阿部次郎 あべ・じろう(1883—1959)                


 

本名=阿部次郎(あべ・じろう) 
明治16年8月27日—昭和34年10月20日 
享年76歳(老心院殿仁道次朗大居士)
宮城県仙台市青葉区北山2丁目10–1 北山霊園


 
哲学者・評論家。山形県生。東京帝国大学卒。夏目漱石門下。大正3年『三太郎の日記』を発表、青春のバイブルとして著名。11年『人格主義』を発表。慶應義塾大学・日本女子大学・東北大学などの教授をつとめる。『ファウスト』の翻訳者としても知られる。『倫理学の根本問題』『世界文化と日本文化』『残照』などがある。






 

 僕はもう青春と云ふ時代もどうにか通り越してしまつた。僕はこの時代との別離が随分つらかつた。僕は夢にも、戀にも--人生のあらゆるはなやかなものに別れてしまふやうな気がして非常に心綿細かった。しかし今はもうこの別離を大して悲しい事とは思はない。僕は昨今になつて頻に人間は長生しなければ駄目だと思つてゐる。人間の魂が本當に成熟するのはどうしても老年になつてからの事だ。大きい、静かな、波のうねりの深い、見晴らしの廣い、重味のある生活は若い者にはとても味ははれさうにもない。僕はロダンや、イブセンや、トルストイや、ゲーテの老年を思ふと恐しく、なつかしく、望みにみちたやうな気になる。死ぬ前にはゲーテのやうな顔になつて死にたいと云ふのが、おほ気なくも僕の大野心だ。それだのに、今からライフの頂點に達したり、降り坂になつたりしてたまるものか。日本の先輩が、これまで、早く衰へてしまつたのは、彼らの心掛が悪かつたせゐだ。彼らに仕事をさせた力が、一生を貫く内面の要求ではなくて、一時的な青年の情熟にすぎなかつたからだ。フェームに浮かされたり、酒色に耽溺したりして、直ちに内面の要求を見失つたからだ。内面の要求を緊乎と握つてゐるには、老衰などは滅多に来るはずのものではない。

(三太郎の日記)







 

 大正11年に発表された『人格主義』は和辻哲郎、安倍能成、倉田百三など大正教養主義者の代表作として、『三太郎の日記』とともに当時の若者たちの近代的自我を目覚めさせるバイブルともなったのであった。〈余は死に対する不安と動乱とに満ちて死んだのである。死に対する諦めもなく、死後の生活に対する光明もなく、みじめに力なく死んだのである。-—もし死の瞬間に奇蹟的の経験が起って余の精神を霊化するにあらざれば〉——。
 『三太郎の日記』に書かれたこの一節は、阿部次郎32歳、夏の夜の偽らざる心境であるが、それから44年後の昭和34年10月20日、脳軟化症のため東京大学医学部附属病院で逝った彼に奇蹟は起こったのであろうか。



 

 阿部次郎は昭和34年6月、仙台名誉市民に推されたが、その4か月後に死去、仙台市公会堂で市民葬が行われたのだった。また、仙台市は東北大学川内キャンパス周辺の散歩道を整備して「三太郎の小径」と名付け、散歩好きだった次郎を記念した。
 三周忌に納骨されたこの墓は、仙台市街を望む北山の霊園にある。墓地の一等域に眠る「阿部次郎」の自然石碑は、石段下の道をはさんで小さな釈迦如来像と向き合っているのだが、年を経た赤松の枝影が容赦もなく覆い被さり、暗緑色の重苦しい石肌をもてあましているようにさえ見える。春は春、恋人たちが一組、ベンチに腰掛けてなにやら楽しげに話し込んでいる隣域の小さな公園は、仄かに明るくて静寂の柔和な佇みがあった。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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