モーツァルト・エッセイ ズ

 

  

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   (ちょっと公開をはばかれるような話題!はこちら…親しい人以外 非公開です(笑))

 


 

「ハ短調」から「ダヴィデ」へ ;「ダヴィデ」から「ハ短調」へ 

      解説:  カンタータ《悔悟するダヴィデ》

 

モーツァルトの新発見?交響曲をめぐって  (2005/4/15)

 

レクイエムと≪アーメン・フーガ≫  (2004.11.26)

 

モーツァルトとトリビア!  (2004.11.26)

 

ピアノ協奏曲K488 謎のピッチカート (2004.11.26)

 

ローレンツ氏からのメール〜ジュナミー協奏曲その後 

 

速報:《ジュノーム》の正体がわかった!!(2004.4.26)

 

感想『モーツァルトのドン・ジョヴァンニ』(2004.2.22)

 

フライシュテットラーの生年 (2003.12.28)  

 

モーツァルトの時代のブルク劇場(2003.1.15)

 

アラン・タイソンの訃報  (2003.1.15)

アマデウス・ディレクターズカット版を観て  (2002.10.19)

写楽とジュノーム(2001.12.15)

 

さらば、20世紀の夜の女王!! (2001.1.1)

 

こんなアンソロジーを作ってみました。 (2001.10.10)

 

コシの軍服考            (2000.4.25)

 

紺野さんとの対話:グラインドボーン音楽祭とフィガロ (2000.3.25)

 


 

 

 

 

さらば、20世紀の夜の女王 !


                

年の瀬のあわただしさの中で、

待望のナタリー・デッセイのCD『モーツアルト ヒロインズ』に

巡り合った。

 

数年前、ウィリアム・クリスティの魔笛全曲盤CDで驚異の夜の女王をきかせてくれたナタリー・デッセイの初のモーツアルト・アリア集である。

 

夜の女王以外にも、モーツアルトのコロラチュ―ラの曲目、後宮のコンスタンツェのアリアなど が含まれているがまずはお目当て 夜の女王 を聴いてみる。

全曲盤では装飾音の多様さに驚かされたが、それが、指揮者クリスティの意図によるのか彼女独自の表現なのかはかりかねるので是非確かめたいものと、かねがねアリア集の発表を待っていたからだ。

このアリア集はその疑問への見事な回答となった。

新全集のスコアを片手に聞くと、その超絶技巧に驚かされる。

彼女の凄いのはそれに留まらず、見事な感情表現が加えられていること。

アリア集だけに、全曲盤よりさらに奔放な表現だ。

第1幕アリアの前半のトリルなど興味深い装飾音が全曲盤同様続出し、

予想を超えた奔放さであるがここにはまぎれもないモーツアルトがいる。

 思わず、ステキ!と口走りたくなってしまう・

 

モーツアルトと魔笛、そして夜の女王を愛する人は

是非このCD を聴くべきだ !!

(おっと宇野功芳先生風になってしまった)

 

デッセイの歌唱の特徴を一言でいえば、

れまでの夜の女王の声質と一線を画す軽く細い声

(生で聴いたらどんな風にきこえるんだろうと思わずにはいられない)と、完璧な歌唱力である。

完璧な歌唱力ならグルベローバがいるが、ナタリー・デッセイの夜の女王にはグルベローバにはない   可憐さ・娘を奪われた若い母親の哀しみがある。

ナタリー・デッセイのイメージする夜の女王 はまだ30代になったばかり、彼女と同年代ではないか、  パミーナを14〜15才とするとその設定も十分頷ける。

ナタリー・デッセイで聴くと何てかわいそうにとタミーノならずとも同情してしまう。これに比べるとグルベロバのはまるで鬼女だ。 

  (言い過ぎでした。ゴメンナサイ)

 

 残念なことに彼女はまだ来日していない。

 さらに残念なことに、彼女は昨年5月のウィーンでの魔笛公演(ノリントン指揮)を最後に夜の女王役からの引退を発表した。

(実際には2002年夏のエクス・プロバンス音楽祭でも歌ったらしい)

 

さらに、さらに残念なことに、昨年末BSで放送された同プロ(ウイーン芸術週間・ノリントン指揮)の映像には6月収録のためナタリー・デッセイの歌唱が収録されていないのだ。

何ということか、我々日本のモーツアルテアンにとってナタリー・デッセイの夜の女王の姿は、映像も含めてもはや幻になってしまったのである。

 

 さて、このCDには、前述したように夜の女王のほかに、モーツアルト・オペラのコロラチューラ物が網羅されている。

昨年挑戦したという後宮からの誘拐のコンスタンツェや、まだ舞台ではやっていないパミーナ、ルチア・シッラのジューニア、イドメネオのイリヤなどである。

クリスティのモーツアルト・オペラ録音第2弾であった後宮の同役はK・シェーファーであった。

クリスティもデッセイが同役挑戦するまで録音を待てなかったのであろうか?

 クリスティ&デッセイコンビによる後宮は夢に終わるのか?

なんとも惜しまれるところである。

 

ナタリー・デッセイの今後だが、後宮はじめ新たなレパートリーに挑戦するとのことだが、是非ともやってほしいのは、『にせの花作り女』や『牧人の王』などの初期オペラである。

(そもそも彼女の舞台デビューは『牧人の王』であったはず)

初期オペラといえば、デッセイには既にK・ルセと組んだ 『ポントの王ミトリダーテ』という傑作録音があるが、軽い声質のコロラチュ―ラという現在の彼女にピッタリ だった。

コロラチュ−ラの最盛期は短い。

是非、今の声が失われない内に上記の曲を録音してほしいものである。

もちろん『コシ・ファン・トゥッテ』のデスピーナ、フィオルデリージもやってほしいが、レコ芸の記事 によると、何とルチア役への挑戦も日程にのぼっているらしい。

 グルベローバへの対抗心かもしれないが、我々モーツアルティアンにとっては、そんなことより、1曲でも多くモーツアルト録音を残してほしいし、是非来日してその生の声を多くのファンに披露してほしい。

 

20世紀の夜の女王といえば、

70年代は、オランダの夜の女王  クリスティーナ・ドイテコム、

80年代は圧倒的に エディタ・グルベローバ、

そして90年代はスミ・ジョーかと思われたところに突如出現した

ナタリー・デッセイ、

そして彼女こそ21世紀幕開けへ続く夜の女王かと期待していたところが、

20世紀最後の年に早くも引退(夜の女王からの)してしまう。

 

 新しい夜の女王の出現はいつもスリリングである。

もはやこれ以上の夜の女王はありえないとさえ思われていたグルベローバの歌唱を、思いがけない視点から乗り越えてしまったナタリー・デッセイはまだまだモーツアルト音楽再現の可能性が無限に残されていることを、 我々に教えてくれた。

果たして21世紀には、どんな夜の女王に会えるのだろう。

 

さらば、20世紀の夜の女王!

そして、出でよ、21世紀の夜の女王!!

 

2001・1・1 <完>  

  日本モーツァルト愛好会機関誌 アマデウス通信 2号に掲載したものに加筆・修正した

 

 

 

こんなアンソロジーCDを作ってみました。


このたびお世話になった方たちへの御礼にこんなCDを作ってみました。(非売品)

 

題して『マイ・フェバリッツ(私のお気に入り)』

全曲 モーツァルトで行きたいところですが、抑えてその他の曲も織り交ぜました。

 もちろん、これ以外にもお気に入り=大好きな曲はたくさんあり、とても1枚にはおさまりきれません。

 明日、作ればまったく別の曲になるかもしれません。

 

私にとって女声コーラスは、「天使の声」です。いつかは指揮をしてみたいものと念願してい るのですがどうなることでしょう。

@AのCDは私の結婚祝いに頂いたものではなくて(残念!!)

私のほうからある友人の第1子誕生祝いに贈ったものです。

随分考えて選んだのですが、あまり喜ばれませんでした。(贈り物選びは難しい!) 

 

次に、現在最も活躍している3人の若いソプラノ

 

エヴァ・リント

ナタリー・デッセイ

クリスティーネ・シェーファー

 

の歌声から選んでみました。     

皆 34〜5歳で現役で活躍している人ばかりです。

 

最初のエヴァ・リントはオーストリアのインスブルック出身で趣味はスキー(何とあのトニー・ザイラーにコーチされたとのこと)、3人の内では最も早く1989年にウィ−ン・シュターツ・オパーに夜の女王役でデビューしました。それから数年のうちに多くの録音に参加しましたが近年はちょっと伸び悩みのようです。

ナタリー・デッセイについては別項のエッセイをご覧ください。

クリスティーネ・シェーファーは現在最も売れっ子のソプラノの一人でアバードやブレーズという名指揮者からひっぱりだこです。 数年前のザルツブルグ音楽祭での『ルル』では達者な演技も披露し大ブレークしました。

 (来年2月来日予定)

 

メイン・プログラムには、さんざん迷った末、モーツァルトの

ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K364を選びました。

モーツァルトの曲はみんな好きといっていいのですが、K364は私のモーツァルトの原点です。

この曲は、モーツァルトのすべてとはいかなくても、その魅力の要素の大半(ピアノや声楽を除く)が含まれている名曲と思います。

 2つの独奏楽器の対話の魅力、モーツァルトの天才はこの曲や有名なト短調の弦楽五重奏曲といった一風 変わった編成の際に,特に冴え渡るような気がします。

 ヴァイオリンの天才少女として名高かった五嶋みどりが見事なモーツァルト弾きに成長して演奏しています。

 またこのCDの利き所はヴィオラが本来のモーツァルトの指定通りの調弦によって演奏している点です。詳しい説明は省きますが、他のCDでは聴くことのできない輝かしく力強いヴィオラの響きをご堪能下さい。

 

 

湯山 昭

女声合唱 愛の河 

第1部 <相聞>

札幌大谷女子短大輪声会  

湯山 昭

女声合唱 愛の河

 第2部 <華燭>

札幌大谷女子短大輪声会  

J・シュトラウス

ワルツ<春の声>

エヴァ・リント

モーツァルト

ヴァイオリンヴィオラのための協奏交響曲  変ホ長調

  K364 第1楽章

五嶋みどり

今井信子 

K・エッシェンバッハ指揮

モーツァルト

VnとVaのための協奏交響曲 

  K364 第2楽章

五嶋みどり

今井信子 

K・エッシェンバッハ指揮

モーツァルト

アリア<若者よ、恐れるな!>

(歌劇 「魔笛」 第1幕から)

ナタリー・デッセイ

 

モーツァルト

モテット<踊れ、喜べ、汝幸い

なる魂よ K165>

クリスティーネ・シェーファー

 

 

                                                             (2001年10月10日)

 

 

 

コシの軍服考     フィオルデリージはフェランドの軍服を選んだ


 

昨年秋の芸大オペラ公演 コシ・ファン・トゥッテの舞台を観ていて、『発見』したことがあります。

この公演は最近流行の原語、字幕付きだったので、文字通り字幕を観て 『発見』したのです。

それは、第2幕フィナーレ前の有名な二重唱直前のフィオルデリージのレシタティーボ

 

  L‘abito di Ferando  sara buono per me  フェランドの洋服は私にちょうどいいわ。

  puo Dorabella prender quel di Guglielmo  グリエルモのはドラベルラに着せましょう

                                            (海老澤 敏 訳)

 

おやおや、フィオルデリージは異人に変装したフェランドの誘惑を逃れて、許婚者グリエルモのところに

赴くため許婚者の軍服を着ようとしているのに、なぜ恋人である(あった)グリエルモの服を着ないで

フェランドの服を選んでしまったのでしょう。

何度も観た、聴いたシーンなのに、見落としていたんですね、うかつでした。

このことが続く大二重唱での、フィオルデリージ陥落の大きな伏線であることは言うまでもありません。

何とすてきな作劇術なのでしょう。

この功績は誰に帰するのでしょうか、ダ・ポンテか、モーツァルトか?

  字幕の訳は、たしか<フェランドの服は私にぴったり、グリエルモのはドラベルラにぴったり>となっていたと記憶していますが、けだし名訳ですね。 (海老澤先生、ごめんなさい!)

ここからは、奥ゆかしく声をひそめて言いますが、服がぴったりとは、フロイトを持ち出すまでもなく、性的な相性を暗示しているということは明白でしょう。

『俗な言い方をすれば』フィオルデリージの体は既にフェランドを求めていた、ということになるのでしょうか。

そうであれば、フィナーレで恋人たちが、もとのさやに納まるというのは極めて不自然。

ここまで本気になってしまったものが、もとに戻れるはずがないではありませんか。

上記の台辞を重視すれば、<女はみんなこういうもの>とて、すべてを認め、すべてを許し合うという

従来の<恋人の学校>としてのコシ・ファン・トゥッテ解釈はなまぬるいといわざるを得ません。

近年のコシ・ファン・トゥッテ演出の中には、大団円の六重唱の際に、グリエルモがそっぽをむきっぱなしというのもあれば、話題のピーター・セラーズによる現代風演出のように、女性陣が怒りのあまり男性陣の陳謝を拒否するというのもあり、そのほうがリーズナブルに思えるのです。

 

以上が、昨年の芸大オペラでの『私の発見』ですが、星余いるモーツァルティアンのこと

凡庸な当方と違って、先達様はこんなこと位先刻お見通しでしょうね。

そう思って、手許文献をめくってみると、 〜 ありました、ありました。

マイケル・ラヴィ著『モーツァルト 光と影のドラマ』に

 

『貞節を守り抜こうと決意したフィオルデリージは、おおまじめに軍服を着込み

それが恋人グリエルモの軍服ではなく、逃れようとしているフェランドのものであるところに、

ダ・ポンテの巧みな心理描写がうかがえよう)、ドラベルラにもグリエルモの軍服を着せようとする』

                                            (高橋英郎・内田文子 訳)

 

何と、冒頭の小生の文章そのままではありませんか。

もしかすると、以前この本を読んだ時にはあまり意識していなかったこのくだりが記憶の片隅に

残っていて、このたびの舞台を観た際に思い出したのかも知れません。

未消化のまま文献ばかり読み漁るとこんな失敗をするという見本でしょうか、お粗末様でした。

でも、最もこんな話の好きそうなB・B (ブリジット・バルドーにあらず、ブリジット・ブローフィのこと)がこのことに触れておらず、代わってその夫君のM・ラヴィ氏が取り上げていたとは、意外な発見でした。

謹厳なM・ラヴィ氏は奔放な奥方B・Bと異なり、フロイト流解釈までふみこまなかったようですね。

どなたか<ぴったりあう軍服>から、フロイト流解釈を論じた文献をご存知の方は是非ご一報下さい。

よろしくお願いします。

 蛇足を1つ、前にもふれたがこのすてきなアイデアの発案者は誰なのか。

常識的に考えれば、台本作者ダ・ポンテなのだが、台本には大いに口出ししたというモーツァルトのこと、彼の口から生み出された可能性はと、万に一つの可能性に思いをはせるのは研究者にあらざる我らアマチュア・モーツァルティアンの特権でありましょう。

 

いつの日か天国へ行って(行けたとして)モー様にお会いした時、聞いてみたいネタがまた1つ増えました。

<了>

11.12.30 (改 12.4.25

モーツァルティアン・フェライン機関誌 モーツァルティアン  号に掲載したものに加筆・修正しました

 

 

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