南の風が匂い立つばかり。
ひとつの春が過ぎ去って、翠の葉陰に残された夢の中の夢。
この夏だけをひたすらに生き、一瞬のうちに消えていく蝉のように、長い歳月の間に私の見た何かれ、小さなテーブルの上に飾られた染め付け皿の山野草を愛でながら、失ったすべての別れをひきずっているうちに、いつもそこにあった近しい温もりはもう遠い痕跡となってしまった。
折々につながるラビリンス、脱ぎ捨てた暗闇の足跡、残光を背に受けて墨色に沈んだ碑面、私の望んだ祈り、たったひとつの墓の輪郭だけを光らせた墓山の夕暮れよ、そこには何もなく、音も風もなく、微かにとどまった輝きも夢の瞬きにすぎなかったのです。
瀧口修造の死後発見されたメモ類の中に一篇の詩「遺書」がありました。
年老いた先輩や友よ、
若い友よ、愛する美しい友よ、
ぼくはあなたを残して行く。
何処へ? ぼくは知らない
ただいずれは、あなたも会いに
やってきてくれるところへ。
それは壁もなく、扉もなく、いま
ぼくが立ち去ったところと
直通している。
いや同じところだ。星もある。
土もある。歩いてゆけるところだ。
いますぐだって……
ぼくが見えないだけだ。
あの二つの眼では。
さあ行こう、こんどは
もうひとつの国へ、みんなで……
こんどは二つの眼で
ほんとに見える国へ……
1969年2月3日に脳血栓で倒れた時の体験を映したのでしょう。翌年の1970年7月に書かれたこの原稿は死去の翌年、1980年6月28日に草月会館で行われた第一回「橄欖(かんらん)忌」ではじめて公開されました。
痛む傷口を気遣い、この世の郷愁を確認しながら、季節季節の新しい風や光を楽しんだのはついこの間のこと。
あらゆるものの距離を刻んで、無意識に親しんだ歳月が見えなくなってしまうころになると、閉じられた位置を背にして旅人はしずかに去って行くのです。
生地・越中寒江村大塚にある父祖の菩提寺、背後に立山連峰を望める場所に設えられた一基の墓「瀧口修造」、語るすべもなく立ち尽くした途方もない時間が、いまこの時に至って私を包み込んでいきます。
「死」に取り残された歳月はいつまでもそこに漂い、隙間なく降ってくる白い光のなかに一人の若者をおいて、忘れられた老い人は悠揚と旅立とう。日だまりの国の里人、その胸に語り継がれるおとぎ話のように。
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