鎌倉五名水

鎌倉には昔から鎌倉五山鎌倉七口鎌倉十井鎌倉十橋、鎌倉五名水のように名数で数えた史跡が伝えられている。これらの名数は、鎌倉が江戸時代に観光地として繁栄した頃に称えられたといわれている。

銭洗水 銭洗弁天に涌く水
日蓮乞水(にちれんのこいみず) 安国論寺前の古道を横須賀線方面に進み、名越踏切を渡って線路沿いに更に進むと右側に井戸がある。この井戸が鎌倉五名水の一つの日蓮乞水である。日蓮乞水、日蓮水と呼ばれる。日蓮が1253年、鎌倉に入られた時、水を求められると、ここから水が湧き出し、以後日照りの時も水がこんこんと流れ出たといわれる。鎌倉十井の銚子ノ井に近い。
不老水   建長寺の境内にある鎌倉学園の運動グランド場の裏に、不老水があつたと言われているが詳細な場所は不明。
金龍水(きんりゅうすい)   建長寺境内にあったようだが今はない。建長寺の宝物風入(ほうもつかぜいれ)の際に、建長寺境内の古い絵図がみつかり。井戸を探すと見ますと、外門の付近に井戸のマークがあるのを発見した。新編鎌倉志に書いてあるように、外門の側に井戸があったので金龍水には間違いないようだ。
梶原太刀洗水(かじわらたちあらいみず) 鎌倉側から朝比奈切通へ通じる旧道に入り太刀洗川に沿って旧道を500mほど進むと右に十二所果樹園、左に切通に分かれる道があり、そこに小滝と朝比奈切通と書いた石碑が建っている。その分岐点左手前に岩盤から染み出た水を竹筒で集めて太刀洗川に落としている。小さな角石があるだけで標識はない。1183年12月、梶原景時が上総介広常(かずさのすけひろつね)を朝比奈峠近くの広常の屋敷で双六遊びをして喧嘩を売り討ち殺したその刀を洗ったとされる。頼朝が広常を疑い、景時に討つことを命じたのである。嫡男能常は自害し、上総氏は所領を没収された。この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に千葉常胤(つねたね)預かりとなっていた一族を赦免し、一部所領を返還した。

鎌倉の地図

January 21, 2008

Rev. April 27, 2008


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