読書録

シリアル番号 926

書名

後白河院

著者

井上靖

出版社

筑摩書房

ジャンル

小説

発行日

1972/6/15第1刷
1972/8/30第7刷

購入日

2008/2/3

評価

ミセス・グリーンウッド蔵書

保元・平治の乱を舞台にした小説。

白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)と鳥羽院は崇徳帝を生んだ、しかし鳥羽院は白河法皇が死ぬとすぐ崇徳帝を退位させ、美福門院・得子と自分の子を近衛帝とした。しかし近衛帝は早死にし、鳥羽院と待賢門院璋子との子を後白河帝とした。

鳥羽院が死ぬと1156年に崇徳院派と後白河天皇派の間に「保元の乱(ほうげんのらん)」が発生する。勝った後白河天皇に味方したのは、美福門院・得子と親しかった関白・藤原忠通(ただみち)であり、忠通に従った後に源平の棟梁となる平清盛(たいらのきよもり)と源義朝(みなもとのよしとも)であった。負けた崇徳院は讃岐国に流されたのである。

源義朝は平治の乱を起すが平家にまけて死に清盛の天下となる。

美福門院・得子の死後、後白河と平家の関係は冷たくなり、皇子の以仁王が諸国に令旨を発し、京都で源頼政と平氏打倒の軍を挙げた(以仁王の挙兵)。この挙兵は失敗に終わるが、高倉宮以仁王の平氏討伐の令旨を受け取った全国の源氏が呼応し、木曾の源義仲(木曾義仲)、伊豆へ流罪となっていた義朝の子の源頼朝などが挙兵すると、後白河法皇はこれを支援する。

1181年それまで後白河法皇に代わって院政を敷いていた高倉上皇が崩御すると、ほかに院政をとることのできる上皇がいない為、後白河院政が再開される。また清盛が病死すると平氏の勢力は急激に衰え、法皇の発言権は拡大した。1183年7月には、木曾義仲が叡山と連携して京都に攻め込むと、平氏は安徳天皇、建礼門院らを奉じ、三種の神器と共に西へ落ち延びていった。叡山に避難していた法皇は京へ戻ると、上洛した木曾義仲・源行家らを迎えて平氏追討の院宣を下す。

高倉上皇の皇子から新帝を擁立する際には、義仲は以仁王の子の北陸宮を推挙するが、後白河は寵姫の丹後局の影響でこれを退けて後鳥羽天皇に決定し、神器が無いために緊急措置として院宣により即位させた。鎌倉に本拠を置いた頼朝が密奏を行い、東国の支配権を認めさせると、義仲は京で孤立する。頼朝に義仲追討を命じ、頼朝の弟の源義経に命じてこれを討たせた。さらに平氏討伐の命令を出し、1185年壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡した。

すると今度は、頼朝と法皇の間で確執が発生し、義経に頼朝討伐の院宣を下す。しかし義経が敗れ、今度は頼朝の抗議と兵糧攻めを受けると、後白河法皇は頼朝に義経追討の院宣を下す。1189年義経が殺されると、頼朝より奥州藤原氏追討の院宣が願いだされるが、これを拒否した。

しかし、頼朝が奥州藤原氏を攻めると、事後承諾の形で奥州藤原氏追討の院宣を下し、後に頼朝は上洛して法皇と和解。ただし、頼朝より願い出された征夷大将軍への就任と九条兼実の関白就任は断固拒否する。そのため頼朝と兼実は法皇の死を待つことで一致し、1192年3月に法皇が66歳で死去すると、頼朝は7月に征夷大将軍を拝命、鎌倉幕府を開いたのである。


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