安倍能成 あべ・よししげ(1883—1966)            


 

本名=安倍能成(あべ・よししげ)
明治16年12月23日—昭和41年6月7日 
享年82歳(慈仙院学堂能成居士)
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)



哲学者・教育者。愛媛県生。東京帝国大学卒。夏目漱石門下。大正9年法政大学教授。昭和15年旧制第一高等学校校長、21年文部大臣、次いで東京帝室博物館(現・国立博物館)館長、学習院院長となる。教育者、哲学者、エッセイストとして知られる。『岩波茂雄伝』『戦後の自叙伝』『我が生ひ立ち』などがある。






 

 かかる自己を以て人生に臨み、現実に接する。果してどれだけ人生に触れ得るであらうか。多くの外的経験を重ねることが、人生に触れることならば、詐欺師や泥棒は最も多く人生に触れて居なければならぬ。我等がしみじみと深く人生に触れると感ずることが出来るのは、我等が清新な心待を以て人生に臨む時ではないか。ただ現実に触れるといふことは、決して人生に触れ人生を深く経験する所以ではない。我等が人生に触れたいといふのは、むしろ人生に触れざることを示して居るのではないか。徹底せよといふのはむしろ徹底せざるを証するものではないか。充実したいといふのは、決して充実して居ることと同じではない。真面目になりたいといふのは、又真面目になることの難きをあらはして居るのではないか。我等は人生に触れない、せめて触れたいと思ふ意識でもつて、人生との触接を続けようとする。我等は充実して居ない、せめて充実したいと思ふ心で以て、充実したいとする。真面目でない、せめて自己の不真面目の苦き意識にも真面目を保ちたい。若々しき新なる心を失わんとする、之を痛ましく思ふ悲愁の心にも、せめて老人にない若さを託せんとする。しかもこれだけの充実、これだけの真面目も動もすれば保ち難いのではないか。

(自己の問題として見たる自然主義的思想)

 


 

 第一高等学校の友人であり〈悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。〉との「巖頭之感」を遺して日光華厳の滝に沈んだ哲学青年藤村操。
 その妹、恭子と結婚した安倍能成は、教育者として、政治家として、また文筆家として、いつの時も自由主義者の立場を鮮明にした態度を貫いてきたのだが、昭和41年6月7日、お茶の水の順天堂大学医学部附属順天堂医院で亡くなった。堂々たる体躯から、歯に衣を着せない批評を放つことを信条としていたが、批判された側からはその人徳からか彼を疎んずる人は少なかったと聞く。



 

 第二次世界大戦後、アメリカ教育使節団が来日した際の歓迎の挨拶で、「正義と真理」による対応を要請したほど硬骨漢であり、自由主義者でもあった安倍能成の墓は、北鎌倉の東慶寺奥域にある墓地に、昭和32年度読売文学賞を受賞した『岩波茂雄伝』の主である岩波茂雄の墓と、同じ夏目漱石門下の野上豊一郎・弥生子夫妻の墓の間に凛然としてあった。
 岩波文庫の礎たちが眠る岩波横丁とよばれているこの区画には、神西清、太田水穂・四賀光子夫妻、小林勇、三枝博音や鈴木大拙などの墓が生け垣に囲まれていたが、霜土を踏み入った先に、昨夜の風雨で散った花生けの紅い花びらが、五輪の塔の火輪に舞い移って心地よさそうに瞬いていた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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