東勝寺跡

2007年1月10日、T.H.と恒例に鎌倉八幡宮へ初詣にでかけた。初詣後、鎌倉幕府滅亡の地 東勝寺跡を訪問した。東勝寺跡は雪ノ下を通って宝戒寺の横を通って東勝寺橋という美しいアーチ橋を渡ったところにあった。新聞に紹介があったように東勝寺橋は滑川(なめりがわ)を眺めるには一番良い橋である。

滑川にかかる東勝寺橋

橋の袂に青砥藤綱旧跡という石碑が建っている。青砥藤綱は第8代執権北条時宗、貞時の二代に仕えた引付衆であった人で、ここで十文を滑川に落したとき、五十文を支払って人に拾わせたとき、小利大損哉と嘲られた。彼は「十文を失えば天下の貨の損失、五十文は我に損なりといえども人に益したのだから良いのだ」と言ったと書いてある。司馬遼太郎が「三浦半島記 街道をゆく42」でこの逸話を紹介している。 現代の経済学でも発行貨幣量が減ずればデフレになり、人々が貯金せず使えば景気がよくなるという理屈で青砥藤綱はこれをよく理解していたことになる。

滑川の上流に青砥橋という橋があるが、これは青砥藤綱の屋敷が十二所の浄明寺にあったため。藤綱は、権力にこびない公平な裁判官で、生活は常に質素を心掛けた清廉潔白な人柄だったといわれる。

寺の名前の由来は第3代執権の北条泰時がここに寺を建てた時、西を意識して、すなわち京都の公家にたいし、東が勝つという意味を持たせたと考えられている。青龍山という号も青龍は東を意味するからであるとされている。開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)

鎌倉市がこの土地を買い上げて建物を建てようとしたのだが、東勝寺の遺跡が出てきて、保存することになり、鎌倉市を世界遺産にする目玉の一つになっている。現在は裏山の祇園山ハイキングコースの入口にもなっている。

遺跡調査の結果、伽藍配置は城そのものであることが分かった。祇園山ハイキングコースのある裏山に登り西方を見ると巨福呂坂(こぶくろざか)が見通せる。 御家人の 上総、梶原、比企、畠山、和田、三浦、そしてついに千葉一族も滅ぼして北条得宗家の天下は150年続くが、その北条もやがて八幡太郎義家(前九年の役の頼義の 嫡子)の子孫である新田義貞に突然攻められることにな る。幕府に不満を持っていた新田義貞は150騎で挙兵するのだが、三浦一族を含め、北条に不満をもつ武士団が続々と集まって数万の軍に膨れ上がり、挙兵から15日で幕府軍を下してしま う。第16代執権赤橋守時が率いる6万騎の北条勢は大船と深沢の間の洲埼で一昼夜に65度戦うが、最後は300人に減って、大将の守時は千代塚で自刃してしまう。巨福呂坂切通を通過して進入してくる反乱軍を東勝寺の裏山の上からみて、高時をはじめとする得宗家一族870人はもはやこれまでと東勝寺で自決することになるのだ。

このように東勝寺は鎌倉に迫る敵勢の動向が良く見えるところに立地しているのだ。第14代執権の北条高時らはここから見ていて、鎌倉幕府が終わったことを実感して、自害しただろうことが推察できる。北条一族と家臣の870人が自害したのは日本史に残る壮絶な事件であった。

北条一族の独裁のために犠牲となった開幕以来の功臣三浦一族が1247年に第5代執権北条時頼に攻められた「三浦の乱」では、三浦一族とこれに加担した島津、毛利を含めて500人が、法華堂で自害した。思い起こせば、盛者必衰(じょうじゃひっすい)の理を感ずる。

腹切りやぐら

東勝寺跡は世界遺産登録をめざしている国指定史跡の一つである。

黒文字は世界遺産登録をめざしている国指定史跡

東勝寺跡の後は瑞泉寺に向かった。

April 16, 2007

Rev.March 9, 2008


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