天下茶屋のおっちゃん(脊髄梗塞)

(脊髄梗塞「前脊髄動脈症候群、後脊髄動脈症候群」)
 

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脊髄梗塞第二章

2001/05/15から  人目のお客様です。

平成5年9月9日、期待を胸いっぱいに、この病院に転院してきました。西日本一、いや東洋一と言われるこの病院に来たのだから、私は本当に嬉しかった!まだ装具も、バル−ンもぶら下げてはいるけれど、ここで頑張れば、元の体に戻れるのではないか?そんな事を頭に描いていました。しかしこの病院はどうしてこんなに子供の患者が沢山いるのでしょ。四階の、半分が子供病棟です。少し時間が有ったので病院の中を見て回り、約束の入院の時間になったので、一階のロビ−で家内と二人で待つことにしました。今度病院がとうくなったので、毎日きてもらうの大変やろうけど頼むわな!雅隆に、近道が有るのかよくきかなあかんわ、私らも頑張るからお父さんも頑張って歩けるようになってな!。

岡田さんですか?といって二人の看護婦さんが迎えにきてくれました。婦長さんと私担当の看護婦さんです。それでは今から二階に上がって病室の案内と、これからの入院生活の説明が担当の看護婦からありますので指示に従ってください。まず病室に案内されました。八人部屋です。でも部屋の真中が通路です。左右に分かれています。そして左と右の真中に仕切りの壁が有りこの壁は天井までは着いていません。だから部屋は明るいです。壁を背にしてベットは二人ずつの向かい合わせです。ベットとベットの間は車椅子が入れるように広く取って有ります。すがにリハビリ専門病院です。

(1)消灯九時、起床六時
(2)寝巻きと、昼に着るものは別にする(リハビリの為)
(3)食事は原則として、全員食堂でする。(座席も決まっている)
(4)間食は絶対駄目です。
(5)昼間ベットの上で寝ないこと。(自主トレをする事)
(6)リハビリの時間には必ず家族が付き添うこと。

入院して1週間もたつ頃にやっと、私の受け持ちの先生が決まりました。依近ですよろしく、私が担当することになりました。(22歳ぐらい)若くて綺麗な女性の先生です。今までのいきさつとか病状など沢山質問されました。いよいよリハビリが始まるかと内心喜んでいました。しかし後一週間は内科の先生などとの打ち合わせが必要ですので、先生がノ−トに人体図で、このようにして自主トレをするように、メニュ−を書いてくれました。これくらいのことは今までにもやってきたしなんの辛さもなかった。

痛む足、オシッコはバル−ンで繋がれている、大のほうは家内が病院にきてくれるのを待って、二人で小さなトイレに入って、ほじり出してもらう、色気のない話です。これもみな病気のせいだからと割り切るしかない。曲がらない足を曲げたり伸びない足首を伸ばしたり、それは痛いです。私は若い時から運動部に所属していましたので、ハ−ドなトレニングとかある程度のしごきは必要だと思っています。そうでなければ人の上など行けないと思うからです。病気も同じでしょ、病気と言うあの高い高いハ−ドルをクリヤする為に!どんなに辛いリハビリが有ろうがトレ−ニングがあろうが私には耐える覚悟は出来ています。

それをする為にこの病院に来たのですから。この病院に入院してから、1日たりとも自主トレは欠かした事はない「自彊日新」こんな言葉が私の頭のどこかにいつも有ります。そうでなければ、寝るまもなく病院に来て私の世話をしている家内や、店を守っている息子夫婦に申し訳がない。早く自分の体を元通りにして帰らなければならない。そんな事を考え出すと眠れない夜も有る!だから目がさめると、これでもかこれでもか!自分の体を追い込んで、これくらいのことでへこたれる体じゃないんだと言い聞かし、スポ−ツジムに通っていた時は75キロのバ−ベル背負って、10回も屈伸したではないか!今レンガ一枚の高さを支えがなければ踏み切れない。私に残された道は、トレ−ニングしかないのです。

今日は前の病院で隣のベットにいた小村さんが訪ねてくれました。この病院では先輩です。色々とこの病院のこと日常生活のことを教えていただき本当に助かります。この病院は脳梗塞の患者さんが多いようです。だから、左右どちらかの片麻痺の方とか、言語の不自由な方、私の様な下半身不随という患者はあまり見受けません。朝食の前に屋上に行こうというので小村さんについていきました。たくさんの患者さんがいて、日向ぼっこをする人、自主トレをする人、お互いの病気を話し合う人、そして小学一年生のように、胸に自分の名前、住所、奥さんの名前、子供さんの名前を付けた方が居ました。あの方はどうされたんですか?と小村さんに尋ねると、外出許可が出たので、自分のお家に帰る練習をしているのだそうです。

記憶がない上に言語が出来ないとのことで、みんなが励ますつもりなのでしょうが、**さん奥さんの名前はと訪ねると、何とも言えない笑い顔で胸の奥さんの名前を指さすのです。皆さん拍手をしてたけれど、私には悲しい物がありました。私とて、歩くと言うより、両方の足を引きずっているのです。オチンチンからバル−ンをぶら下げて、両方の足には装具をつけて、人様に見せられる格好ではありません。しかし私にはリハビリをすれば遙か彼方ではあるが何か光が見えるような気がします。言語を失った方は非常に難しいと聞きます。この屋上から見る限り、大阪の空は穏やかで、平和そのものです。見渡せば、大阪城、ツイ−ンビル、讀賣テレビ、りんとして立ち並んでいます。早く先生に着いてリハビリがしたいものです。

岡田さ〜ん、今日からリハビリをはじめますので一階に降りてください。看護婦さんの声、嬉しかったです!下の階に降りていくと、依近先生が待っていました。「よろしくお願いします」「今日から頑張りましょうね」笑顔で迎えてくれました。「今日は初めてなので一度歩いてみてください」というわれ装具をつけて杖を持って病院の外に出ました。「はいそれではどんな歩き方でもいいのでこの病院を一周しましょう私後からついていきますので」個人病院ですからそんなに大きなものではありません。とはいうものの手摺のついた、病院の中の廊下を歩くのとはわけが違います。かまぼこ型になったこの道路、歩きにくいですね!注意して足を上げてるはずなのに、足の裏が地面に当たってつんのめりよろけます。先生があわてて腰のあたりを抱きかかえて、「岡田さん外はまだ無理なようですから病院に戻りましょ」「先生もう少し歩かせて下さい」先生小柄なもので私の体を支えるのが大変です。

小学校の運動場にも満たない距離がこんなに遠いとは、前を見るでなく下を向いて、足元ばかりを気にしながら、震える足を引きずって、病院の玄関にたどり着いたのは、リハビリの40分をほとんど費やしていました。「今日はこれで終わります、明日から頑張りましょう」「有難うございます」病室に帰ってきたのですが、頭の中がもやもやして、すっきりしないのです。あれだけ注意して足を上げてるのにどうしてつんのめるのやろ?元気なころは、どないして、あるいとったんかいな?足を前に出すというのはど言うことなんやろ?かまぼこ型の道路、あれは恐いな!なんでやろ?こんなこと考えたこともなかったな!くよくよしてもしょうがない、お昼御飯食べたら自主トレ頑張るしかないな。「岡田さん明日午前中に泌尿器科のほうで検査がありますのでそのときは連絡します」という担当の看護婦さんの声で我に返りました。「よろしくお願いします」

 

この病院に来てからやっと、リハビリがスタートしました。小学校の講堂ぐらいのスペースです。
そこに、横3メートル、縦5メートル、高さ40センチ、ぐらいのマッサージ台のようなものが、何台も置いてあります。患者は、その日の朝に、ナースステーション横に張り出される時間割を見て、自分の時間にそこに座って先生の来るのを待ちます。リハビリの時間は40分です。
ほとんどの患者さんは、片麻痺です。私はこのリハビリ専門病院にものすごい期待をしていました。リハビリには、いくつかの**法、//法、と言うのがあるそうです。

この病院院はイギリスのある博士が考案された方法で、その博士の名前が病院の名前であり、この病院が実践しているリハビリ法と言うわけです。すなわち、体のつくりがどうだとか、筋肉や、関節がこうでなければならないとか?理論が先なんです。リハビリは発病してから6ヶ月が勝負とよく言われます。

私がここにきたのは、発病してから5ヶ月目です。前の病院が4ヶ月、リハビリの出来たのはあとの2ヶ月です。1週間のうち4日間、1日15分です。その時は、理論とか方法論でなく、がむしゃらです。しかしここでは、先生は、台の上に座った私の足をひざの上に乗せて、たたいたり、もんだりします。立たせたり、歩かせたりはぜんぜんさせてくれません。あれ? これでいいのかな?

これもリハビリなのかな?体育会系の私には何か物足りないものを感じます。もっと鍛えて鍛え、自分の体をいじめぬくことを想像してました。でもこれがこの病院のリハビリ法なのだからしばらく頑張ってみよ! 岡田さ〜ん、泌尿器の検査ですので、一階の検査室まで来てください〜。ベット脇のスピーカーから聞こえてきます。ハーイ、すぐにおりま〜す。検査室に入ると、大きな機会の横に、ベットのような台があります。

「岡田さんそこに仰向けに寝てください」と言われるとおりに寝ました。これが間違い!泌尿器の検査だから、台に上がる前に、パンツを下ろしてのりゃいいものを年がえもなく恥ずかしいので、そのまま載ったのです。「岡田さん、ちょっとお尻持ち上げて」と言われても、お尻持ち上げる力がないんです。「そしたら横向いてくれはる」上半身だけで横向くの大変なんです。看護婦さん、丸太でも転がすように、右によ〜いしょ、左によ〜いしょ、半分づつやっとパンツ下ろしました。「上がる前におろして置けばよかったね」<看護婦さん。

腕に点滴をして、検査が始まりました。台が、シーソーのように動くのです。なんかねむたーくなってきます。「はい次」と先生、看護婦さん、カテーテルを持ってきて、おちんちんを覗き込んで、尿道に差し込んでいます。「ちょっと我慢してね、あらら、岡田さん、お口をあけて力抜いてくださいね」私のおちんちんは人様より入りにくいようです。どの看護婦さんがやっても、皆さん首を傾げます。
*お詫び。
ここから先え進む事ができなかった事をお詫びいたします。どのようにお話したらよいものか大変悩みました。それがひょんな所で気が付きました。先日松山千春の「SAGA」という本を読んで、そうなんや、自分の感じた事をお話したらいいんだと言うことが!私の感じた事がすべてではないんです。私と正反対の感じ方をされた患者さんがほとんどだと思います。この病院に対する期待が大変私の気持ちの中にありました。この後そのような場面が出てきます。それはあくまでも私が感じた事ですので特別病院を批判するという事ではありません。大変ご迷惑をおかけしました。

検査がすんで翌週の回診が始まりました。担当の看護婦さんを従えて、分厚いカルテを持って来てくれました。「岡田さん検査の結果ですが、はっきり言います。オシッコと大便は自力では出来ないと思います。したがってバルーンをいつまでも着けているわけにはいきませんので、看護婦さんにその都度採尿させます。そして一日一回膀胱洗浄します。下剤は何種類かありますので、試してみて自分に会うものを選んでください。看護婦さんとよく相談してわからない事はよく聞いてください。」といって先生は帰って行きました。

覚悟はしてましたが、なんか複雑です。そんな私を見て「なんでやろな〜私なんか便器またいだらシャーやで!」向こうのベットから「看護婦さんノーパンかいな?」「あっほーパンツは下ろすがな、ま岡田さん頑張ろう」笑わせながら後ろ手でバイバイとナースステーションに帰って行きました。

リハはやっぱりいつもと変わりません。こんなんでいつになったらまともに歩けるようになるのかな?なんか自分で考えなあかんな?もっともっと激しいリハを期待してたのに、!
しかし一つの区切りが有りました。バルーンを今日からはずすと言う事、前の病院から毎日続けてきた、バルーンの途中をクラップして何かを感じたら解放する。おしっこの量、感覚の有りか無しか、時間の間隔などを細かくノートに書き取る作業はなくなります。(自分勝手にやっていた事)これが良い事なのか悪いのか? 一歩前に進んだ事は間違いないことです。でもね!またベットの上で看護婦さんにおしっこ取ってもらわなあかん。「ハーイ岡田さんおしっこ取るよ、上向いて寝てください」そら豆の化けもんのような洗面器の中にカテーテルとピンセットを入れて、手には薄い手袋をはめて、なんか手術でもするように、これから毎日5〜8回いやですな!(>_<)
でもバルーンの袋を前にぶら下げていないぶんリハはやりやすいと思います。

 

少し身軽になったから、今日から夕食が終わり次第、屋上で自主トレをはじめようと思います。屋上に上がってみました。何から始めようか?金網のフェンスにもたれて、夜空を見上げていると外国で楽しい時間を過ごして帰ってくる人、外国から日本での楽しい時間を求めてやってくる人、伊丹空港に着陸する飛行機は必ずこの病院の屋上の上を通過します。それこそ顔が確認できるような距離です。(この頃はまだ関西空港は開港していません)右の方から左に旋回しある地点から、私に向かってライトを照らし襲い掛かってくるようです。「こんな足では逃げられへんから、勘弁してください」解っているよと言わんばかりに、私の頭上をあの重低音の音を残して去っていきます。よーし今日はフェンスにつかまって、コンクリートの部分まで足を上げるトレをやろう!(高さ15センチぐらい)足を上げるというより、フェンスにつかまって腕で引き上げてると言った方が早いようだがこれもしかたがない。いつの日か手を使わずに足が上がる日まで! やるぞ〜〜。

病人が、入院中思う事は、早く回復して、我が家に帰りたいと言う事だと思います。私の隣の、**さんが、退院の日が決まったと言うのに、元気がないのです。奥さんは退院後の、おうちの改造など先生方と毎日打ち合わせをしていました。今日もこれから大工さんとの打ち合わせがあるといって帰られました。「岡田さん」「ハーイどうしました**さん」(彼は脳梗塞で車椅子、私より10歳ぐらい年上です)「私家に帰りたくないんです」「あら”どうして?」よーく聞いてみると、彼は青春時代を軍隊で過ごし、敗戦と同時に帰ってきたそうです。そして仕事もないのでぶらぶらしていた時、結婚の話が持ちあだったのだそうです。彼女は15歳ぐらい年下で一人娘です。つまりご養子さんということです。皆から仕事もないし、いい話だと進められ結婚したそうです。彼女は一人娘で我がままだったと振り返っていました。

そして此の頃退院が決まってからは、身障者用のトイレに入った時とか人目につかない所で、つねったり”けったり”するので、家に帰るのが怖いと言うのです。これを聞いて、私は幸せものだと思いました。こんな事は考えもつかない事です。どこのお家でも、お父さんが退院すると言えば、喜んでくれるものとばかり思っていました。私の認識不足でした。家族構成が崩れつつある日本で、これがあたりまえに成るのでしょうか?お婆捨て山の復活。あ~~怖い。人事ではない。「はーい自主トレの時間ですよ。車椅子の方も皆廊下に出てくださーい」この病院は、午前中とお昼から、一度ずつ15分間看護婦さんの監視下において、動かせる所、動きにくいところをそれぞれが工夫して自主トレをします。OT、PT、とは違います。

今日は、頼近先生、初めて立たせてくれました。「岡田さん、私の肩に両方の手をついて、膝を曲げないで、上体を私のほうに倒してください。足首がどのくらいの角度まで倒せますか?ハーイもっともっと倒してください。」「先生これ以上倒れませんわ」「そーね、90度より前に倒れませんね」そこで先生、ラップの芯を持ってきて、足のつま先の方に入れようとしますが、なかなか入りません。「岡田さん、つま先上げて!」「先生、つま先自分では上がりません。」「あ”そうか、私が入れるから、倒れないように、しっかり私につかまっといてな!」先生、1メータ50有るか無しの小柄です。うつむかれたら、つかみ所が無いのです。

なかなかうまくいきません。装具をはずしてのリハビリです。足の踏ん張りがききません。そのまま先生に覆い被さる始末です。そこでやっと自分の足は、90度より前には倒せない事と、足を持ち上げた時に、足首がだらりと下がるのだと言う事が解りました。そして下がった足首を持ち上げる事も出来ないのです。装具をつけている時は、足首のだらりと下がるのをカバーしてくれるので、何とか杖を持てば歩けるのです。40分のリハも終わり、病室に帰り着替えをしながら考えました。

45度ぐらいの踏み台を作り、その上に乗り廊下の手すりを持って膝と足首の自主トレをすればいいのではないかと思う。そこで家内が、リハも終り帰ると言うので、「雅隆に英子のお父さんに頼んで、45度ぐらいの傾斜の付いた踏み台を作ってもらうように頼んどいてくれへんか?」(嫁のお父さんは鉄工所勤務です)「そんなの私では解らないので、電話するように言うときます」「ハイハイわかったよ」早く帰って睡眠をとってもらわないと、夜、店を開けられないと思い、くどくどとは言わなかった。もう昼食の時間です。食堂にご飯を食べにいった帰り、同室の池やんが車椅子を急いでこぎながら私に近づいてきました。

(彼は脳梗塞で、片麻痺、言語が出来ません。)私に目でウインクするような顔をします。「池やんどないしたん」彼は、片方の手で、ご飯を食べるしぐさをします。「うんうん!今ご飯食べたでしょう」首を左右に振りながら、手を下に下に持っていきます。「どないしたん、池やん」すると今度は、食堂を指差して、手を上の方に持っていきます。続けて、ご飯を食べるしぐさをして、手を下に持っていきます。私もしばらく考えました。彼の言わんとしている事がようやくわかりました。晩御飯が終わったら屋上にいっていいかと言っているのです。私が晩御飯が終わると屋上に行ってリハをしている事を彼は知っていたのです。「いいよ池やん」彼はこんな(*^-^*)をして首を縦に何回も振っていました。

 

晩御飯が終わると彼は早速やってきました。親指を立てて、↑え↑えの仕草をします。「もう池やん行くの」首を縦に振り笑っています。「池やんエレベーターで来て、私は階段で上がるから」そお言うと、彼はエレベーターの方に車椅子を操りながら急いでいきました。
私のほうが早く着きました。屋上には、鉄パイプで出来たバスケットボールのゴールが一騎隅の方に於いてあります。それにつかまって足の膝を少しずつ曲げるリハをしていました。(スクワットには程遠い)池やんがやって来ました。そして私のまねをやろうとしています。

「池やんそれは少し無理と違うかなと思うな!池やんは言語の方からやった方がいいのと違うかな?」池やんは口を指差してo(*≧□≦)o ダメ~!!駄目のしぐさをします。私も言語の回復は厳しいと聞いていましたが、何とかならへんかな!と思っていました。「池やん子供の時の歌覚えているか?」と言うと指ですこしと言うので、そしたら、赤とんぼ、歌おうか?と言うと首を縦に振りました。

私は鉄パイプにつかまって♪夕焼け小焼けえの赤とんぼ〜〜〜歌うと彼は金網につかまりながら、声は出ないが頭で調子を取っています。「池やんこえぜんぜんでへんの」彼は自分の口の中を指差して、手を左右に振ります。「そしたら頭の中でうた歌いながら、「あ〜でも」「う〜でも」出す稽古しようよ!」と言うと頭で調子は取っているのですが、ぜんぜん声が出ていません。

「池やん少しでもいいから声だすけいこせなあかんよ!」池やんはうん”うん”とうなずいています。8時半になり「池やんもう消灯の時間やから降りようか」といってこんどは、2人してエレベーターで降りる事にしました。其の中で池やん手振りで、明日もきていいか?と言うので、疲れて無かったら毎日でもいいよ。そしたら池やん何ともいえない嬉しそうな(*^-^*)をしました。「池やんそんなに楽しかったの」何回も首を立てに振りニコニコしていました。

この前から頼んでおいた(嫁のお父さんに)45度に傾斜を付けた足踏み台を息子が持って来てくれました。 それを廊下に持って出て、手摺につかまりながら台の上に乗り膝を少し曲げてみました。やはり足首は、90度より前には曲がりません。でも気長にやるしかないです。同室の人たちも珍しそうに見ています。「それはいいもの作りましたな!」後で良いから俺にも貸してくれとさえ言う人もいました。「よかったら使ってください」この病院では自分で工夫してやらなければあまり運動療法はさせてくれません。脊髄梗塞の患者が少ないこともあります。

グループのリハと言う時間があります。これは最低です。6人でむかえ合って台に座り、風船バレーをします。私は、中学高校とバレーボールの選手でした。下半身は動きませんが上半身と両手は動くのです。こんなことしていて良いのかな?時間がもったいない!もっと下半身を鍛えるリハがしたい。階段を登ったり降りたり、無理だからやらせないより、無理をやらせていただいた方が患者として有難いのですが?この辺が病院の立場、患者の立場、患者は無理をしてでも回復したい!病院は無理をさせて怪我でもさせては大変!私が勝手に傾斜台など持ち出してハードな事をすると岡田さん無理なことはo(*≧□≦)o ダメ〜!!ですと必ず言われます。

岡田さん今日はこの生徒さんに採尿してもらいますのでよろしくお願いします。「初めてなのでよろしくお願いします」ピンクの看護服です。「ハイどうぞやってください」ベットに横になり自分でジャジのズボンを下ろしました。生徒さんは大変緊張している様子です。「遠慮せんとやって下さいね」手袋をしてピンセットでカテーテルを挟んだその手が震えています。先輩の看護婦さんが横で見ていますので大変です。左手でおちんちを摘み、右手のピンセットで挟んだカテーテルがなかなか尿道に入りません。

「もう少し上の方を挟まないと抜けてしまうでしょ」「はい」そーなんです、生徒さん尿道に入れようとあせるから、5ミリぐらいのところを挟んでいるから挟み換えるときに抜けてしまうのです。「「したから2センチぐらいのところを挟みなさい」「はい、、痛かったら御免なさいね」私は人様より、カテーテルが挿入しにくいのです。「痛くないので頑張って思い切ってやってください」「はい、すみません」何とか挿入できました。「全部採尿できたら、今度は膀胱ない洗滌をしましょう」「この洗滌液全部入れていいですか?」「はい、全部入れてください」かなりの時間を費やしてようやく終わりました。

このころになると、自分のリハが思ったように、はかどらないので、イライラして来ました。夜お布団に入ると、こんな事していていいのかな?大阪いや東洋一と聞いてきたのに?これで本当に歩いて帰れるのか?なかなか寝付かれない夜が続いています。でも早く寝て明日又頑張ろう!と思うのですが、このごろ毎晩消灯が過ぎても深夜ラジオを聞く同室者が二人います。もちろん、イヤホーンで聞いているのですが、静かな病院の夜には大変よく聞こえます。

早く寝たいな!と思えば思うほど聞こえてきます。深夜12時ごろになると看護婦さんが、見回りに来ます。コツコツコツ私たちの病室に近づいてきます。ラジオの音が止まります。皆の寝相など確かめて、病室から出て行きます。コツコツコツ〜〜足音はだんだん遠くなると、ラジオの音が聞こえてきます。このお二人は、お昼でもあまり自主トレはやっていません。あきらめてしまったのだろうか?家族は一日でも長く病院にいてくださいと言った感じです。

今日、私とむかえ合わせのベットに、新しい患者さんが入りました。脳梗塞のようです。病気のせいなのか?なんか落ち着きがありません。消灯時間が過ぎて、しばらくすると必ずベットの上で紙袋に何かを出し入れが始まります。環境が変わったせいだろうと思いますが、毎日です。私のほうも思うようにリハが進まないイライラと、消灯時間が過ぎても、ラジオを聴く同室者、このような環境についに我慢が出来なくなりました。夜中の12時ごろ屋上に上がりリハをはじめました。ただ悲しくて涙がとめどなく出ます。こんなはずじゃなかった!今後自分はどうするべきなのか?岡田さん、やっぱりここなのね!どうしたの?眠れないの?看護婦さんが探しに来てくれました。

 

37歳ぐらい ??独身だと思います。この病院で一番患者のことを考えてくださる看護婦さんだと思います。だから甘えが出てしまったのか!看護婦さん、私はこの病院に本当に期待と夢を持ってきました。この病院に来たからには、ほとんどもとの体に近い体力にまで回復できると信じていました。それにはどのようなきついリハとか訓練も覚悟していました。でも?リハが始まるにつけ、これは何なんだろう?無理のないように、ただ生かされている、ホスピタルの様なもんなんです。これでは!・・・・看護婦さんは無言でした。

その日はちょうど月夜で、看護婦さんの厳しい顔がうかがい知れました。でも私は続けました。もっとハードなリハを期待していたんです。平行棒とか、階段とか、でも毎日のリハはマッサージセンターのようなんです。足をさすったり、たたいたり、こんな事していては私は不安でたまりません。大阪一、東洋一を期待してきたんです。


それから看護婦さん、知らないと思いますが!夜中にラジオを聴く人、夜中になると紙袋から何かを出し入れする人、睡眠を沢山取り明日も自主トレ頑張ろうと思っている人には大変困ります。そんな事があるの!それは私たち看護婦の認識不足でした。申し送りのときに皆に徹底していただくようにお話します。でも岡田さん、この病院のリハビリ法とかシステムについては私一看護婦の立場でお話しすることは出来ません。

そうでしょうね、そしたら私を元の病院に返してください。あの病院から推薦されてきたのですから!それは婦長さんに直接お話になってください。今夜は遅いので病室に帰ってお休みしましょう。いや眠れないのでここでリハを続けます。駄目ですよ、岡田さん、それでは婦長さんに、電話しますので直接お話してください。

夜中に婦長さんを起こし、同じような事を繰り返しお話しましたが元の病院に帰ると言う事は出来ないと言われ、このあと大変な事になる事も知らず!退院させてください!と言ってしまいました。
 

 

 

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