モーツァルト・エッセイ

 

「宇野功芳の白熱CD談義  

    ウィーン・フィルハーモニー」 読後感想  2003年 1月15日


これは、音楽評論の書ではない。
宇野功芳ファンが
宇野功芳を味わうための書である。
今 流行りの「語り下ろし」という代物なので
いつもの宇野節がさらに、さえわたる。
(あとがきで、自分は「口べた」といっているのが面白い(笑))

いつものように、読み始める前、10本の付箋を用意しておいたが
アッという間になくなってしまった。
全ページ 宇野節のオンパレードである。

たとえば、
「これは、徹底的にクナッパーツブッシュの≪アイネ・クライネ≫に
 してしまっています。遊びに遊んで。
 『これは、わし(クナッパーツブッシュ)が考えた
    ≪アイネ・クライネ≫である』と。『ざまあみろ』と」

何が、『ざまあみろ』なんでしょうね (笑)
本当に愉快な人だなあ!
こういうところが、宇野功芳ファンにはたまらないんでしょう。

興味深く思ったのは、氏が理想とする批評として引用している文章。
故 野村光一氏の「名曲に聴く」から
ワルター=ウィーン・フィルのジュピター交響曲について
「……モーツアルトの優雅な旋律をあくまで優雅に歌わせており
まったく絹糸のように柔らかく、細く、白砂糖のようにアカ抜けした
甘さを持って指揮されている。……
 ……ときには、霞のかかったように茫漠とあいていることさえある。」
との文章について
「この批評を読んでいたら、もう聴きたくて聴きたくて仕方がなかった。
 それが本当の評論です。」

これが本当の評論とは、とても思えないのですが(笑)
これが宇野功芳の原点だったんですね。
しかし、こういう技(!)は選ばれた人=野村光一、宇野功芳やアンリ・ゲオン
などのみに許されること、
そして、それが受け入れられた時代があった! ということを
忘れてはならないと思います。
決して、現代の私たちが追うべき道ではない。
思えば、宇野功芳という人が「レコード芸術誌」という音楽ファン雑誌に
批評と称して書く(今も書いている!)ことの功罪というのは大きい。
つい、先年も同誌月評で、小澤の≪エロイカ≫を
「人気は高いが味のうすいアサヒ・スーパー・ドライのよう(な演奏)」
と評して、かたや大喝采、こなた大顰蹙を買ったばかりです。

宇野先生は、ある意味で(歴史的存在?)別格として
世に無数に存在する
≪宇野教徒、宇野のエピゴネン、エセ・宇野功芳≫には辟易します。
私も努めて上記のような表現を使わないよう、他山の石としているつもりです。
(でも時々、その誘惑に負けてしまうことも……(^^;))

宇野教徒から石が飛んでくるといけないので、これくらいにして
ファン・サービスに、本書掲載の宇野語録を少々 !

「≪蝶々夫人≫は大好きなオペラだなあ。とても20世紀の作品
とは思えないね。≪蝶々夫人≫をやると、すっ飛んで行きますね。」

昔、ぼくは演奏家の名前にもよく文句をつけていましたよ。
 ウヴェーなんて合唱指揮者がいたんです。
 ウヴェーなんて名前じゃいい演奏ができるわけがない、なんて
 書きました。……
  ユルゲン・ユルゲンスという指揮者もいて、名前を聞いただけで
 『こんなのはユルフンで駄目だ』なんて書いていたことがあります。

  ……だって、フルトヴェングラーでしょ、クナッパーツブッシュでしょ、
  ブルーノ・ワルターでしょ、いい人はみんないい名前を持っていますよ。」

  〜こんなことを書く人を、音楽評論家と呼んでいいものでしょうか?(笑)
    でもそれが、ファンにはたまらないんでしょうね。

「第2楽章は、木の葉がすべて散り落ちた冬の朝を、孤独に歩いて行く
 モーツアルトの姿ですね
。」(ワルターのト短調シンフォニー)
  
  〜いよッ、ウノ コーホー!! なんて大向こうから声がかかりそう。

 最後に宇野先生の名誉のために(笑)、音楽書らしい部分も

「第2主題の途中(70小節)、ヴァイオリンがフレーズの終わりを
 弾いているときに、ワルターは次のフレーズの受け渡しを待っている
 低弦のほうに注意がいく。そのためヴァイオリンが最後で崩れて
 いるんです。そういうのは一流の指揮者にあるまじきことですよね。」
   (ワルターのジュピター・シンフォニー)

*出版社による本書紹介は→

http://www.bookman.co.jp/issue/uno/index.html
 

 

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