「遠い風景」を想う。
冬蔦をくるんだ苔玉のある窓辺に。
外は雪。
墓原の、山辺の池の傍らに冬の日差しがふり降りて、一本の大きな柿の木の、熟しすぎた実を百舌がついばんでいる。輝く朝も、雨の降る日も、風の吹く夜も穏やかに過ぎていく野辺の営み、私はいまここに佇んでいるのに、そこに在るはずの人はもう……。
哀しい人、楽しい人、愚かな人、愛しい人、思い出される幾人もの人々は「やあ、こんにちは」と声かけて、ただ通り過ぎるだけではなかったはずなのに、「遠い風景」だけを残して、雲流れるように音沙汰もなくたち去っていったのです。
すでに亡き人の未練や悔恨は、埋け火のようにいつまでもくりかえし、くりかえし。忍び込んでくる青い暗がりの中を漂いながら、もう立ち止まりたいとしきりに思うのですが、冷たい夜気にせかされて、また一日と暮れてゆき、夜の終わりが揺らいでいるように、いままで闇に紛れていたものがはっきりと見えてくるのです。
あゝ麗はしい距離(ディスタンス)
つねに遠のいてゆく風景……
悲しみの彼方、母への、
捜(さぐ)り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。
(海の聖母・母)
吉田一穂の詩に心うごかされて湘南・茅ヶ崎の西光寺まで訪ねていったのはいつのことであったのか。夫人が亡くなられた後に建てられた墓碑があるという記事を頼りに訪ねたものの、住職の話から、ご家族のご意向で郷里の菩提寺に移されたということで果たされず、幾年かを経ての北海道・古平の旅は「遠い風景」への掃苔でもありました。堂宇の背、新旧こもごもの碑が林立する墓山、草々の匂いも影も翠濃く、仄白く小菊のゆれる塋域、陽を遮り手をかざしたその先には、詩人が「この時空に存在しない白鳥古丹(カムイ・コタン)」と呼んで郷愁の原像とした極北の海が「遠い風景」を漂わせて揺れていたのです。
始まりのない空は、表情をかえた雲だけが浮かんでは消え、消えては浮かび、風の吹くままに流れてゆくのです。変わっていく季節のように微笑だけをよすがとして。
風信をのこして立ち去った遠い日の人よ、私はもういちど話したい。あなたに話したい。遠い日の私に話したい。慕わしい詩人の歌った「海を流れる河」のように、無意識に諳んじた物語のように、静けさの木陰で夢みた少年のことも、故郷を去る日のことも、歯痛に苦しんで眠れなかった夜明けの忌まわしい知らせ、睡眠薬とアルコールの匂いが充満するホテル、小机の上の数枚の紙片も、気配のなくなった部屋にゆれるカーテン、北の宿で聞いた訃報も、どんなにあなたが望んだかを、どんなにあなたが苦しみ哀しんだかを、私が間違っていたかを、私が正しかったかを、きっと、いまなら、愚直に話し合えるのです。
小刻みに震えていた窓ガラス。
風が少しやわらいで。
雪はみぞれ混じりに。
いままで気づかなかったこと、影のない風景、通りすぎてきた蜃気楼、落ち葉の積もった雑木林、闇の中で折れる木の枝、誰も知らない風、永遠に遠のいてゆく風景、このごろ、私はそんな事を何故だかしきりに考えるのです。
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