鶴岡八幡宮

例大祭流鏑馬

鎌倉に住んで26年以上になるが、まだ鶴岡八幡宮の流鏑馬をみたことがなかった。ご町内のエバーフィールド氏が手をまわして流鏑馬の拝観券を手に入れたと いうので2006年9月16日、夫婦ともども連れ立ってでかけた。11:30受付けで実際の流鏑馬が開始されたのは14:00以降であった。炎天下待つの はつらかったが、一の的の正面で絶好のカメラアングルが取れる場所である。良いスポットを確保しておくために約2時間待った。強い日差しをさけるため日傘 をさして、持参のウンベルト・エコの小説「薔薇の名前 上」を読む。座ると暑いので立ったままである。

250mの馬場に3つの的があり、馬が走り初めて5秒後には一の的が来る。この間に矢をつがえ、弓を引き絞り、射なければならない。そして5秒後には二の 的がくるので射手はいそがしい。10枚ばかり撮影したなかで下の写真がちょうど矢が弓を離れ的に向かって飛んでいる様がよく撮れていた。矢が的に当たると 杉板の的が小気味よく砕け散る。

一の的

ヨーロッパがモンゴル軍に蹂躙されたのはモンゴルが「あぶみ」を発明したからである。この「あぶみ」のおかげで馬を走らせながら矢を射ることができたからだという。ところがシルクロードを取材した小笠原氏によればモンゴル軍の馬は側対歩(そくたいほ)という走り方ができたので馬の上下動が少なく、馬上から矢をいることが出来たのだという。もともとモンゴルの馬は小型のポニーだったので本能的に側対歩であった。サラブレッドやアラブは斜対歩(しゃたいほ)という高速で走れる走り方だが上下動が大きく弓には向かない。いまでは日本の馬はすべてアラブ馬だが調教して側対歩で走れるようにしているという。

戦 国時代の日本の馬も世界制覇したモンゴルの馬も現代の西洋で言うポニーで側対歩であった。日本では去勢することを知らなかったので気が荒く、乗りこなすのはかなり 難しいがタフである。しかし甲冑をつけた90kgに達する武将が乗ると移動速度は4km/hになってしまい、徒歩の歩兵に遅れてしまう。だから戦場につい たら下馬して徒歩で戦った。勝ち名乗りするときに再び騎乗してカッコつけたのだそうだ。そういえば、西洋の中世の騎士も戦うときは馬からおりて徒歩で戦っ たという。だから武具をつけず軽武装で高速で暴れまわるモンゴル兵に負けてしまったのだ。ラバに乗るサンチョパンサを従え、長い槍を持つドンキホーテが風 車に突進するイメージは十字軍がアラブ馬を西洋に持ち込んでから出来たものであろう。

『吾妻鏡』には1186年8月15日、鶴岡八幡宮寺に頼朝が参詣すると、鳥居の周辺を徘徊する老僧がいた。怪しんで家臣に名を尋ねさせるとこれが西行と分かり、驚いた頼朝は館に招いて、流鏑馬(やぶさめ)や 歌道の事を詳しく聞いた。西行はヒョウヒョウとし「歌とは、花月を見て感動した時に、僅か三十一字を作るだけのこと。それ以上深いことは知りません」。流 鏑馬のことは「すっかり忘れ果てました」とトボケていたが、頼朝が困惑するので馬上での弓の持ち方、矢の射り方をつぶさに語り始めた。頼朝はすぐに書記を 呼んで書き留めさせたという。2人の会話は終夜続き、翌日も滞在を勧められたが、西行は振り切るように昼頃発った。頼朝は土産に高価な銀製の猫を贈った が、西行は館の門を出るなり付近で遊んでいた子どもにあげてしまったという。現在 、鎌倉の祭りで催されている「流鏑馬」は、西行がコツを伝授した翌年から行なわれるようになった。

捕えられた魚や鳥などの生物を池や野に放つ法会を放生会(ほうじょうえ)という。日本では宇佐八幡宮で行われたのが初例である。後に、陰暦8月15日に八幡宮の神事として行われるに至った。特に石清水八幡宮の行事が名高い。「放正会の日に流鏑馬の行事をすることにしたところが頼朝らしい」と内海氏はいう。

September 17, 2006

Rev. August 19, 2015


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