平野深く、葉脈の先端のような山間のわずかばかりの野の窪みを探しながら、ひとすじ流れる小さな川がありました。
岩間を滲みでてから幾距離も経ず、川ともいえない川筋に古びれた二、三間ばかりの橋が架かっていて、最奥の集落に通じるその橋の短い欄干を私は幼い頃からひそかに愛していたのです。高くもない橋の下は一寸した渓谷のようになっていて、欄干脇には川筋に沿って細い山道が分かれ、そのとっかかりにひと群れの竹藪がありました。里を吹くいつの日の風も、ある日はせせらぎの音を、ある日は竹藪の笹ずれの音を、欄干に腰かけている私に平穏な寂しさを届けてくれたのです。
郷里を出る朝、欄干に腰掛けてその様な光景の中に安らいでおりました。
少し曇り空の風が微に吹いている日でした。
分け道に通る人とて絶えてなく、道とは知れず叢の沈んだ陰りの中に点々と咲く小菊、黄色い花瓣が光明のように揺れておりました。
つきない朝露のながめ。
せせらぎの音は一期の縁を結ぶように慕わしく耳朶に触れて、竹藪の方に流れていきました。
その時、あの竹藪に竹の花を見たのです。
何十年に一度咲くという竹の花。
半世紀近くも前のことです。
七月はじめの早朝、夜露に濡れていっそう艶だった草木が宿命のように覆う墓山に私はおりました。
北海道・積丹半島の付け根にある余市というこの町に詩人「左川ちか」の墓があるかもしれないという一縷の情報をもとに、はるばるやって来たのでしたが、さりとて何の知り人がいるでもなく、町の図書館に問い合わせた数回のメールのやりとりで紹介された郷土研究会のT氏を訪ねることだけが唯一の手掛かりではありました。待ち合わせた駅からご自宅まで、ご自宅では「左川ちか」についての研究成果や墓の所在のことなどをお聞きしてから、夕暮れ迫った余市の町を「左川ちか」の墓があるかも知れないという墓地まで案内していただいたのです。そこは墓山の裏口にあたる場所で、すすきの群れを背にした赤前垂れの小さな地蔵が一基ひっそりと立っておりました。伸びさかりの草ぐさの間々に覗く石碑は数しれず、陽はほとんど落ちかけてもいて墓探しはあきらめるしかありません。そのあとは余市の町の名所、旧跡などを超特急で案内していただきT氏とはお別れしたのでしたが、ここまで来てはどうにもあきらめ切れず、翌朝、陽も昇るか昇らぬうちに今一度この墓山にきたのです。朝の陽に輝きはじめた墓山、眼下にきらめく余市川に心をとらわれながら一基、また一基と丹念に探して歩きました。3時間ちかく、都合二基の「川崎家之墓」がありました。そのうち一基は間違いなく「左川ちか」につながる墓と思われます。「川崎家先祖代々之墓」、碑裏に祖人長左エ門、祖母ハナの名があります。他にも6人の名が刻まれておりましたが「愛(ちか)」の名はありません。
年譜には祖父長左エ門の代にあっては北海道余市の大地主でしたが、第一次大戦後没落、母チヨは分家、伊藤整の友人でもあった異父兄・川崎昇、愛、妹の三人を育てたと書かれています。父の名はどこにも記されておりません。複雑な家庭環境であったのでしょう。東京・祖師谷にて火葬された亡骸はその夏に余市の川崎家の墓に埋葬されたということです。
T氏のご自宅で連絡を取っていただいた知人M氏によれば二昔も前のこと、川崎家の塋域の中の名もない石塊の傍らに「愛」の卒塔婆がたっていたという話でしたが、いまは整備された塋域、台石のみは古びているものの鞘石は新しくなっており、砂利の敷かれた小庭に黄色い小菊がそこここと咲くばかり、あったはずの松の木も石塊も卒塔婆もなく、70数年前に埋葬されたという「左川ちか」の遺骨はこの新しい墓碑の下に埋葬されてあるのか、あるいはまたどこか別のところに改葬されたのか、何の確証もなく私はただ途方に暮れて空しく佇むばかりです。
料理人が青空を握る。四本の指あとがついて、次第に鶏が血をながす。ここでも太陽はつぶれてゐる。
たづねてくる空の看守。日光が駆け出すのを見る。
たれも住んでないからっぽの白い家。
人々の長い夢はこの家のまはりを幾重にもとりまいては花瓣のやうに衰へてゐた。
死が徐に私の指にすがりつく。夜の殻を一枚づつとってゐる。
この家は遠い世界の遠い思い出へと華麗な道がつづいてゐる。
(幻の家)
いまは夏。
墓山のすべての吹く風はまぎれもなく、24才11ヶ月で逝った「左川ちか」の天鵞絨の暗い影を運んでくるのです。風は風をつないで、背伸びした茎にのった黄色い花瓣をゆっくりと揺らし、遠い思い出を物憂げに話し出す小菊のなんと愛おしいことか。
境石に腰掛けてゆれる花瓣を見ながら、彷徨った遠い道を寂しく聞こう。
半世紀も前、郷里をでる日の朝、目にしたあの叢の小菊と竹花。
花を咲かせた竹は滅んでしまうというが、今もあの竹林はかっての姿のままあるのだろうかと。
欄干も、橋下の渓谷を流れるせせらぎも、山への分け道も、また黄色い小菊も。
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