本名=阿波野敏雄(あわの・としお)
明治32年2月10日—平成4年12月22日
享年93歳(アシジの聖フランシスコ)❖青畝忌
兵庫県西宮市奥畑7–115 満池谷墓地・カトリック墓地
奈良県高市郡高取町上子島813 長円寺(曹洞宗)
俳人。奈良県生。旧県立畝傍中学校(現・畝傍高等学校)卒。大正6年高浜虚子に師事。昭和4年俳誌『かつらぎ』を創刊主宰し、『ホトトギス』同人となる。水原秋櫻子、山口誓子、高野素十とともに四Sと称され、昭和俳句牽引役の一人となった。句集に『万両』『花下微笑』『国原』『春の鳶』『紅葉の賀』『甲子園』『除夜』など、俳論集に『俳句のこころ』がある。
満池谷墓地・カトリック墓地の墓
奈良県・長円寺の墓
虫の灯に読み昂りぬ耳しひ児
流灯の帯のくづれて海に乗る
葛城の山懐に寝釈迦かな
老人の跣の指のまばらかな
端居して濁世なかなかおもしろや
病葉の一つの音の前後かな
枯るるもの枯るるならひに石蕗枯るる
一章の聖句を附して日記果つ
この鏡すこし傾げば月満ちぬ
もう出たか一九九三の初日記
小学校入学の頃からの耳疾は難聴を伴い、中学校卒業後の進学を諦めざるを得なかった青畝。中学時代から師事してきた高浜虚子の教えをしっかりと踏みしめて、いわゆる四Sの一人として俳句の黄金期をも担い、〈聾青畝独り離れて花下に笑む〉 〈少し老い尚花下に笑む聾青畝〉と、師が詠んでくれた句を終生胸に抱いて邁進してきた。秋櫻子、高野素十もすでに去った。平成2年『かつらぎ』の主宰を森田峠に譲り、4年10月、香川県観音寺雅の郷に建った71番目の句碑除幕に出席したのが最後の旅になってしまった。11月25日、検査のため尼崎市の田中病院に入院。12月22日午後零時28分、心不全のため〈すべてを神にゆだねて〉安らかな眠りについた。
〈葛城の山懐に寝釈迦かな〉と、みほとけの寝姿をもって故郷大和への愛おしさを詠んだ青畝は、同じ愛の心で48歳の時にカトリックに入信した。〈天が下十一月の十字墓地〉という句はどこの墓地で詠まれたものであるかは知らないのだが、野坂昭如の『火垂るの墓』で有名になった西宮・満池谷墓地の高台にあるカトリック墓地に11月の風は思いの外温かく流れていた。「夙川カトリック教会墓」の裏筋にある十字を記した「阿波野家之墓」、やわらかな子砂利の庭に少しばかりの苔が生し、霊表に「アシジの聖フランシスコ 敏雄(青畝)」と並んで、翌年2月に亡くなった三番目の妻「モニカ トイ」の名が刻まれてあった。聴覚を失いながらも研ぎ澄まされた感性で〈愛〉の重さを詠った俳人の〈救い〉の姿がそこにあった。
|