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867

文覚上人(もんがく)

2004/10/12

鎌倉界隈には文覚上人(遠藤盛遠)(1139〜1203)の足跡が沢山のこされている。江ノ島の弁財天、夷堂補陀洛寺であるが、その鎌倉の屋敷は大御堂橋のたもとにあった。

文覚の出家の原因となった袈裟御前は夫・渡への貞節を貫いた正に貞女の鑑とされていた。菊池寛の「袈裟の良人」を原作とする映画「地獄門」の主人公は袈裟と盛遠でもなく、袈裟の良人の渡辺渡(わたなべのわたる)である。しかし彼は美化されすぎて現実感が薄い。芥川龍之介の小説に「袈裟と盛遠」の主人公二人は屈折した感情をそれぞれの独白の形で生々しく吐露してくれる。 多分、これが真実の姿と思うがこれでは文覚出家の動機としては弱くなるきらいがある。

慈円の「愚管抄」に

「文覚は行はあれど学はなき上人也。あさましく人を罵り、悪口の者にして人にいわれけり。天狗を祭るなどのみ言われけり」

とある。では実際どのような人だったのだろう。

遠藤盛遠の父親は源氏とゆかりのある渡辺党に属する遠藤左近将監盛光(げんもりみつ)で、60才になるのに子がなかった。43才になる妻とともに長谷寺に参籠してさずかったのが盛遠である。両親は盛遠が3才になるまでに亡くなって、盛遠は丹波の国、保津庄の青木入道道善に養育される。13才のとき、遠藤の一門である三郎龍口遠光が烏帽子親となって元服した。遠光の力で上西門院(鳥羽天皇第二皇女)の北面の武士となり、ついで19歳のときに、城南の離宮の守護人に選出された。同僚に渡辺渡という男がいた。

このころ盛遠の姨母(おば)奥州の衣川に嫁いで一人娘を儲けたのち寡婦となって京にもどり、城南の離宮の近くの鳥羽の里に住まっていた。この14才の娘は非常な美人で吾妻と いう名であったが、母の衣川にちなんで袈裟御前とよばれた。袈裟御前をみそめた遠光は袈裟御前の母、衣川殿に人を介して妻にしたいと申し出たが、返事はなかった。数年建った時、盛遠は姨母が娘を渡辺渡に嫁がせてしまったことを知る。盛遠は姨母を責め、すでに嫁いだ袈裟御前にあわせろとせまった。母に呼ばれた袈裟御前に盛遠は「渡辺と別れて おれの妻になれ」と迫る。袈裟は覚悟を決めて「私は夫のある身。私を妻にしたければ、渡を殺してください。そうでなければ、心安らかにあなたの妻になることなどできません。これから家に戻り、渡に酒を飲ませて髪を洗わせ寝かせるので、密かに家に忍び入り、濡れた髪を頼りに渡の首をとってください」と言った。この言葉を信じた盛遠は袈裟との約束どおり、八つの鐘が鳴ると早速、渡辺の屋敷に忍び込み、暗がりの中、濡れた髪を探って首を討ったのである。ところがそれはいとしい袈裟の首であった。 これは西洋のロマンス劇の単純な「ベッドトリック」のアドバンスト・バージョンである。

この事件をきっかけに盛遠は発心し、剃髪して出家を遂げた。袈裟の追善のため、鳥羽の里で3年墓を守り、その後、修行の旅にでる。まず熊野の那智山の塔頭の一つ曼荼羅院に居住して瀧籠りをした。これが縁で彼は弘法大師(空海)にひかれるのである。二十一日の大願をついに遂げ、那智に千日、大峰三度、葛城二度、高野、粉河、金峰山、白山、立山富士山、伊豆、信濃の戸隠、出羽の羽黒、すべて日本国残る所なく、修行して回って、最後に都へもどった。彼は1168年神護寺に参詣するが、八幡大菩薩の神意によって創建され、弘法大師空海ゆかりの地でもあるこの寺が荒れ果てていることを嘆き、再興の勧進を始めた。高雄(現京都市右京区の高雄尾)の奥に住み、後白河法皇のいる法住寺殿に押し入り、大声で勧進帳を読み上げて、法皇の怒りを買うなど、勧進の強引さが目立ち、ついに伊豆に流される。配流先で文覚は、やはり流人である頼朝に出会うことになる。

頼朝は平治元年(1159)12月、父 左馬頭(さまのかまみ)義朝の謀叛によって誅せられるはずであったのを、池禅尼の口ぞえで1160年3月20日、14歳のとき、伊豆の北条、蛭小島(現静岡県田方郡韮山町、狩野川の中洲の湿地帯)へ流されて一族の菩提を弔うため、念仏に明け暮れて20余年の春秋をおくっていた。

文覚は、頼朝の父義朝のものだという髑髏を持って頼朝に会い、頼朝に挙兵を促す。頼朝は「自分は勅勘(天皇のお咎め)をこうむっている身であり、勅勘を許されない限り、謀反を起こすことできない」とその申し出を断る。「ならば、ただちに上京し、法皇からお許しをいただいてこよう」と、文覚は自身も勅勘の身ながら、新都に向かってしまう。頼朝は、文覚のためにまた苦境に追いやられるのではないかと不安で仕方がなかったのだが、文覚は出発してから8日めに再び頼朝のもとに姿を現わした。

「そら、院宣よ」そう言って、文覚は後白河法皇から取り付けた平家打倒の院宣を頼朝に差し出した。この院宣を、頼朝は手を洗い、口をすすぎ身を清め、新しい烏帽子、浄衣を着て、三度拝して慎んで受け、そして、ついに平家打倒に立ち上がることを決意したという。

頼朝が平家打倒に成功し、鎌倉に幕府を開いた後、頼朝の本願として弁財天を江ノ島に勧請(かんじょう)し、之に参籠する事37箇日食を断って祈願を凝らせりという。江ノ島は当時から鎌倉を守る島としての位置づけがされていた。文覚はこの参籠時すでに平泉の奥州藤原氏を仮想敵国として念仏で祈り殺すことをしている。義経が平泉ににげたことも合点がゆく。

神護寺はその後、後白河法皇や頼朝らの援助を得て、寺の再興は進んだ。しかし後鳥羽上皇に疎まれて対馬(隠岐または佐渡とする説もある)に流され、配流先で生涯を終えた。弟子の上覚(上覚房行慈)が神護寺の再興を完遂させた。以上主として相原精次「文覚上人一代記」を参照。

中学・高校同期の遠藤誠之亮氏はデザイナーとなったが、文覚上人の末裔という。ご先祖の遠藤一族の一人が鎌倉北条氏に従って信濃は塩田平の保野(ほや)に居ついて現在に至ったのだという。彼の祖父は保野の村長をしていたという。そういえば塩田平の奥、別所温泉には鎌倉北条氏の外護によって栄えた安楽寺がある。鎌倉時代末期に建立された国宝の八角三重の搭が今も残っている。

Rev. February 19, 2009


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