鎌倉には昔から鎌倉五山、鎌倉五名水、鎌倉七口、鎌倉七福神、鎌倉十橋、鎌倉三十三観音のように名数で数えた史跡が伝えられている。これらの名数は、鎌倉が江戸時代に観光地として繁栄した頃に称えられたといわれている。 鎌倉十井は;
甘露ノ井 | 浄智寺総門前に湧き出る井戸。2007/11/10撮影 | |
瓶ノ井(かめのい) | 明月院の宗猷堂(そうゆうどう)近くにある 。岩盤をくりぬいて掘ったため、内部が瓶のようにふくらんでいたことからこの名がついた。またの名を「つるべの井」という。2008/2/5撮影。 | |
底抜ノ井(そこぬけのい) | 海蔵寺門前、右側の井戸。 安達泰盛の娘、千代能がここで水を汲んだ時、水桶の底が抜けた。このとき「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず」とうたった。こころは心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りがひらけたという投機(解脱)の歌である。2008/1/27撮影。 | |
扇ノ井 | 浄光明寺奥の本田宅の台所近く個人の敷地内奥 | |
泉ノ井 | 泉ヶ谷、浄光明寺の先、 馬場宅の門前にある。枯れてはいないがわずか。井戸の前の道を直進するとつきあたりに山道がある。ここを登ると巨福呂坂切通し旧道に交わる という。途中まで登って引き返した。2008/1/27撮影。 | |
鉄ノ井(くろがねのい) | 小町通り北端にある。1258年1月17日、長谷甘縄の秋田城介、安達景盛の館から出火し、寿福寺を焼き、泉ヶ谷の浄光明寺向かいの新清水寺も類焼。その新清水寺に祀られた鉄観音像の頭が行方不明になった。江戸時代になってから、ここ鉄ノ井から掘り出され、明治の神仏分離令等を経て日本橋人形町の大観音寺に移された。 | |
銚子ノ井 | 別名石ノ井。横須賀線名越の踏切をこして少しあるき、左手の石渡宅の敷地内 玄関先にあって見つけにくい。たまたま鎌倉五名水の一つ日蓮水におまいりしていた本覚寺副住職の奥さんに案内してもらってその場所がわかった。2008/2/2撮影。 | |
六角ノ井 | 和賀江嶋近くの海岸沿いの路地にある。井戸端は八角あり、そのうちの六角が鎌倉分、二角が小坪分といわれている。和賀江嶋 に着桟した船の真水はここで調達したのかもしれない。別名、矢の根井戸ともいい、源為朝が伊豆大島から射た矢がこの井戸に落ち、やじりが残ったところからこの名がついたという。いまも竹筒に封じて井戸の中断にまつってある。2008/2/2撮影。 | |
星ノ井 | 江戸時代は極楽寺切通しを往来する人のために「かけ茶屋」が建ち、井戸の水を売っていたが、関東大震災後に水を売る光景は見られなくなったという。昼なお暗いこのあたりでは覗くと昼間でも水面に星が見えたという伝承が名前の由来。 家康もここに立ち寄ったという。2007/12/16撮影。 | |
棟立ノ井 |
写真撮影は禁止 |
覚園寺境内にある。井戸が棟型をしているので棟立ノ井、破風の井戸と呼ばれる。 |
鎌倉の地図
April 16, 2007
Rev. November 14, 2008