今朝はずいぶん早く目覚めてしまった。
天気予報に違わず雨が降っている。
降り始めてから間もないのだろうか、網ガラスの外はまだ薄暗がりで小さな点となった明かりが瞬いていて、黒々とした上野の森のずっと向こうにスカイツリーがうっすらと見えている。ほんの少しばかり開けていた窓の隙間から、アスファルトの雨水をはじき飛ばして通りを走り去る車の「シャー」という音が高く低く、あるいは長く短く七階の窓辺まで途切れることなく聞こえてくる。どこか遠くで幽かに雷が鳴っているようだ。
そば殻入り枕の優しさ、新聞配達夫の足音、風化した果てしもない昨日と離れて、たぶん私は一人。
眠れぬままに目をつむっている幼子の呪文のように、絵の中の山や川、いましも一羽の鳥が飛び立とうとしている村はずれの柿の木の梢、蔦葉のからみついた黒ずんだ土塀、行ったこともない場所が、名もない時間の片隅で静かに消えてゆく。
無駄な音を立ててはいけない。
雨には雨の音があり、風には風の音があり、匂いや哀しみ、言葉や色さえあるのです。
ああ、もう起きなくっちゃならない。
こんな朝は何とはなしに思い出す。
折々につながった人影、淡い光のなかにとどまる光景、季節だけが輝いていた昨日。
命を紡ぎ、命を織ることも知らず、振り返ることを恐れ、失意から逃れるように上京した遠い昔。
ひらりひらりとはぎ落とした夢を見ぬ幾夜、すべての風景が春になって、寂しさにこらえきれず帰郷した三年ののち。
なつかしい匂いのする三和土の奥の畳に寝転がっていると、近所の祝い事の手伝いで出かけていた母が小走りに帰ってきた。歳月とはそういうものかも知れないのだが、かぞえるほどの年月のあいだに私の知らない年老いた母がひとり。上気した頬にぼろぼろと大粒の涙を落としながら、お帰りといった。私も泣いた。その母はもういない。そして母が逝った歳に私はとうとう追いついてしまった。
幾多の悲しみや喜び、怒りを刻んだこの歳月。生まれ出でた時の清々しい純血はわずかに残っているのかも知れないのだが、今も痛む傷口を塞ぐには何ほどの役にも立たない。忘れてしまった風景、逢ったこともない人たちをひたすら追いもとめて今日一日が去って行く。寂しさばかりではなかった孤独が永劫の時に変わるように。
私は「位置」を考える。私の「立ち位置」を考える。
絆とは何か。意識とは何か。私は今どこに在るのか。どこに立っているのか。
今回掲載した吉原幸子は「無題・ナンセンス」と題してこんな詩を詠みました。
風 吹いてゐる
木 立ってゐる
ああ こんなよる 立ってゐるのね 木
(以下、略)
吉原幸子の、そして私の敬愛する詩人石原吉郎はかって「人間は差別されなければならない。それは差別されることで、自分の位置が確認できるからです」と語っています。
私はこの言葉にどれほど勇気づけられたことでしょう。私のおそろしく脆い心の中にしか棲めなかったあやふやな「絆」でさえ、「意識」でさえ、「立ち位置」でさえ、ほんの一時とはいえ彩り豊かに強く、華やいでいくのでした。
──緑静かな丘の朝、霧雨が途切れなく降って、しとどに濡れそぼつ叢、墓原のすべてを紗のベールで包み込んだ白い雨煙、見えるはずの海が幽かにも見えなかった知里幸恵の墓。
──七ツ森の笹倉山を背に、雑木林に挟まれた青々としたわずばかりの田畑を見下ろしていた原阿佐緒の墓。
──西の空、陽に照り映えた山門が、輪郭を厳かに光らせて、東の空には朧な月も昇り、都心とは思えぬほどの清閑さを醸していた杉浦翠子の墓。
──遠く正面に八甲田の山並、送電線の向こうには入道雲をかぶった岩木山が曇って見えた北畠八穗の墓。
──黄金色に輝く仏壇、鈴をたたくと涼やかな音色が空間のただ一人の訪問者を包み込んでくれた原田康子の墓。
そして──生前最後の詩集「発光」の中にある「散歩」の最終節「歩き疲れて うとうと眠れば/波の鐘がかすかに鳴って/二十四時間 の次は/すぐ永遠だが」と自筆を刻んだ詩碑のような吉原幸子の墓。
それぞれに遙かな時を経てむすばれた一筋の「絆」、「意識」、忘れられない「位置」。
遠くに逝った者も夢を見る。跫音をたどる私も夢を見る。夢から夢にもどる夢 。
捨て去ることのできなかった思いを刻むように。
長月。
ずいぶんと楽しませてくれた鉢植えのあかまんまは、とうとう枯れてしまいました。
風がいくぶんか涼しくなって、暑さもようやく和らいできたようです。
土庭に落ちた樫の実や畦道に咲く彼岸花、コオロギの鳴き声、皎々と輝く月の──。
美しい秋。
こんな哀しい季節は二度ときません。
立ち止まってみましょう。
是非とも。
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