芥川龍之介 あくたがわ・りゅうのすけ(1892—1927)                


 

本名=芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)
明治25年3月1日—昭和2年7月24日 
享年35歳(懿文院龍介日崇居士)❖河童忌 
東京都豊島区巣鴨5丁目35–33 慈眼寺(日蓮宗)



小説家。東京府生。東京帝国大学卒。大正3年大学在学中に菊池寛らと第三次「新思潮」を刊行。翌年『羅生門』を発表。『鼻』が認められ夏目漱石門下となる。鎌倉に住み『地獄変』『枯野抄』等を発表。帰京後の作品に『或阿呆の一生』『河童』『侏儒の言葉』『西方の人』などがある。






 

 彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んで行った。雨はかなり烈しかった。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼らの同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線は相変らず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、─凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。

(或阿呆の一生)

 


 

 辿り辿れば、逃れようもなく芥川の死は予定されていたようであった。生後7か月で母フクが発狂、生涯の苦悩の芽がはじまった。伯父芥川道章にひきとられ、母の姉フキの手で育てられるが、〈僕はどう云ふ良心も、─芸術的良心さへ持つてゐない。が、神経は持ち合せてゐる。〉という神経と、草の茎にも似た病弱な身体と、入りくんだ複雑な人間関係を持って生きてきた龍之介。〈将来に対する、唯ぼんやりした不安〉のため昭和2年7月24日未明、斎藤茂吉からもらっていたという睡眠薬を飲み、軒の雨音を聞きながら『旧新約聖書』を枕頭に開いて眠りについた。神経の作家龍之介は、わずか10年に過ぎない文学的生涯を「自殺」という星の下に送り、送られて逝ったのだった。



 

 参り道の葉桜が賑わしい染井霊園の北端、緩やかな短い坂道を下った先の左手に正寿山慈眼寺がある。江戸の絵師で蘭学者の司馬江漢や忠臣蔵の芝居で名を知られた高家吉良家家老、小林平八郎の墓があるその墓地には、一時期、龍之介の論争相手であった谷崎潤一郎の分骨墓もある谷崎家の墓域があった。
 墓々の路地を西に進み、まもなく左に曲がると、左手に芥川家之墓に並んで龍之介の名前を浮き彫りにされた緑陰の深い墓碑があった。龍之介が愛用していた座蒲団の寸法や形を模して、上部がわずかな丸みを帯びた立方体の石碑の前にシキミが二本、台石には線香のかわりに供えられた煙草が燃え尽きていた。
 〈人生は一行のボオドレエルにも若かない〉 。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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