法華堂跡

鎌倉に住んで25年以上経つ。頼朝の墓とされる石塔は一度訪れたことがある。2007年4月12日、20年ぶりにここを再訪した。ここはもともと頼朝の大倉幕府のあったところである。

源頼朝は1199年に亡くなり、持仏堂に葬られた。このお堂が法華堂と呼ばれるようになったという。法華堂はその後、山の下に移され、明治維新に廃仏毀釈により白旗神社になった。持仏堂にあった如意輪観音半跏像は西御門の来迎寺に移された。後世、法華堂の跡地に島津家によって建てられた供養塔が源頼朝の墓塔とされている。

頼朝の墓

源頼朝の墓塔の右手のロープのある急坂を登るか白旗神社の前で右折して少し東に歩いたところの石段を登ると頼朝の側近で守護・地頭制度を頼朝に進言したという大江広元(おおえのひろもと)の墓がやぐらの中にある。左脇には毛利季光(すえみつ)の、右脇には島津忠久のやぐらが並んでいる。デザインは同じである。その前一段低いところの左手には三浦一族のやぐら、そしてその南の更に一段低い段地は第2代執権北条義時の法華堂跡とされていて発掘調査で確認されている。

大江広元の墓

三浦泰村以下一族の墓

毛利季光は大江広元の四男で相模国愛甲郡毛利庄(現厚木市毛利台)の領地から苗字をとっている。「宝治の乱」の時、越後国にいた季光の子、経光(つねみつ)は生き残り 、その子孫が、安芸・吉田に移り、毛利元就(もとなり)の先祖となる。

島津忠久は島津家の祖で源頼朝愛妾とも言われた比企能員(ひきよしかず)の妹・丹後局が生んだといわれている。そのため、頼朝の墓も島津家が作り、法華堂跡は島津家から鎌倉市に寄贈された。父・広言は近衛守に仕え、同家領・島津荘下司となり、島津氏を称した。 明治維新の原動力はこうした島津と毛利の過去の怨念も関係ないとはいえないであろう。

司馬遼太郎の「三浦半島記 街道をゆく42」に描かれているように協調して頼朝を担いだ北条氏と三浦氏ではあったが、頼朝の死後、北条氏は独裁政治を確立するため、源頼朝以来の幕府創業期の有力御家人の粛正に務めてきた。

頼朝死去後の梶原景時の弾劾追放では和田義盛(わだよしもり)が、中心的な役割を果たし、その後の比企能員(ひきよしかず)の変、 初代執権北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられた畠山重忠の乱といった一連の御家人の乱では和田は北条氏に与した。しかし、第2代執権北条義時の時に義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で市街戦を展開するが、敗れて討ち死にし、和田一族も滅亡した。江ノ電の和田塚駅はその時の市街戦での死者を弔った和田塚にちなんだものである。

このように北条氏は自らの体制に障害になりそうな幕府創業に貢献した有力御家人の一族を滅ぼしてきたのであるが、残る三浦氏が次第に目障りとなってきた。第3代執権北条泰時の孫、第5代執権時頼のときの1247年5月、妻の実家である三浦を打つべきか迷っている時頼を差しおいて母松下禅尼の父、安達景盛の300騎が現在の甘縄 神社のある甘縄から繰り出し、若宮大路の中下馬から、鶴岡八幡宮の赤橋(太鼓橋)を抜け、鶴岡八幡宮東の横浜国大付属小学校正門前の道と金沢街道との交差点にあった筋替橋(すじかえばし)の北に布陣し、筋違橋の北方にあった三浦泰村(やすむら)邸へかぶら矢を放った。 これを宝治の乱という。三浦邸に放火された秦村はここを逃れても時頼が安達を支持している以上、北条氏が三浦一族を滅ぼす気持ちは変わらないと判断し、東隣の源頼朝の墓所である法華堂にこもり、一族500余人と共に自害した。

筋替橋は鎌倉十橋の一つで、現在は川は暗渠の中を流れているので橋はないが、国道脇に1939年に建てられた石碑が立っている。その文面には「三浦泰村一族の叛乱に際し、北条時頼の外祖の安達景盛が・・・」と書いてある。事実は三浦には叛乱の疑いがある段階で安達景盛が攻めたわけだから、これはあくまで勝者側のロジックである。歴史は常に勝者側が書くということの良い例だろう。

時頼はこの後、勢いに乗じて三浦氏と並ぶ有力御家人の千葉一族も滅ぼした。ここに幕府における北条氏の独裁政治は確立したのである。独裁政治確立に貢献した安達一門も1285年の第9代執権北条貞時のとき、内管領の平の讒言による霜月騒動で500人が自害して滅びるのである。第14代執権北条高時のときの1333年5月、ついに北条一族と家臣の870人が新田に攻められて自害して滅びるのである。それにしてもすざまじい。

法華堂跡は世界遺産登録をめざしている国指定史跡の一つである。

黒文字は世界遺産登録をめざしている国指定史跡

April 18, 2007

Rev. March 24, 2008


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