鮎川信夫 あゆかわ・のぶお(1920—1986)    


 

本名=上村隆一(かみむら・りゅういち)
大正9年8月23日—昭和61年10月17日 
享年66歳 
東京都港区元麻布1丁目6–21 善福寺(浄土真宗)



詩人。東京府生。早稲田大学中退。昭和12年ごろから詩誌『LUNA』『新領土』に参加。22年田村隆一らと詩誌「荒地」を、26年『荒地詩集』を創刊、戦後の中心的詩人とされる。晩年は評論家として活躍した。『鮎川信夫著作集』『鮎川信夫詩集』などがある。








あのとき
きみのいう断念の意昧を
うかつに
もぼくはとりちがえていた
生きるのを断念するのは
たやすいことだときみが言ったとき
ぼくはぼんやりしていた
断念とは
馬と蹄鉄の関係だ
と教えられても
レトリックがうまいなと思っただけで
蹄鉄が馬を終るとは
どういうことか
ついに深く考えずじまいであった
酒杯をかたむける
そのかたむけかたにも
罪びとのやさしさがあって
それがきみの作法だった
ぼくはうっとりと
自然にたいして有罪でない人間はいない
というきみの議論にききほれたものだ
きみにとって詩は
残された唯一の道だった
いつかみずからも
美しい風景になりたいという
ひたすらなねがいで
許されるかぎりどこまでも
追いもとめなければならない
断念の最後の対象だった
そしてきみが
詩を終ったと感じたのは
やわらかい手のひらで
光りのつぶをひろうように
北條や足利の美しい光景をすくってみせたときだろう
ぞっとするような詩を書き終えることで
断念の意味は果されたのだ
苦しんでまで詩を書こうとは思わない
きみにとって
もはや暁紅をかいまみるまでもなかった
死はやすらかな眠りであったろう
ぼくはきみに倣って
「きみが詩を」ではなく
詩がきみを
こんなにも早く終えたことを悲し

(死がきみを)石原吉郎の霊に

 


 

 昭和17年、早稲田大学を中退して兵役に就いた。同年5月にスマトラ島へ赴いたのだが、結核や伝染病などの発病のため、19年春に傷病兵として帰国、福井の傷痍軍人療養所での療養生活を余儀なくされた。戦後は荒廃した日本の現状を打破するように田村隆一、黒田三郎らとともに詩誌『荒地』を復刊し、そこから雄々しくも新しい人間の叫び声をあげて、戦後詩壇をリードしてきた。
 昭和61年10月17日午後8時過ぎ、連絡先にしていた東京世田谷の甥上村研宅で、家族と一緒にコンピューターゲームで遊んでいた最中に脳出血に倒れる。三鷹の杏林大学医学部附属病院に運ばれたのだが、午後10時40分に還らぬ人となった。



 

 安政6年にアメリカ合衆国公使館とされた麻布山善福寺、樹齢750年以上と推定される天然記念物の大公孫樹が仁王立ちをしている。向かい合うように開山堂があり、その前には福沢諭吉の墓がある。山内墓地は都心にしては起伏に富んでかなり広いのだが、お堂裏の細い段をのぼり切った額のような場所にも墓石が並んでいる。墓山の上段あたり、僕の愛した詩人、石原吉郎に『死がきみを』を捧げてくれた詩人「鮎川信夫之墓」。台石のまえにはマリーゴールドと小菊と野バラと虫食いのほおずきが雑草と見紛うように生えている。もしそこに彼岸花が一輪咲いていれば僕は二人の詩人に涙を流しただろう。——〈Mよ、地下に眠るMよ、きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。〉

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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