モーツァルト・エッセイ 

《モーツァルト時代のブルク劇場》    2003.1.15
 


ウィーンを訪れたことのある人には、おなじみの
リンク・シュトラーセ、市庁舎向かいにある劇場が
クリムトの描いた壁画でも有名なブルク劇場 Das Burgtheater 、
 ウイーン子が Die Burg といえば、それは、この劇場を指すのだそうだ。

 しかし、それはモーツァルトがコンサートを開いた劇場ではない。 
1741年 マリア・テレジアの命によって、ミヒャエラー・プラッツ(1区)に
面したバルハウス(屋内遊戯場)の中に作られた、
Das Theater nachst der Hofburg (王宮のそばの劇場)
通称 ブルク劇場、これがモーツァルト時代のブルク劇場である。

モーツァルトの数々のオペラ、後宮からの誘拐、フィガロ、コシ・ファン・トゥッテ
がここで初演された。(ドン・ジョバンニはウィーン初演が行われた。)
もちろん有名な1783年のコンサートもここが舞台である。

モーツァルトの時代から約100年後の1888年、リンク・シュトラーセに新劇場
が建設され、それまでのブルク劇場は閉鎖された。
 新劇場は、Burgtheater am Ring と名づけられ、演劇専門となった。
これが今日のブルク劇場である。

さて旧のブルク劇場について、ジョン・A・ライスは

『1780年代のブルク劇場は、最大1,350名の観客を
収容する親密な空間であった。…… 
 当時 ヨーロッパで最大の劇場であったロンドンのキングス劇場、
 ミラノのスカラ座はともに、約3,300名を収容可能であった』
  
『ブルク劇場は、観客を階級ごとに隔離していた。
舞台のすぐ前の<パルテル・ノブル>は貴族のための席であり
2階と3階のボックス席は皇族と外国の大使たちのための席であった。
第2パルテル(パルテル・ノブルの後)と、4階ボックス席、そして上の
ギャラリー席(天井席)が、相当なチケット代金を支払うことのできた人たちに
開放されていたのである。これらの人々は……ウイーンの中産階級の中でも
かなり裕福な人々であった。  <中略> 』

  〜と述べている。

因みに、チケット料金は
 (海老澤先生は、1991年時点の邦貨換算で、1グルデン=1万円と考えて
  よいのではないかと述べておられるが、デフレ時代の今日の実感では(笑)
  1グルデン= 7〜8千円というところではなかろうか)

『1770年代には最も安い席(劇場の最上階)の価格が20クロイツアーから
7クロイツアに大幅に減額されたが……ウィーン市民の多くにとっては手の届かぬ
ものだった。  <中略>
 ブルク劇場のボックス席の年間賃貸料は1席当たり700から1,000グルデン
に及んだが(1グルデン=60クロイツアー)、
これは下級宮廷官僚の年間収入に匹敵した。
(モーツァルトは宮廷楽師として年額800グルデンの俸給を得ていた)』

 〜ということであるから、今日の来日オペラ団公演よりはるかに高価であった
ことがうかがえる。
 よくいわれるような ウィーン子にとってオペラが娯楽などという時代は
それから100年以上後まで待たねばならない。
 モーツァルトの時代、彼の音楽の享受者は、まさしく王侯・貴族そして一握りの
裕福な市民だったのである。

  <参照資料>
  ・渡辺 護著 『ウィーン音楽文化史 下巻』 音楽之友社 p161

  ・N・ザスロー編 『啓蒙時代の都市と音楽』 音楽之友社
      第5章 ヨゼフ2世とレオポルト2世時代のヴィーン
         ジョン・A・ライス著 樋口隆一訳 p149

  ・小学館版 『独和大辞典』

  ・海老澤 敏著 『モーツァルトちょっと耳寄りの話』 NHK出版

*文中のドイツ語表記ではウムラウトを省略している。


2002年11月16日 <北とぴあ>で行われた モーツァルテッシモ(1783年 モーツァルト・アカデミー・コンサートの再現)の関連解説として

日本モーツァルト愛好会会誌 <アマデウス通信> No.8に寄稿したものに加筆・修正した。。 

 (ご意見・ご感想を掲示板 または 次のメールまでお寄せ下さい)  

    http://8554.teacup.com/wamjapan/bbs

    wamjapan@cat.email.ne.jp


<ブラウザの「戻る」ボタンをクリックして下さい>