暦寺の来歴や本堂、塔、滋賀辛崎の一つ松などの話しを聞くうちに遠くに見えていた粟津の森は近付いています。
「小波や滋賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」
と謡われた山の櫻は青葉となり、夏へと移り行く青い山裾の流れを舟は進み、粟津の浦へとつきました。
日も暮れ果てて、僧は露深い粟津の草原で義仲の霊を弔いつつ野宿します。
突如、朝風の中に鬨の声が響き渡り、甲冑に身を包んだ武将が出現します。
「如何なる人にてましますぞ」と尋ねる僧に「我が亡き主を弔いにはるばる来たというので兼平が迎えたのだ」と返します。
今井四郎兼平《いまいのしろうかねひら》と言えば木曾義仲の配下で、義仲と共に粟津で果てた一騎当千の武将です。
これは夢かと訝しがる僧に、武将は昨日の矢橋の浦の渡守も自分であったと明かし、昨日の柴舟を極楽への渡し舟として自分を彼岸へと送って欲しいと頼むのでした。
人の世は泡や影のように心もとないものです。
「一日の命しかない※槿花《きんか》のように人の世の栄華も儚いもの」と兼平は木曾殿と自分の最後の戦いの様子を語りはじめます。
平家を追い落とし一時は都を押さえた木曾義仲でしたが、頼朝の軍にせめられてついにはたった七騎となって近江路をのがれます。兼平が三百の騎馬を率いて加勢しますが、またも敗れて義仲、兼平のニ騎となります。
追っ手も迫り、もはや逃れるすべはありません。木曾殿が自害するまで、自分が敵を防ごうと兼平は申し出ますが、義仲は兼平がいればこそここまで逃れてきたのだと言って別れようとしません。人手にかかるのは末代まで恥辱との兼平の言葉に、ついに義仲も意を決して粟津の彼方の松原を目指します。春まだ浅い睦月の末、暮れなずむ比叡山の山風にふかれて薄氷のはった深田に、騎馬は足を取られて動けなっくなってしましいまた。今はこれまでと刀に手をかけ自害しようとして、最後に兼平の方を振り返ったその時に、矢か飛んできて内兜に突き刺さり木曾殿は落命されたのです。
木曾殿か打ち取られたという声を聞いて、兼平は名乗りをあげて討ち手の大軍の中にわけいり、最後の戦働きをしたのち、刀をくわえて馬から飛び降りて自害して果てたのでした。
※槿花《きんか》 
「むくげ」の花。古くは朝顔と呼ばれました。

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