「秋の陽は早かった。西陽が風に舞う頃ようやく墓をみつけた。」
1995年7月1日に開設した「文学者掃苔録」の第一頁『三島由紀夫』の項に記した最初の書き出しです。随分と昔々のことになってしまいましたが、今でもその時の光景がはっきりと目に焼きついています。
武蔵野の西郊、広大な多磨霊園の墓原の参り道、黄昏色のもの悲しげな陽を背中にゆらゆらと影を伸ばしている人影の前に、静かに夕闇をまっている作家の孤然とした墓碑。
私が二十代の頃に三度この作家を目にしたことがありました。
一度目は明治百年記念事業の三島由紀夫脚本バレー公演のポスターデザインを担当した時、二度目は冬の朝まだ明けやらぬ六本木の街を足早に歩いていく姿を。そして三度目は西新宿の地下広場で〈楯の会〉の制服に身を包み、さっそうと車に乗り込んでいった紅潮した顔を。そして四度目は……市ヶ谷自衛隊駐屯地の陸上自衛隊東部方面総監室に乗り込んで憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけたいわゆる三島事件の騒動を何台ものヘリコプターの轟音を聞きながら、当時市ヶ谷駅前にあった歩道橋の上から憂惧を感じながら眺めていたのでした。
その時に〈わき目もふらず、破滅に向かって突進する人間だけが美しい〉と割腹して果てた作家がいまここに眠っているという夢幻(ゆめまぼろし)のような現実。蓮如上人の「白骨の御文章」〈おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり〉そのものがあらわれた瞬間でもありました。
暗然たる思いのその時から今日まで、細々とながら20年にわたる『掃苔』巡礼の旅がはじまったのです。
コバルトブルーの背を翻らせて、かわせみが一直線に水面をかすめ飛んでいったあの夏の日から、指折り数える間もなく過ぎ去っていった季節と季節。 土庭と草いきれの匂い、新緑のかぐわしさ、炎天の木陰、色とりどりの落ち葉、雪明かりに仄みえる墓碑の彫り文字、移ろいゆく墓原に一呼吸する安堵のひととき、ひとつひとつの朝をかぞえるように歩いてきたあの道の、立ちどまった薄墨色の景色の向こうに、いったい何を求め、何を見て、何を感じようとしていたのだろうかといまさら後ろを振り返ってみても詮ないこと。
澄んだ音をたてて、聞く人にさまざまな響きを伝えながら波紋がひろがっていく見たこともない墓原。あしたへと踏み出す道に吹く風が、わたしを新しい物語のはじまりの中に立たせてくれさえしたなら、どんなにか素晴らしいことだろうと思っています。
20年もの長い年月、曲がりなりにも「文学者掃苔録」を継続することができたのは皆様の 叱咤激励のメールがあったからこそと感謝しております。その一方、これから先どれほどの道を歩むことができるのかと、いささか心許ない思いも致しております。1年、2年……10年は無理としても、せめてあと5年くらいは歩みつづけたいのですが。
なにはともあれ、心身の緊張が許す限りどこまでも「文学者掃苔録」を継続していきたいと思っておりますので、どうかこれからのちも、つかず離れず、ゆるゆるとお付き合いくださいますようお願い申し上げます。
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20年の節目をむかえて、『文学者掃苔録』のデザイン構成も大幅に一新、また、本文も全ページ見直しました。 不評だった操作性も、あいうえお順のINDEXを設けたことによって格段に良くなったと思います。まだバグが残っているやも知れませんが、追い追いに修正していきますので、しばらくの間は大目に見ていただいてご辛抱ください。
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