ノースウエスト・アース・フォーラム

古寺巡礼と観梅及び座禅

2008年2月13日(水)、ノースウエスト・アース・フォーラムの第4回目の企画として場所を変えて鎌倉の「古寺巡礼」と名刹「東慶寺」で「観梅と座禅」を行なった。「古寺巡礼 」は素晴らしい日本晴れの下、ハイキングコースを含め、楽しんだ。 前日の雨の後で足場が悪く、下り坂で転倒して、手をつき、手首を骨折する人が出たのはコース選びが少し無謀であったかなと反省している。

夷堂で文覚上人を怪物坊主とでもいえばよかったのにうっかり生臭坊主と呼んだところ、参加者の一人の遠藤からクレームがついた。曰く「 文覚上人、すなわち遠藤左近将監茂遠(えんどう・さこんのしょうげん・もちとお)は上西門院の北面の武士で、19歳のときに、人妻である袈裟御前を横恋慕し、その夫を殺そうとし、誤って袈裟御前を殺してしまった。それゆえに出家をしたのであって生臭ではないと弁解させてほしい。なぜなら俺は遠藤の末裔だからだ。ご先祖は鎌倉北条氏に従って信濃は塩田平の保野(ほや)に居ついて現在に至ったのだ」という。そういえば塩田平の奥、別所温泉には鎌倉北条氏の外護によって栄えた安楽寺がある。鎌倉時代末期に建立された国宝の八角三重の搭が今も残っている。

「観梅と座禅」には北高OB11名、西高OG10名、学習院OB5名、慶応の学生1名が参加した。

東慶寺にて 西沢重篤氏撮影

東慶寺は別称“駆け込み寺”、“縁切り寺”とも言われているが、境内は梅が咲き、鈴木大拙・西田幾多郎・安倍能成・岩波茂雄・出光佐三等の著名人の墓も多くある。


第1部:古寺巡礼

 ・集合場所と時間;JR鎌倉駅東口(横須賀方面に向って左)、10時30分

時間が限られているで、1180年から153年間の日本を率いた関東武士団の興亡の地を巡るコースを選定した。詳しくは別紙参照

  ・順路:10:30鎌倉駅東口⇒安産祈願のおんめさま⇒鎌倉七福神の本覚寺⇒鎌倉十橋の一つ夷堂橋⇒妙本寺と蛇苦止堂⇒祇園山ハイキングコース⇒東勝寺跡⇒青砥藤綱旧跡の東勝寺橋⇒宝戒寺⇒筋違橋⇒畠山重忠邸址⇒流鏑馬道⇒承久の乱の時、旗揚げした旗上弁才天⇒赤橋⇒舞殿⇒大銀杏⇒12:15鎌倉 歐林洞(キッシュの昼食)⇒巨福呂坂切通⇒建長寺⇒13:30東慶寺(距離:3.5km)

第2部:観梅と座禅

 ・ 東慶寺境内散策観梅、墓参

 ・ 参列者紹介・茶礼

 ・ 井上和尚講話

 ・ 座禅

 ・ 水月観音・涅槃図絵解説

東慶寺 2008/2/5撮影

 ・ 亀ヶ谷経由の徒歩またはJRでの移動

第3部:鎌倉銀座アスターにて会食
 


別紙

大巧寺(だいぎょうじ)おんめさまをコースに入れたのはたまたま鎌倉駅から比企ヶ谷への近道だったためです。大倉に住んでいる秋山勘解由(かげゆ)の妻が難産で死んでしまいました。彼女がその赤子を抱いて滑川を渡ろうとして渡れず、苦しんでいるのをこの寺の上人がお経を読んでとむらってやりました。数日後、美しい女が上人の前に現れて「お経のおかげで苦しみが消えました。お礼に生きていた時にためたお金を持ってきましたからこれで塔を建ててお産で苦しむ人を救ってください」といいます。秋山勘解由に確認するとたしかに妻が死ぬ前に溜めていたお金の包みだというので塔と産女堂(うぶめどう)を境内にたてました。この産女が安産の神「おんめさま」です。

頼朝に決起を促した人のなかに文覚上人も居たといわれています。頼朝が鎌倉に幕府を開いてから文覚は頼朝に依頼されて江ノ島の弁才天と鎌倉の本覚寺にある夷堂を開きました。1274年に佐渡流罪を解かれ鎌倉に戻った日蓮上人は、この夷堂に滞在して布教を再開しました。その後、甲斐国の身延山に入って久遠寺(くおんじ)を建立し、本核的に日蓮宗の布教を開始したのです 。この本覚寺には鎌倉で活動した刀工、五郎入道正宗の供養塔(宝篋印塔ほうきょういんとう)と一族の墓があります。 卵搭があるのは正宗という号が日蓮よりもらった出家の印だったためという。

頼朝の乳母であった比企尼は武蔵国比企郡(今の東松山市の周辺)の代官となった夫と共に京から領地へ下り、頼朝が伊豆に流されていた1180年の秋まで20年間頼朝に仕送りをしています。このような縁で比企家は鎌倉幕府で力を持ちます。比企 能員(よしかず)の娘、若狭局が頼家の妻となり、その子一幡を将軍にしようとする比企家は比企家の血が入っていない頼家の弟、実朝を将軍としようとする北条に滅ぼされてしまいます。若狭局は蛇苦止の井に入水(じゅすい)して自害します。 能員の末子、能本は比企の乱が起きた時は2歳で生き残りました。彼の姪にあたる竹御所(源頼家の子)が4代将軍九条頼経(よりつね)の妻になったことから許されて鎌倉に帰りました。1234年に竹の御所は出産時に死去し、頼朝の血はここで途絶えたのです。その菩提を弔うために能本が法華堂を比企ヶ谷に建てたのが、妙本寺の前身です。この ように比企一族滅亡の地が妙本寺であります。

御家人の上総、梶原、比企、畠山、和田、三浦、そしてついに千葉一族も滅ぼして北条得宗家の天下は150年続きますが、その北条もやがて八幡太郎義家の子孫である新田義貞に突然攻められることになります。幕府に不満を持っていた新田義貞は150騎で挙兵するのですが、三浦一族を含め、北条に不満をもつ武士団が続々と集まって数万の軍に膨れ上がり、挙兵から15日で幕府軍を下してしまいます。第16代執権赤橋守時が率いる6万騎の北条勢は大船と深沢の間の洲埼で一昼夜に65度戦いますが、最後は300人に減って、大将の守時は千代塚で自刃してしまいます。巨福呂坂切通を通過して進入してくる反乱軍を東勝寺の裏山の上からみて、高時をはじめとする得宗家一族870人はもはやこれまでと東勝寺で自決することになるのです。

頼朝の4代前の八幡太郎義家(「前九年の役」に奥州に派遣された源頼義の嫡男)の子孫である足利尊氏も新田義貞の挙兵と同じ頃、鎌倉幕府に反感をもつ後醍醐天皇にそそのかされて京都で反幕府の兵を挙げ、幕府の京都における下部機構である六波羅探題を落として後醍醐天皇に認められます。鎌倉攻めの立役者、新田義貞は後醍醐天皇に取り込まれて足利尊氏との主導権争いをしているうちに越前で戦死してしまいます。

滑川にかかる東勝寺橋の袂に青砥藤綱旧跡という石碑が建っています。青砥藤綱は第8代執権北条時宗、貞時の二代に仕えた引付衆であった人です。彼があるときここで十文を滑川に落したとき、五十文を支払って人に拾わせ、小利大損哉と嘲られました。彼は「十文を失えば天下の貨の損失、五十文は我に損なりといえども人に益したのだから良いのだ」と言ったと書いてあります。司馬 遼太郎が「三浦半島記 街道をゆく42」でこの逸話を紹介しています。現代の経済学でも発行貨幣量が減ずればデフレになり、人々が貯金せず使えば景気がよくなるという理屈で青砥藤綱はこれをよく理解していたことになります。

後醍醐天皇も北条一族を滅ぼして後味がわるかったのでしょう。足利尊氏に命じて、北条得宗家九代の屋敷跡に建立させた鎮魂の寺が宝戒寺です。鎌倉七福神の一つ毘沙門天もここにあります。足利尊氏が室町幕府を京都に開くに至り、鎌倉は政治の中心たる位置を失い、江戸時代以降、観光地となるのです。鎌倉五山鎌倉五名水鎌倉七口鎌倉七福神鎌倉十井鎌倉十橋鎌倉三十三観音など名数で数える史跡がそのなごりです。

第5代執権時頼が妻の実家である三浦を打つべきか迷っていたとき、母松下禅尼の父、安達景盛率いる300騎が今小路にあったと思われる甘縄から繰り出し、若宮大路の中下馬から、鶴岡八幡宮の赤橋(太鼓橋)を抜け、鶴岡八幡宮東の横浜国大付属小学校正門前の道と金沢街道との交差点にあった鎌倉十橋の一つ筋違橋(すじかえばし)の北側にあった三浦泰村(やすむら)邸にかぶらやを放ちます。三浦泰村はこれまでと頼朝を祀った法華堂で一族500人が自決しています。法華堂跡の隣に頼朝の側近で守護・地頭制度を頼朝に提言した大江広元(おおえのひろもと)の墓があります。その両脇には三浦に従った島津家の祖となる比企家の血をひく島津忠久や相模・毛利庄(神奈川県・愛川町)出身の毛利季光(すえみつ)の墓が並んでいます。忠久の子や季光の子は血なまぐさい権力闘争をかろうじてのがれて、鎌倉・室町・戦国時代と江戸時代を生き抜き、明治維新の原動力となるのです。

畠山氏は坂東八平氏(三浦氏、千葉氏、秩父氏、鎌倉氏、大掾氏(だいじょうし)、中村氏、梶原氏、長尾氏)の一つの秩父氏の一族で武蔵国畠山郷(埼玉県深谷市)を領していました。後白河天皇の皇子である以仁王の令旨(りょうじ)を受けて平家打倒の兵をあげた頼朝に畠山重忠は平家方として敵対して戦いましたが、頼朝が千葉常胤(つねたね)、上総広常(かずさひろつね)らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入ったとき、頼朝に帰伏しました。先祖が八幡太郎義家(源義家)より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたといわれています。こうして幕府創業の功臣となりました。頼朝死後、初代執権北条時政の後妻の牧の方という女性が権勢欲が強く、梶原氏、比企氏を滅ぼし、ついに畠山重忠も彼女の標的となり、時政を動かして武蔵国二俣川の戦いにおびき寄せ、北条義時を大将とする数万騎によって一族とともに滅ぼされました。実朝も廃して牧の方の娘婿を将軍にしようとする二人の無謀さに反発した北条政子と北条義時は時政と牧の方を伊豆に幽閉するに至るのです。

文覚も西行も平清盛ももとはといえば北面の武士でした。この西行も奥州の平泉に東大寺の勧進に行く途中、鎌倉に立ち寄り、鎌倉十橋の一つ裁許橋にその名を残しています。頼朝に請われて朝廷流の流鏑馬のやり方を伝授したのが今も残る八幡宮の流鏑馬だといわれています。松尾芭蕉は西行の足跡を追って奥州に出かけたとされています。

鶴岡八幡宮の源氏池内の中島に祀られている旗上弁才天は鎌倉七福神の一つです。後鳥羽上皇が鎌倉幕府の守護・地頭のをきらって起した1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)のとき、政子と大江広元の主戦論に従い、幕府軍がここで旗揚げし、17万騎が東海道、東山道、北陸道を西進して勝利し、鎌倉幕府の基礎が固まったのです。

舞殿は静御前が義経をしたって舞った場所とされています。
 

よし野山 みねのしら雪 ふみわけて 
いりにし人の あとぞ恋しき
しづやしづ しづのおだまき くり返し・・・


一幡の弟、公暁が比企家の血が入らない叔父の実朝を暗殺した悲劇の舞台が八幡宮の大銀杏です。公暁は三浦氏が将軍に担いでくれると思ったらしいのですが、逆に殺されてしまいます。三浦の枝族、和田義盛は公暁の弟の栄実を将軍にと担ごうとしますが発覚し、三浦の援軍もないまま北条に攻め滅ぼされます。こうして頼朝の血は絶えたのです。激戦は琵琶橋周辺など、この鎌倉の中で生じたため、いまでも工事をしようと掘り返せば、おびただしい人骨が発掘されます。

現在の巨福呂坂切通は旧巨福呂坂切通より少し北側につけられています。

建長寺は今から750年前、鎌倉幕府第5代執権で三浦一族を一掃した北条時頼により建立されました。現在の伽藍は江戸時代に再建されたものです。

北条氏系図

日本の土地

黒字は国指定史跡

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January 12, 2008

Rev. July 1, 2008


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