春になってきましたね。
そろそろ、墓参の旅にでかけようかと思い始めています。
齢を重ねてきますと寒さにはことのほか敏感に、また臆病になってくるものです。
それでも、一昨年の冬は京都・若狭方面、昨年の冬は大和・飛鳥方面にと、折りたたみ自転車で走り回っておりましたが、体の調子がどうのこうのというのではないのに、今年はなんだかもの淋しくなってしまって、まったく出かける気分にならなかったのです。もう少し温かくなったら、もう少し、もう少しと思っているうちに4月も、もう中旬。東京では、ひと雨ごとに桜の花も散ってゆき、どうにも体のほうが落ち着かない気分になってきています。
今年の春は伊那・松本方面にと思っているのですが、さてどうなりますことか。
「文学者掃苔録」も開設以来20年にあと少しで手が届くところまでやってきました。
10年一昔といいますが、20年なら二昔。スタートで誕生した子供なら成人式を迎えることになるのです。振り返れば、随分と長い間文学者のお墓に関わってきたものです。昨年は徳島県に行って、北海道から九州まで、沖縄県以外は全ての都道府県に足を踏み入れたことになりました。
現在515名ほど掲載しておりますが、未編集の作家も含めると訪れた墓は約560基。それらのどの墓参も心に残っていますけれども、その中で特に印象に残っている墓参を挙げるとすれば中野重治と白洲正子、そして折口信夫の墓参ということになるでしょう。
中野重治の墓は、福井県坂井市丸岡町一本田にありました。
「太閤さんまい」とよばれている中野家だけの墓地です。ここには都合2度訪れています。2度とも秋。中野重治の墓参とそれから10年ほどの間隔をあけた妹中野鈴子の墓参です。重治と鈴子の生家は解体され、跡地は公園となってしまいましたが、東京・世田谷から移築された重治の書斎が建っており、鈴子の「花も私を知らない」と記された石碑がありました。そこから村道をほんの少し歩いたところにある中野家墓地。黄金色の稲穂がさわやかな風に揺れている田圃の中、波間にあらわれた浮島のような墓地でした。用水路脇の細い畦道を辿ってしか行くことのできない墓地。小さな数基の先祖墓に並んで建つ、赤みを帯びた石柱「中野累代墓」が重治と鈴子の墓でありました。蒼い空と黄金の海、わずかばかりの土庭、松や榎の樹影にやすらぐ小島の碑。悠久とした佇まいでありました。
白洲正子の墓は、兵庫県三田市西山の心月院というお寺の墓地にありました。
三田藩九鬼家の菩提寺で歴代藩主の墓所もある境内墓地は、時空を超えた真空間のなかに静まって、竹林の匂いや葉擦れのささやき、漆喰塀の連なり、薊やたんぽぽ、名も知らぬ草花の咲く詣り道は、広々とした野の原の白洲家墓地へと導いてくれました。正子が自ら図案し、知り合いの植木職人や石工に頼んで造ってもらった二基の五輪塔板碑、不動明王と十一面観音の梵字が彫られた夫白洲次郎と正子の墓。まるで四国巡礼のお遍路さんのような趣に、おもわず立ち尽くしてしまったものです。
折口信夫の墓は、石川県羽咋市一ノ宮町の気多神社南疎林の中にある共同墓地、日本海の荒波のかき鳴らす波風音が、疎らな松林越にもがり笛のように聞こえてくる、冷え冷えとした小高い沙丘にありました。
師弟を超えて養子縁組をした折口春洋は、太平洋戦争最中に硫黄島で戦死。父折口信夫の悔恨や慟哭は、「もっとも苦しき たゝかひに 最くるしみ 死にたる むかしの陸軍中尉 折口春洋 ならびにその父 信夫の墓」におさまってあるはずなのですが、古の戦場に散らばっている屍のように、石塊といえば石塊、墓といえば墓の村人の碑に混じってある仄あかりの父子墓碑は、晩秋の黄昏色に染まりながら、やがては清みきった夜がおりてくるのを二人静かに待っているようでした。
目をつむると、それぞれに吹く風や匂い、響き合う命の安らぎといったようなことまで思い起こすことができるのです。
そんなお墓に巡り会いたい。
木々の移ろいや地に降り立つ風に身をゆだねて、厳粛な時をもちたい。
そんなことをしきりと思う春になりました。
こんな気持ち、ちょっと変ですよね。
変なはずですよ。
でも、まっ。
春ですから。
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